トゥルゲーネフ 初恋
好きな人のためならば全てを投げ打てる献身さ、が
モテる人間になると投げうつ対象が好かれている人、になり得るということ。
そういう安定の一切を捨てて衝動に走る自己満足さ、そういう部分が非道にも映るのかもしれない。
同じことをしているに過ぎないんだ。
これはあくまで本作を離れた一つの考えに過ぎない。けれど、同じような人間との関係性を終えたばかりの私は、彼女の想いを、ジナイーダに重ねて読んで、その上で彼女に思いを馳せていた。
ジナイーダは、悪魔的だ。それでいて美しかった。
P16
周りを 青年 4人に取り囲まれたその人は小さな灰色の花束で 男たちの額を一人一人 順番に叩いているではありませんか
...
きっと自分もあの素敵な指でおでこを弾いてもらえるならこの世の全てをその場で投げ出しても構わないだろうと思ったのではなかったのでしょうか。
P26
「あのね」彼女はピシャリと跳ね除けるように言いました「まだ ご存じないでしょうけれど私とても変わってるの 私にはいつも本当のことを言っていただきたいの さっきお聞きしたけれどあなた16 なんですってね 私は21 ほらね 私の方がずっと年上でしょう だから私にはいつも本当のことしか言ってはいけないの それから私の言うことは何でも聞いてくださいね」と 付け加えました
「私の顔を見てごらんなさい どうして私の方を見てくださらないの」
...
「私を見つめてちょうだい」優しく声をひそめていいます「見られてもちっとも嫌じゃないの あなたの顔好きよ 私たちいいお友達になれそうな気がするけれどあなたは私のこと好きかしら」といたずらっぽく 付け足しました
P62
ジナイーダがいないと胸が塞がり何一つ 頭に浮かんでも来なければ何一つ手にもつかないという有様です。明けても暮れても、ひたすらジナイーダのことばかり考えてしまいます 離れていれば身も焦がすほど なのですがだからと言ってジナイーダがそばにいても気が休まるわけではありません。嫉妬に苦しんだり 自分のつまらなさ加減を思い知ったりバカみたいに プンプン 膨れたりバカみたいに面 練ったりするのですが それでもなお 抗いたい力が働いて否応なくジナイーダに惹かれ、彼女の部屋に足を踏み入れるたびに 幸せのあまり体が震えるのでした。
私がジナイーダに夢中だということはすぐに見抜かれてしまいましたが 別に隠すつもりもありませんでした。ジナイーダは私の恋心を面白がってからかったり 甘やかしたり 苦しめたりしました。相手に この上なく大きな喜びや 深い悲しみをもたらすのが 自分 ただ一人でしかも 相手をどこまでも自分の思い通りにできるとなると それは心地よいものなのかもしれませんが それにしてもジナイーダの手にかかると 情けないことに私はまるで 柔らかい蝋のようでした。
P67
「私があの人を愛してると思っていらっしゃるんじゃないでしょうね。まさか。上から見下ろさなくちゃならないような人なんか愛せないわ。逆に私を押さえつけるような人じゃなくちゃいや。でもありがたいことに そんな人には出会いっこない!だから 誰の虜にもならないの 絶対!」
「ということは決して人を愛さないということですか」
「あら あなたのことは?あなたのこと愛してないかしら」
ジナイーダはそう言うと手袋も先で私の鼻をたたきました
P71
「私のこととても愛してる?」と、しばらくしてから ようやく 言いました。「そうでしょ?」
私は何も答えませんでした。だいたい 答える必要などあるでしょうか。
「そうよね」ずっと私を見つめたままジナイーダは繰り返します。
「そうに決まってる。同じ目をしてるもの」そう言って考え込んだジナイーダは、やがて 両手で顔を覆い そっと囁くのでした。「もう何もかも、いや。いっそのこと 地の果てにでも行ってしまいたい。こんなこと 我慢できない、うまくやっていけない......。この先どうなるんだろう!ああ、つらい......。なんてつらいの!」
「何がそんなにつらいんです」私は恐る恐る尋ねました。
ジナイーダは答えてはくれず、肩をすくめるだけです。
P74
それともひそかに恋敵が現れ、
ふいに君の心をとらえたのか。
突然こう 叫ぶ マイダーノフの鼻声が耳に入った時 私の目はジナイーダの目とかちあいました
ジナイーダは目を伏せ ほんのり 顔を赤らめました。それを見て私は驚き 背筋が冷たくなる思いがしました。
もう 前々から嫉妬を感じてはいたもののジナイーダが恋しているという考えが頭にひらめいたのはこの瞬間が初めてだったのです。「どうしよう!あの人は恋してるんだ!」
私の本当の苦しみはこの時から始まりました。くよくよ 思い悩み ああでもないこうでもないと思い巡らしては考え直しジナイーダの様子を しつこいくらい 見張っているようになりました そうは言ってもできるだけ こっそり 気づかれないようにではありますが。
ジナイーダのみに変化が起きたことは疑いようもありません。一人で散歩に出かけたきり 長いこと 帰ってこなかったり 逆の前に姿を見せず何時間も自分の部屋から出てこなかったり。客の前に姿を見せず何時間も自分の部屋から出てこなかったり。そんなことは 以前にはありませんでした。私は急にものすごく 勘が鋭くなりました。いえ、鋭くなったような気がしました。あいつだろうか それともこいつだろうか___ジナイーダの取り巻きを一人一人 不安な気持ちで思い浮かべては胸の内で問いただしてみます。
P79
「この子を叱ってやってくださいよ。一日中 氷水ばかり飲んでいるんです。胸が弱いっていうのに そんなことをして体にいいものでしょうか」
...
「生きていく ってそんなに楽しいかしら。 周りを見回してご覧になるといいわ。どう、嫌なことばかりでしょう。それとも、そんなことも私には分からない感じられないとお思いなのかしら。今の私は 氷水を飲むと心から満足できるんです___もう幸福がどうのこうのと言っているんじゃありません。つかの間の満足を得られるなら命を犠牲にしたって構わない。それなのに 先生 言ったらそんなつまらない人生を犠牲にするのはもったいないって本気で お説教なさるつもりなのかしら。」
「そうですか」ルーシンが答えます
「気まぐれと自尊心 この2つの言葉があればあなたがどんな人か言い尽くしたことになりますね あなたの性格はこの2つの言葉ですっかり表すことができる」
ジナイーダはヒステリックに笑い出しました。
「見当違いです お会いに行く様 ちゃんと見ていないと遅れを取りますよ メガネでもおかけになったらいかが今の私は気まぐれなんかじゃありません ここに来る人たちをからかったり 自分自身を 笑い者にしたって何が面白い もんですか!」
P86
あるときジナイーダの部屋に行くと籐椅子に座り テーブルのとがった端に頭を押し付けています。やがて 身を起こすと 顔中 涙で濡れているではありませんか。
「ああ!あなただったの!」残忍な 薄笑いを浮かべて言います。「ここにいらして」
私がそばに行くとジナイーダは私の頭に手を乗せいきなり髪の毛を掴んでぐいぐい ひねります。
「痛い」ついに私は音を上げました
「ああ、痛いのね!でも私は痛くないと言うの、痛くないというの?」そう 繰り返します
ほんの一房ですが 私の頭から髪をむしり取ったのに気がついたジナイーダははっとして叫びました。「まあ!なんてことしちゃったのかしら かわいそうに ムッシュー・ヴォルデマール!」
むしり抜いた髪の毛をそっとまっすぐ引っ張って髪に巻き付け指輪のようにして言いました。
「あなたの髪の毛 ロケットに入れて いつも身につけてるわね」
目にはやはり 涙が光っています
「そうしたら少しはあなたの気が晴れるかもしれないでしょ さぁ、じゃ、もうさよならよ」
P88
よく高い壁によじ登って 腰かけ 一人ぼっちでいると自分がひどく不幸で寂しい境遇にいるように思えてきて 我ながら 哀れになったものですか そうした悲しみの感覚が帰って心地よくもあり それにどっぷり浸っていたのかもしれません
P89
「本当に私のことが好きなら私のいる この道に飛び降りて見せて」
ジナイーダがこの言葉を言い終えるか終えないかのうちに、私はもう飛び降りていました 後ろから誰かにどんと押されたような感じでした。壁の高さは 4m ほど。両足で地面に着いたのは良かったのですが 衝撃が大きくて体を支えきれずばったり 倒れ込み 少しの間 気を失ってしまったようです。我に帰った時には目を開けないうちからジナイーダがすぐそばにいることが気配で分かりました。
「可愛い子」ジナイーダは私の上にかがみ込んでいました その声は心配そうでもあり 優しげでもあります。「なんでこんな真似するの。何で言うことなんか聞くのよ。私だって大好きなのに。起きて」
ジナイーダの胸が私の胸の間近で息づき その手が私の頭に触れるや いきなり(この時私の身に 奇跡のようなことが起こったのです!)柔らかくひんやりとした唇が私の顔中 あちこちにキスし始め......私の唇にも触れたのです。でもその時 多分私の表情からもう意識を取り戻していることが分かったのでしょう まだ目を閉じたままにしていたのですがジナイーダはパッド身を起こしてこう言いました。
「さあ、タヌキ寝入りしていちゃダメよ、無鉄砲ないたずらっ子さん、いつまで埃まみれで寝てる おつもり?」
私は起き上がりました。
「日傘を取ってきてくださらない。ほらあんなところまで放り投げちゃったわ。そんな風に人の顔ばかり見ないこと。全く何ておバカさんなんでしょう。怪我はなかった?イラクサが刺さって痛かったんじゃない?人の顔を見ないでって言ってるでしょ。いやだ、この人、何もわからないみたい、返事もしないわ」ジナイーダは独り言をつぶやくように言いました。「ムッシュー・ヴォルデマール、家に帰って体をきれいにするのよ。私の後をつけてきちゃダメ、そんなことしたら承知しませんからね。もう絶対......」
ジナイーダは最後まで言わずにさっさと行ってしまい、私は へなへなと 道端に座り込みました。とても立っていられないのです。イラクサの精霊手がチクチク 痛み 背中は 疼き 頭はクラクラしていましたが この時 味わった点にも登るような幸福感はその後の人生で もう二度と巡ってはきませんでした。至福の間隔は甘い痛みとなって体の隅々まで伝わり とうとう抑えきれなくなった私ははねたり わめいたりしました。そう 私は本当にまだ子供っぽかったのです。
P101
「ああ、俺はバカだった。あの人のことをただ色好みだと思っていたなんて!自分を犠牲にすることに喜びを感じる人がいるんだなあ」
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「僕に愛されるのが嫌なんだ、そうでしょう」自分でも気持ちが高ぶるのを抑えられず 私は暗い声で叫びました。
「いいえ そうじゃないけれど 前とは違った風に愛してほしいの」
「違ったふうって言ったって」
「お友達になりましょう、それがいいの!」ジナイーダは私にバラの花の匂いを嗅がせました。
「だってそうでしょ私の方がずっと年上なんですもの あなたのおばさんになってもおかしくないでしょ 本当にまあおばさんじゃなくても お姉さんくらいにはなれるわ でもあなたは......」
「僕はあなたから見れば どうせ ほんの子供 なんでしょう」私は口を挟みました
「そう子供よ でも可愛くて お利口さんで大好きな いい子」
......
「前はもっと別な風に可愛がってくれたのに」とつぶやくと「まあ」ジナイーダはそう言って横から こちらの顔を覗きました。「この人 ったらなんて 物覚えがいいんでしょう しょうがないわね 今だって可愛がってあげるわ」
そして私の方に鏡込み額に清らかで穏やかなキスをしてくれました。
P131
遠征に出かけて失敗に終わったあの夜から1週間の間に自分の身に起こったことを事細かく話してみろと言われても困り果ててしまうでしょう。 熱に浮かされたような奇妙な1週間でなんだか 混沌としていて どうしようもなく 矛盾した感情 、考え 、疑惑、 希望、 喜び、 苦しみが 嵐のように 渦巻いていました 。自分自身の心の中を覗いてみるのが怖かったのでしょう 。まあ、 16歳の少年に自分の心を覗くことができると仮定しての話ですが。なんであれ はっきり突き止めるのが怖くて 、その日その日が夜まで早く過ぎてくれるようにと それだけを考えて過ごしていました 。でも夜はぐっすり眠ることができました 。物事の表面しか考えない 子供っぽいところが帰って幸いしたのでしょう 。自分が愛されているのかどうか知りたくもありませんでした。 しかしそうかと言って 愛されていないと自ら認めるのも嫌でした。
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フィリップを下がらせ ベッドに倒れ込みました 声あげて泣き出すことも 絶望に打ち 沈むこともありませんでした いつのことでどんな成り行きだったのだろうと思い巡らすこともしなければどうしてもっと前にとっくに察しがつかなかったのだろうと不思議に思うこともありませんでした 父 を責めようという気にさえなりません 今知ったことは自分の力ではもうどうすることもできないのだ 突然 そう思い至るとすっかり打ちのめされてしまいましたもうおしまいだと思いました 私が咲かせていた花は 一つ残らず あっという間にもぎ取られ 足元に投げ捨てられ踏みにじられてしまったのです
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私は思いました そうだ これが本当の恋というものだ これこそ 情熱的な恋愛 献身的な愛だ そして ルーシンの言った言葉をふと思い出しました「自分を犠牲にすることに喜びを感じる人がいる」という言葉です
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「お別れを言いに来たんです」私は答えました「多分もう一生 お会いできないと思って。聞いていらっしゃる かもしれませんが 僕たち 町に戻ることになったんです」ジナイーダは私をじっと見つめました。
「A 聞きました 来てくださってありがとう 実はもう会えないんじゃないかと思っていたの 私のこと悪く思わないでくださいね 時々 意地悪なことをしたけれど私 あなたが思ってるような女じゃないの」
ジナイーダはふっと 顔を背け窓辺に身を寄せました
「そうよ そんなの じゃないの あなたが私のことをいけない女だと思っていらっしゃるのは分かっています」
「僕が?」
「ええ、そう......あなたよ」
「僕が?」悲しく情けない声でそう 繰り返すと次男 いたの 何とも言えない 強烈な魅力に圧倒されて以前と同じように胸が疼き出しました。「僕がですか?家 どうか 信じてください 何をなさろうとどんなに意地悪をなさろうと僕は死ぬまであなたを愛します 命のある限り 思い続けます」
ジナイーダはバット振り向くと両手を大きく広げて 私の頭を抱きしめました そして私に燃えるような熱いキスをしました この長い別れのキスが探し求めていた相手は誰なのか それは知るよしもありません でも私はこの甘さを貪るように 味わいました そんなキスはもう二度とありえないことを知っていたからです
「さようなら、さようなら」と私は繰り返しました
ジナイーダは急に身を振りほどいて行ってしまいました 私も外に出ました その時の気持ちを言葉で言い表すことはとてもできそうにありません 願わくは そんな感情は二度と経験したくありませんが でも もし一緒に一度も経験できないとしたら それはそれで自分のことを不幸だと思うに違いありません。
P140
父に対してはどうだったかというとこれぽっちも恨めしいという気持ちが起こりませんでした それどころか 私の目には 前よりも 帰って父の姿が大きく映ったほどです 心理学者たちがこの矛盾をどんな風に説明しよう が勝手に しなさるがいいでしょう
P144
川面から嫌な 湿気が漂ってきたと思ったら しとしと小雨が降り出して窓 抜けた 灰色の丸太に点々と小さな黒い雨の後をつけていきます
P145
「父さんがこっちを振り返るかもしれない そうなったらおしまいだ」と思いました
それなのに好奇心よりも強く 嫉妬心よりもまだ強く 恐怖 よりも強い 何とも言えない不思議な感情に襲われてそこを動けません。
......
今でもジナイーダの顔が見えるような気がします 悲しそうな それでいて真剣な美しい顔で心からの献身と憂愁と愛と絶望の ようなものがないまでになった、いわく言い難い表情を浮かべています____そんな風に表すしかありません。
ジナイーダはごく短い言葉を口にするものの目を伏せたまま大人しく かたくなに微笑んでいるばかりです。この微笑みを見ただけで 以前のジナイーダらしいジナイーダだと思いました。
...
その時突然私の目の前で信じられないようなことが起こったのです それまで フロックコートの袖の埃を払っていた鞭を基地がいきなり振り上げると肘まで出ているジナイーダの白い腕をピシッと 打ち据えたのです。私はもう少しで悲鳴をあげそうになり自分を抑えるのがやっとでしたが ジナイーダはぐるっと 身震いし黙って父の顔を見合ってからゆっくりその腕を唇に持って行き 真っ赤になっている後にキスしたのです 父は鞭を放り投げ 急いで入り口の階段を駆け上って家の中に飛び込みました
ジナイーダは後ろを振り返り 両手を広げ 頭を反らしてやはり 窓から離れました。
P149
「これが本当の愛なんだ」夜明け 自室の机の前に座って 私は1人でまた つぶやいていました 机の上にはそろそろ ノートや教科書が姿を見せ始めています
「これこそ恋というものなんだ!誰かに打たれたらそれが誰であろうと どんなに愛しい相手であろうと 頭に来て我慢できないだろうと思っていたが本当に相手を愛していれば 我慢できるんだ それを僕は......僕は勘違いしていた」
その1月で私はずいぶん 大人になっていました そして ときめきも悩みも一切 含めて自分の行為などというものは自分の知らない 何者かに比べたら 我ながら ちっぽけで子供っぽくてみじめなものなのではないかと思うようになっていました でもその何者か というのが 具体的にどういうものなのかについてはかろうじて 想像できるかできないかといった程度でしたし 薄暗がりの中で目を凝らしてもどうしても 見分けることのできない美しいけれど 険しく見たこともない顔であるかのように私には恐ろしく感じられるのでした
P152
遠い思い出が蘇ってきて私は翌日にでも早速 昔の「恋人」に会いに行こう と心に決めましたところがあれこれと用事ができて都合がつかず 1週間 2週間と過ぎてしまいました ようやくデムートホテルに行って ドアマンにドーリスカヤ夫人との面会を申し込むと 4日前になくなったと知らされたのです おっさんのための休止と言っていいような死に方でした心臓のあたりを何かに グイと突き上げられたような気がしました 会おうと思えば会えたのに会わなかった もう二度と会えないんだと思うとやりきれず 痛ましい思いが胸に食い込み 力いっぱい 激しく 責め立ててきます「亡くなった!」私は ぼんやり ドアマンの顔を見ながら 繰り返し それから 力なく外に出て どこへ行く という あでもなく歩きだしました。
これまでの もろもろのことが一度に浮かび上がって目の前に広がりましたジナイーダの情熱的できらびやかな 若い 生はこんな結末を迎えることになっていたのか、ジナイーダの生が先を急ぎ 不安に駆られながら 目指していたものはこれだったのか そう思い あの愛しい面影あの目 あの 蒔絵が狭い 棺の中に収められ 湿った地下の闇に埋められているところを想像しました それは当面 まだ生きている私のすぐそば ひょっとすると父の眠っている 墓所から数歩しか離れていないところかもしれません そんなことを考えながら気持ちをこわばらせてさらに想像していくうちに
冷ややかな口元 より死の知らせを受け、
私も冷ややかにそれを聞いた
という一節が胸に響きました。
ああ、 若さよ!青春よ!お前はどんなことにでも 左右されず まるで宇宙の宝物を全て手にしているかのようだ お前は憂いにまで慰めを見いだし 悲しみまで似合ってしまう地震 たっぷりで大胆不敵だから「私は一人で生きていける 見ていてごらんなさい」などと言う そういう そば から月日は飛ぶようにすぎ 数え切れないほどの日々が 後方もなく消えて行き 太陽にさらされた蝋のように、雪のように溶けてしまうというのに。
青春に魅力があるとしたらその魅力の秘密は何でもできるというところではなく何でもできると思えるというところにあるのかもしれません モデル 力を 他に使いようがないまま 無駄遣いしてしまう そこにこそ青春の魅力が潜んでいるのかもしれません 誰もが自分のことを浪費家だと本気で思い込み「ああ、時間を無駄に潰さなかったらどれほどすごいことができただろう!」と本気で考える そこにこそ 潜んでいるのかもしれません。
私自身もそうでした 当時 つまり ほんの束の間を浮かび上がった初恋 の 幻影をふっとため息をつき 物悲しい感覚を味わいながらやっとのことで見送った その頃 私は一体何を望み 何に行きたいし どれほど豊かな未来があると思っていたのでしょうか それに引き換え 臨んだことのうち 果たしてどれだけのことが実現したのでしょうか 早くも人生に 夕闇が迫ってきた 今頃になって 春の暁にあっという間に過ぎて行った雷雨の思い出 ほど みずみずしく愛しいものはないということがようやく分かりました
P156
ジナイーダの死を知って数日してからのこといても立ってもいられず自分からある貧しいおばあさんの死に立ち会うことにしました 私たちと同じ建物に住んでいた人でボロを纏い袋を頭の下に敷いて硬い床板に寝ていましたが 最後は実に辛く苦しそうでした その一生は日々の貧乏な暮らしの中でアクセス もがいているうちにすぎてしまったようなものです 喜びも 蜜のような幸福も味わったことのないこの人にとって死ぬことは苦しいせいからの解放であり 平安でもあるわけですから むしろ 喜ばしいものなのではないかという気がしますところが大分 体が持ちこたえられている間 次第に冷たくなっていく手が胸を押し付け その胸が 未だ苦しげに波打っている間 最後の力が抜けていく間 おばあさんは しきりに十字を切り しきりに「神様私の罪をお許しください」と囁き続け 最後の意識が花火のように散って初めて死を恐れおののく 表情がようやく 目から消えたのです 忘れもしません この哀れなおばあさんの死の床に立ち会った私はジナイーダのことを思って 恐ろしくなりました そしてジナイーダのために父のために そして自分のために祈らずにはいられなくなったのでした。