居酒屋の世界史 (講談社現代新書)
by 下田淳
また、古代人は無償接待を当然とした。金銭を取って飲食物を提供する行為は、下賤とみなされた。この感覚は、貨幣経済が成立した後まで存続した。だから居酒屋は上流階級からつねに軽蔑された。上流階級は原則的に自宅で、無償で客人を接待した。居酒屋の客はたいがい下層民であった。居酒屋の「多機能性」の観点からみると、それは宿屋を兼ね、エンターテイメントと売春をおこなう施設であった。ヨーロッパ中近世のような「多機能性」はほとんどみられなかった。
ギリシアでは、ワインを水やお湯で薄めて飲むのが、とくに上流階級の「マナー」とされるようになった。原酒で飲むのは北方の蛮族スキタイ人(黒海北方に広がっていた遊牧民。一部はスラヴ人の祖先と考えられている) のやることと、軽蔑されたといわれる( The Inns of Greece and Rome, p.89, 92)。ヘロドトスによれば、スパルタで痛飲しようとするときは、「スキュティア式に注いでやれ」といったという(『歴史』中、二四六頁)。
キュミンとトゥルスティ編 The World of the Tavern 所収のミヒャエル・フランクの論文やベティナ・ケメナの著作によれば、上流階級の目からみれば、古代同様、居酒屋、とりわけ都市や街道の居酒屋の評判は、よくなかった。居酒屋は下層民の行くところであり、売春、盗賊の巣窟であった。居酒屋主人は、ビールやワインに水を足してごまかしたり、客を泥酔させたり、毒殺して、財産を自分のものにする輩もいると噂された( The World of the Tavern, p.12-13)。宗教改革以前の神学者・聖職者の文献では、居酒屋は悪魔の発明品として描かれた。たとえば、ドミニコ会のセソリ(一二五〇~一三二二年頃) によれば、居酒屋は悪への誘惑と罪の場所であった(Kaemena, Studien zum Wirtshaus in der deutschen Literatur, p.24)。