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下田 淳
(しもだ じゅん)
一九六〇年生まれ。青山学院大学文学部卒業、同大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。ドイツ・トリーア大学歴史学科退学。博士(歴史学)。現在、宇都宮大学教育学部教授。専攻はドイツ史。著書に、『ドイツ近世の聖性と権力』『歴史学「外」論』(いずれも青木書店)、『近代ヨーロッパを読み解く』(共著、ミネルヴァ書房)、『ドイツの民衆文化』『ドイツ文化史入門』(共著)(いずれも昭和堂)などがある。
居酒屋の世界史 (講談社現代新書)
by 下田淳
また、古代人は無償接待を当然とした。金銭を取って飲食物を提供する行為は、下賤とみなされた。この感覚は、貨幣経済が成...続きを読む 立した後まで存続した。だから居酒屋は上流階級からつねに軽蔑された。上流階級は原則的に自宅で、無償で客人を接待した。居酒屋の客はたいがい下層民であった。居酒屋の「多機能性」の観点からみると、それは宿屋を兼ね、エンターテイメントと売春をおこなう施設であった。ヨーロッパ中近世のような「多機能性」はほとんどみられなかった。
メソポタミア文明のシュメール人の粘土板には、紀元前四〇〇〇年頃にビール醸造がおこなわれていたことが記されている(『歴史学事典2』、「ビール」)。しかし、麦類栽培のはじまりからみて、もっと早くからビールは醸造されていたであろう。
ワイン醸造については、その起源を紀元前七〇〇〇~紀元前五〇〇〇年頃とする説がある(内藤『ワインという名のヨーロッパ』、二九頁)。場所はコーカサス山脈南麓というのが一般的であり、その南方にメソポタミアがある。ワイン、ビールともメソポタミア文明で最初に普及した。
居酒屋が記録に登場するのは、文字資料からみると紀元前一八世紀頃である。メソポタミア文明期バビロニア王国(紀元前二〇〇〇~紀元前一五〇〇年頃。現在のイラクを中心としたメソポタミア地方を統一した) の「ハンムラビ法典」に、居酒屋についての規定がある。居酒屋の女主人はビールの支払いを銀ではなく大麦で受け取ること、居酒屋で謀議がおこなわれたら通報すること、尼僧は…
当時のバビロニアでは、女性が自宅でビールをつくり、それを訪れた客に、何かしらの貨幣をとって飲ませていたのであろう。当時は金属や穀物が貨幣として用いられていた。しかし銀は価値があるので、穀物貨幣を流通させようとした規定と読める。また居酒屋での謀議が、すでに古代文明時代…
エジプトでは、紀元前三〇〇〇年頃、ビールの醸造法がメソポタミアから伝わった。ぶどう栽培については、紀元前三〇〇〇年頃までに東地中海沿岸に広まっていた。エジプトでは地中海沿岸地域でしか栽培できなかったため、輸入ワインにもたよった。紀元前一三〇〇年頃、ラムセス二世の時代には王都に居酒屋があって、店内には椅子もあった。ビール、ワイン、なつめやしの蒸留酒を売っていた。ワインの壺にとめ蓋をして店外に置かれたという。ビールはすぐに腐ったのでルピナス(ハウチワマメ) を加えて保存した。エジプトでは、ビールは国民飲料といってよいほど飲まれた(…
一方、前述したなつめやしの蒸留酒(ワインなどの醸造酒を高温で蒸気にし、それを今度は冷やしてふたたび液化してできた酒。ウイスキーや焼酎が代表) の存在は、すでにこの時期、…
人類は、酒を醸造するようになってから居酒屋を誕生させるまで、かなりの時間を要した。これは貨幣経済の成立が居酒屋誕生の条件だからである。それまで人類は、酒を無償で提供しあっていた。古代のケルト人、ゲルマン人、そしてスラヴ人は居酒屋を持っていなかった。彼らは酒や食糧で歓待、もてなしはするが、商売としてではなかった。
ところで、ユダヤ・キリスト教の教義では、酒はどのように位置づけられているのだろう。ユダヤ人の酒はワインである。ビール醸造はおそらくエジプト移住時代(紀元前一七世紀頃?~出エジプトの紀元前一二五〇年頃) にエジプト人から学んだ。しかし、気候的に東地中海東岸にあるユダヤの地では、ぶどう栽培が適していた。だからワインが主流となった。春山行夫『ビールの文化史1』(三五頁) によれば、聖書(旧約聖書の最古の文書は紀元前八世紀頃まとめられた。西暦一世紀にヘブライ語正典が決定) には一四一箇所にワインのことが出ているが、ビールのことは一箇所も出てこないという。私は数えたことがないが、聖書をめくればワインの記述はすぐ目に留まるほどある。
新約聖書(西暦五〇頃~一四〇年頃) ではキリストと弟子たちの「最後の晩餐」が有名である。キリストは弟子たちにパンとワインを取らせ、これはわが身体と血であると語った場面である。以後、キリスト教会では、カトリック、プロテスタントを問わず、晩餐の再現が礼拝の重要な位置を占めている。礼拝では聖職者(ときには信者も)がワインを飲むのである。
カトリックもプロテスタントも、教義では禁酒は説いていない。大酒飲みは、ときには非難されたが、ユダヤ教、キリスト教の教え自体から飲酒が悪いものだという論理は出てこない。これは、禁酒を建前とするイスラム教世界(後述) とちがって、その後のキリスト教世界で居酒屋が発展することに一役買ったことはまちがいない。
ギリシアでは、ワインを水やお湯で薄めて飲むのが、とくに上流階級の「マナー」とされるようになった。原酒で飲むのは北方の蛮族スキタイ人(黒海北方に広がっていた遊牧民。一部はスラヴ人の祖先と考えられている) のやることと、軽蔑されたといわれる( The Inns of Greece and Rome, p.89, 92)。ヘロドトスによれば、スパルタで痛飲しようとするときは、「スキュティア式に注いでやれ」といったという(『歴史』中、二四六頁)。
一般の居酒屋は「ポピーナ」とも呼ばれ、入り口にはL字形のカウンターがあり、その上に大きな丸穴が開いていた。このなかに、それぞれオリーヴ、スペルト小麦、そしてワインが収納されていた。ポピーナの女店員は売春婦でもあった。客が誘うと二階に上がり行為をおこなった(パイヤー『異人歓待の歴史』、一五~一六頁、アンジェラ『古代ローマ人の 24 時間』、一二〇、二八六~二九三頁)。ギリシアは植民都市をイタリア半島にもつくったので、イタリアやローマの居酒屋もギリシアとほぼ同時期か、少し遅れて成立したとみることができよう。
ローマでも、ギリシア同様、酒は原則男性のものであったといわれるが、これは建前で、女性も結構飲んでいたようである。
こうして、古代の諸文明においては、貨幣経済の発展と並行して居酒屋が成立した。貨幣経済は都市に発展するから、古代において農村居酒屋はなかったといってよいだろう。また、居酒屋はつねに宿屋でもあった。さらに、芸人によるエンターテイメントと売春も兼ねておこなわれるようになった。上流階級にとっては軽蔑の対象であり、客はもっぱら下層民にかぎられた。
とくに居酒屋が増加するのは、一六世紀前後であった。理由はこの時期に貨幣・商品経済がいちじるしく発展したことのほかに、教会で酒が飲めなくなったことも関係していた。教会での宴会は、以前から非難されていたが、宗教改革で決定的となった。つまり教会のもっていた俗なる機能を居酒屋に移したのだ。
古代と同様であったのは、知識人や上流階級が居酒屋を悪事の巣窟と非難したことである。上流階級の飲酒の場は基本的に自宅であった。しかしイギリスでは、おそらくロンドンなど大都市にかぎられた現象であろうが、タヴァンと呼ばれたワイン居酒屋が、上流階級のものとして、一六世紀には成立していた。大陸で上流階級が外で飲みだすようになるのは、一八世紀になってからである。
私生活を赤裸々に綴ったことで有名なサミュエル・ピープスの日記は、一六六〇年代のイギリス、とくにロンドンの世相を知る恰好の資料である。彼は下級貴族の部類であったが、当時の上流階級はワインがお好みだったようだ。ピープスも、自宅のワインセラーを自慢している。また彼は、頻繁にワイン居酒屋、つまりタヴァンに通った。友人・知人も同様であった。タヴァンはロンドンの上流階級の集会所、商取引所でもあった。弁護士はタヴァンで仕事をしたという。カフェもすでにロンドンにあった。ピープスも通っている。
ピープスはたまに下層民のエールハウスにも行ったようだ。しかしエールハウスには、つねに売春婦がいると批判している。たとえば一六六一年八月三一日、ピープスは祭り見物の際、エールハウスに立ち寄った。そこに売春婦がひとりふたり寄ってきた。彼が言うには「心からの反感を覚え、そこにいるにも、またそこから出るにも、楽しくなどはちっともなくて、じつに苦労した。人の目につかないかと心配だったのだ」(『サミュエル・ピープスの日記』、二巻、一八七頁) と一見道徳家らしいことを言っている。
これらの五つは地域ごとにちがうから多くの地ビールが生まれるのである。ドイツのビールは一八七一年まで国家統一がなされなかったため、ローカル性をもっていた。現在ポピュラーなのは、以前ドイツのハプスブルク王朝に組み込まれていたチェコのピルスナー醸造所が一八四二年に開発したラガー(現在ピルスナー・ウアクヴェレと呼ばれている) である。この醸造法が現在日本に流通しているビールでもある。
キュミンとトゥルスティ編 The World of the Tavern 所収のミヒャエル・フランクの論文やベティナ・ケメナの著作によれば、上流階級の目からみれば、古代同様、居酒屋、とりわけ都市や街道の居酒屋の評判は、よくなかった。居酒屋は下層民の行くところであり、売春、盗賊の巣窟であった。居酒屋主人は、ビールやワインに水を足してごまかしたり、客を泥酔させたり、毒殺して、財産を自分のものにする輩もいると噂された( The World of the Tavern, p.12-13)。宗教改革以前の神学者・聖職者の文献では、居酒屋は悪魔の発明品として描かれた。たとえば、ドミニコ会のセソリ(一二五〇~一三二二年頃) によれば、居酒屋は悪への誘惑と罪の場所であった(Kaemena, Studien zum Wirtshaus in der deutschen Literatur, p.24)。
一六世紀以後の知識人も、居酒屋を悪魔の業と描いている。ルター(一四八三~一五四六年) は、地獄を大きな居酒屋とみなしたという(同、p.29)。ルターは、「キリスト教界の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に与う」という論説のなかで、キリスト教の祝日が、教会のミサに行かずに飲酒、賭博、怠惰など悪徳の日になっているから、祝日を日曜日だけに原則限定するよう主張し、つぎのように述べている。「そこで何よりもまず、献堂記念祭なるものを絶滅しなければならない。なぜといって、これらは正真正銘の居酒屋、 歳の市、賭博場になってしまっており、もっぱら神の不名誉とたましいの不幸の増大に役立っているだけなのですから」と(『ルター 世界の名著一八』、一四三~一四四頁)。居酒屋を、祝日におこなわれているあらゆる悪徳の場としてみているのである。
一六七九年には、ローテンブルクの教会監督官が、居酒屋の主人たちは神を信じない極悪な人間で、自分の利益のために罪を奨励し顧客の救済を犠牲にしてきたと言っている。一七世紀の終わり頃のカトリック宣教師、アブラハム・ア・サンタ・クララ(一六四四~一七〇九年) は、居酒屋を営む人びとは無信仰であるから、顧客を悪い飲み物で騙したり法外な金額で騙したりする。だから居酒屋…
こうして、居酒屋への否定的な評価が、必ずしも実態を反映しなかったにせよ、上流階級や知識人の頭のなかに深く埋めこまれていたことはたしかである。しかし村の居酒屋は、女性もふくめた村人全員のコミュニティセンターであったから、村の居酒屋への蔑みは、都市民の農民に…
ロシアの代表的酒ウォッカは、一三世紀にスカンジナビア半島から入ったという説と、ロシア独自でつくったという説がある。しかしいずれにせよ、アラビアから蒸留技術が伝わって誕生した酒である。
カバレというフランス語は、オランダ語の「カブレット」、あるいはピカール方言の「カンブレット」由来など諸説がある。最初は小部屋という意味で使われていたが、小部屋で酒を飲むようになったことにともない、居酒屋の意味に転じた(ヌリッソン『酒飲みの社会史』、九九~一〇〇頁)。
一八八一年、パリのモンマルトルに最初の近代的キャバレー「黒猫」が、画家で詩人であったロドルフ・サリによって設立された。詩人、音楽家、作家、画家など芸術家の作品を披露する場としてのキャバレーである。音楽カフェを大衆娯楽の場とするならば、キャバレーは前衛的あるいは新進の芸術のお披露目場であった。もちろん酒も飲めた。日本語で「文芸酒場」と訳す場合があるが、ぴったりである。「黒猫」は客がひしめくほど繁盛して、一八八五年、移転せざるをえなくなった。三階建ての大型新店舗で上演された影絵芝居は、目玉商品となった。巨大なスクリーンが設置されていた(アピニャネジ『キャバレー』上、二九頁以下)。
ワイマル共和国時代のドイツのキャバレーは徐々に芸術性と政治的風刺を喪失していった。風刺のない軽喜劇とヌードダンスが出し物の中心となった。検閲の薄れた共和国のなかで低俗なエンターテイメントのしほうだいとなった。しかし共和国末期には、かつての政治的風刺が戻ってきた。人びとは、共和国のだらしなさを皮肉る芸人に喝采を送った。共和国最後の四年間は大繁盛したが、その背後でナチスの足音が聞こえていた。一九三五年、ドイツで最後のキャバレーがナチ政権によって封鎖された。
もともとキリスト教は飲酒に「甘い」側面がある。修道院で酒をつくり、ミサでは聖職者がワインを飲んだ。もちろん酒の害を説く人びとはいた。ヨーロッパ中世の修道院や教会では酒を飲めたが、泥酔すれば罰(苦行) せられるという規則も定められた。カール大帝は酔っ払って裁判することを禁じた(春山『ビールの文化史1』、八四~八五頁)。しかし、宗教改革者ルターやカルヴァンも禁酒を説いたことはない。
蒸留酒を飲むロシアや北欧(スウェーデン、ノルウェー、フィンランド) においても禁酒運動は展開され、二〇世紀になって禁酒法が一時的に制定される場合もあった。しかし効果はなく、すぐに廃止された(春山『ビールの文化史2』、二九一~二九二頁)。
イスラム圏において、飲酒は禁じられている。しかし居酒屋は存在した。ヨーロッパ同様、下層階級が通う場所と認識されていた。上流階級は自宅で飲んだ。一六世紀にカフェが登場すると上流階級も外に通うようになった。カフェは大衆化し、飲酒をふくめた居酒屋の機能を引き継いだ。それとともに従来の居酒屋は減少した。ただイスラムの居酒屋やカフェは、社交(おしゃべり) とエンターテイメントあるいは売春が主な機能で、ヨーロッパの居酒屋がもった「多機能性」はなかった。また、イスラム圏の居酒屋もカフェも都市の文化であった。
一般にイスラム社会は禁酒文化圏と思われている。ただコーランは、禁酒についてそれほど厳格に定義しているわけではない。このような箇所がある。「酒と 賭 矢 についてみんながお前に質問して来ることであろう。答えてやるがいゝ、これら二つは大変な罪悪ではあるが、また人間に利益になる点もある。だが罪の方が得になるところより大きい」(『コーラン』上、五三頁)。「これ、お前たち、信徒の者よ、酒と賭矢と偶像神と 占 矢 とはいずれも 厭うべきこと、シャイターンの 業 じゃ。心して避けよ。そうすればお前たちきっと運がよくなるぞ。シャイターンめの狙いは酒や賭矢などでお前たちの間に敵意と憎悪を 煽り立て、お前たちにアッラーを忘れさせ、礼拝をなまけるようにしむけるところにあるのじゃ。どうだ、お前たちきっぱりとやめられるかな。アッラーのお言葉に従え」(同、一六八頁)。飲酒が得することもあると書いてある。もちろん罪の方が多くサタンの業の方を強調している。ただこれを読むかぎり、禁酒が得策であるという程度にしか感じないのは私だけか。しかしこれらの啓示をもとに建前ではイスラム社会の飲酒は禁止された。
酒はアラビア語で「ハムル」といった。しかしどういった飲料がハムルに相当するかはイスラム各学派で見解がわかれている(ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』、六九頁以下、二三四頁)。醸造酒は「ナビーズ」と呼ばれた。蒸留酒は、古くは「ルーフ」といったようだ(小林『中東の近代化とイスラム教』、一〇四頁)。醸造酒は、地域ごとにちがいがあった。中央アラビアではなつめやしのナビーズ、イェメンでは蜜蜂酒が飲まれた(『コーヒーとコーヒーハウス』、六九頁)。北イスラム圏(イラク、イランからトルコ、エジプト一帯) では、ワインとビールは、古代オリエント時代から飲まれていた。
一九世紀のはじめに書かれたレインの『エジプト風俗誌』では、エジプト人の上流階級は、ワインやブランデーなどを飲むとある。「適度の飲酒は罪悪でないと考え、平気でおおぴらに飲むものもある」と。下層階級は「ブーゼー」または「ブーザー」と呼ばれる、大麦のパン粉を水に混ぜ、これを発酵させた酒を飲んだ(同、七五頁)。これは古代エジプト時代からあった酒で、ビールの一種である。
イスラム圏にも、じつに多彩な歌手、踊り子、楽師などの芸人がいた。彼らは上流階級の自宅での酒席に雇われた。芸人もそこで酒を飲んだ。女性芸人、とくに踊り子は売春婦でもあった(レイン『エジプト風俗誌』、二三〇、二四三頁など)。彼女たちは楽師をともない、一六世紀以前なら居酒屋、それ以降はカフェで活動した。こうして古来の居酒屋は存続はするが、その機能はカフェに移行していった。 しかしイスラムの居酒屋やカフェは、雑談、エンターテイメント、売春が主な機能で、ヨーロッパの居酒屋がもった「多機能性」はなかった。そして都市に限定された文化であった。
これは、農村でも当てはまり、モスクが人びとのコミュニティセンターとなっていたことを示している。キリスト教の教会もかつては同じであった。しかし教会内のそういった行動は宗教改革前後に批判の対象となり、かわって居酒屋が発達した。イスラム世界では、モスクは人びとのコミュニティセンターとしてかなり最近まで機能しつづけた。だからモスク内で、酒はわからないが、コーヒーを飲み、たばこをふかし、談笑したり、商談や手仕事あるいは職業斡旋などもおこなった。祭りや冠婚葬祭の宴会の場でもあった。イスラム圏では、都市でも農村でも冠婚葬祭の宴会は原則自宅でおこなったが、場合によってはモスクも利用された。とくに農民の住居は、煉瓦と泥でできた粗末なものであったからである。芸人も活動していたかもしれない。都市ではこの機能の一部(社交、エンターテイメント、売春) をカフェが担うようになった。だから都市ではモスクに隣接してカフェが建てられた(図 29 参照)。
居酒屋とともに、民衆にとって重要な役割をはたしたのが茶館である。中国史では、居酒屋よりも茶館研究の方がはるかに進んでいるように思われる。ここでは、居酒屋文化との関連で、その一部を紹介することにしたい。 茶の原産地は中国・雲南省といわれる。伝説によれば、飲茶のはじまりは、漢方薬の神である「神農」が茶を発見したことにあるという。あくまで伝説である。最初は薬であった。薬用から飲料となったのは、前漢時代であった。上流階級用の高級品であった。
このなかで飲酒についての箇所がある(『ヨーロッパ文化と日本文化』、「解題」一〇〇頁以下)。「われわれの間では[食事が]始まると直ぐに酒を飲みはじめる。日本人はほとんど食事が終ったころになって、酒を飲みはじめる」。これは、武士の宴会を見ての見解だろう。庶民の酒の飲み方を描いたものではない。「われわれの間では酒を飲んで前後不覚に陥ることは大きな恥辱であり、不名誉である。日本ではそれを誇りとして語り、『殿Tonoはいかがなされた。』と尋ねると、『酔払ったのだ。』と答える」。これは完全に修道士、それもイエズス会といった禁欲的聖職者の見方である。ヨーロッパでも、とりわけ民衆のあいだでは、酔っ払うことはむしろ名誉であった。祭りのときなどはとくにそうであった(ヌリッソン『酒飲みの社会史』、一〇九頁など)。それを矯正しようとしたのが、まさに教会、とりわけこういった厳格な聖職者であった。
「ヨーロッパでは名誉ある市民が、居酒屋で売る酒を自分の家で売ることは卑しいことである。日本では大いに尊敬されている市民が、それを売ったり、自分の手で計ったりする」という文章もある。「居酒屋で売る酒を自分の家で売る」とはどういうことかよくわからないが、ヨーロッパでは居酒屋が下賤な商売であったと認識されていたことは前述した。それに対して、日本の居酒屋は下賤な商売という認識がなかったということなのか。どうもそうではないようだ。訳者の解説によれば、日本の「大いに尊敬されている市民」とは、醸造業者のことらしいから、居酒屋自体がどう認識されていたかではない。そもそもフロイスは居酒屋などには行かなかったであろう。
少し考えてみよう。「農村への貨幣経済の浸透」が近代資本主義を生むのに貢献したことはすぐに想像できる。「棲み分け」については、たとえば平日と休日の「棲み分け」をみると、月曜から土曜まで勤勉に労働し、日曜日には気晴らししたり、教会に行って精神の安定をはかる。こういった人間集団の方が経済の生産性はあがるであろう。軍隊も強くなるであろう。酒を飲みながら銃や大砲をぶっぱなす軍隊は普通敗北する。これは一例であるが、近代国家の望んだ「棲み分け」は、近代資本主義に適合的なのである。その具体的検証は次作の課題としたい。