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Lesbian Harley
思ったんだけど、同性愛者とかが一定数在るのは、男と女の間に存在する緩衝材みたいなもんなんじゃないかな?例えば、男と女は考えることから何から全く違うけど、その男女がきっぱりと異性愛者だけで分かれてしまえば、管理する上では楽かもしれないけど、仲がいい時はいいけど万が一、男女で対立とかが起こった時に修復不可能な戦争になるんじゃないかな?
ゲイはHIVによる激しい差別があったから、LGBTとか一緒くたにすると分かりにくくなるよね。ただ少数派なだけと少数派かつ死につながる病気なんて差別される度合いが全然違うと思う。
共産党は同性愛者を明確に差別してたのに、日本共産党がLGBTとかにすり寄ってるうさん臭さ
井田真木子(いだ・まきこ)
1956年7月19日、神奈川県生まれ。小林聖心女子学院中学校、同高等学校卒業。慶應義塾大学文学部哲学科卒。早川書房に入社し、受付、経理、校正を担当する。1980年、退社。翌年からフリーライターになる[3]。1991年2月、市民団体「動くゲイとレズビアンの会(現・アカー)」が府中青年の家の利用拒否をめぐって東京都を訴える裁判を起こした(東京都青年の家事件)。これを取り上げたテレビのワイドショーを見て興味を抱き、団体メンバーの取材を開始。同年6月、メンバーの新美広(現・アカー代表理事)とともにサンフランシスコのプライドパレードを見に行く[4]。
1991年『プロレス少女伝説』で大宅壮一ノンフィクション賞、1992年『小蓮の恋人』で講談社ノンフィクション賞を受賞。その他の主な著書に『同性愛者たち』『フォーカスな人たち』『十四歳』『かくしてバンドは鳴りやまず』など。2001年3月14日肺水腫により死去。享年44歳。
1993年、『小蓮の恋人』で講談社ノンフィクション賞を受賞。 1994年1月、『同性愛者たち』を出版。 同年3月、団体側の勝訴判決が東京地裁で下された。 口語体を用いて市井の人物たちの横顔を描く革新的なノンフィクションで将来を嘱望されたが、2001年3月14日、肺水腫により急逝した。
44歳の若さで夭逝した天才ノンフィクション作家、井田真木子
もうひとつの青春同性愛者たち (文春文庫)
by 井田 真木子
プロローグ 第一章 ベルリン・一九九三年六月 第二章 憂鬱のサンフランシスコ 第三章 彼らの以前、彼らの以後 第四章 交錯 第五章 僕は神が降臨するのを待っていた 第六章 クリスマスからクリスマスへ 第七章 僕はまだ生きている 第八章 そしてベルリンにいた 第九章 それからの彼ら エピローグ
新美 広 にいみ・ひろし 28 歳(1965年生)東京都生まれ。 都立高校卒業。7年前 10 代~ 20 代の同性愛者で構成する活動団体「動くゲイとレズビアンの会(アカー)」を創立。現在にいたる。
神田政典 かんだ・まさのり 28 歳(1965年生)千葉県生まれ。 米国へ高校留学後、私立大学卒業。私立高校教諭を経て、現在英語学校講師と翻訳業を兼ねる。東京都府中青年の家利用拒否訴訟の原告の一人。
永易至文 ながやす・ゆきふみ 27 歳(1966年生)愛媛県生まれ。 国立大学卒業。現在、教育関係の出版社に勤務。
風間 孝 かざま・たかし 26 歳(1967年生)群馬県生まれ。 私立大学院卒業。現在は予備校講師。同青年の家利用拒否訴訟原告の代表。
大石敏寛 おおいし・としひろ 25 歳(1968年生)千葉県生まれ。 専門学校卒業。コンピューター会社を経て、現在、第 10 回国際エイズ会議組織委員会内 PWA(エイズ患者・感染者)小委員会スポークス・パーソン。
永田雅司 ながた・まさし 25 歳(1968年生)神奈川県生まれ。 専門学校卒業。理容師業を経て、現在書店勤務。同青年の家利用拒否訴訟原告の一人。アカー代表。
古野 直 ふるの・ただし 25 歳(1968年生)東京都生まれ。 私立大学中退。現在、編集プロダクション勤務。
私はこの人物と五年間にわたり、五、六回の旅をともにした。 もともと、あまり言葉で自らを表現する人物ではない。また、感情のアウト・プットがうまいとも言えぬ。その上に長旅の疲れがたまると彼は普段の言葉不足を補うかのように、感情の大爆発をおこした。物言いは、断定そのものになった。
私は同性愛とは何か、異性愛とは何か、性別とは何か、性的指向とは何か、同性愛者の彼と、異性愛者の私を分かつものと、両者が共有できるものはいったい何かと、彼に問い続けていた。いわば自分のポケットには何も持ちあわせずに、あなたのポケットの中身を見せてくれと だ だ をこねていたのだ。性的指向について頭だけでの理解ではなく、いわば腑に落ちる知識の一片さえ、ヒントになる直観ひとつさえ、私はそのとき持ってはいなかった。
だが、彼がそんな問いに答えられるはずもない。第一、同性愛者であるからといって、同性愛とは何かに答えられるはずがあろうか。私は異性愛者だが、それが何ものかと問われて答えようがない。もちろん、性別が男であるからといって男とは何かを確信をもって語れる人がいたら、その人は洞察に 長けているというより、むしろ無根拠な自信家の可能性が高いし、女もまた同じだ。 そもそも、異性へ性的に魅かれるということの実感をいったいどれほどの人が把握し、それを同性へ性的に魅かれる人々との関係においてつかもうとしてきただろうか。
私たちの社会構造が多数派の異性愛者が生きやすいようにできあがっているのは事実だ。ただし、それは一般的傾向であって、絶対的なものではない。
性はたしかに人間の本性だ。しかし、社会における強者と弱者を決めるものは、性的指向のみではない。ある人は同性愛者で攻撃的な性格で経済的な力を持っているかもしれない。別のある人は異性愛者だが、人に突き飛ばされても文句もいえない性格で世渡りがおそろしく下手かもしれない。
とはいえ、新美はつきあってすぐさま滑らかな交際を始められる人物ではない。口数は少ないし、当初は組織の前面に出ることを意識的に押さえていた。最前書いたように、突如としてケンカ腰になることもある。
そのことに思い到ったとき、私の精神的悪あがきは最終的に止まった。何をしても無駄だと諦念したわけではない。HIVは大石のものであると同時に、私のものでもある。同性愛者の男性の彼の問題は、異性愛者の女性の私の問題でもある。社会の変動が怒濤のように押し寄せてきたとき、私たちはともに見知らぬ岸辺へ流されていく小石なのだ。
同性愛者との出会いは、私にそのような変化をもたらした。 変化はほかにもさまざまなところでおこった。 新美や大石やその他のアカーのメンバーを取材しているうちに、メディアを〝ゲイブーム〟なるものが駆け抜けていった。おもに男性同性愛者をTVドラマの、いわば薬味に使ったところから端を発したもので、ゲイであることは、そのとき、先端的であることと同義語だった。しかし、極論を承知でいえば、それは男性同性愛者がHIV感染したとき、〝気持ちの悪い〟セックスをしたツケがまわっただけと断じる態度と裏腹ではないかと思う。
男性同性愛者であること、というより、同性でセックスをすることは非日常的で、よくも悪くもキッチュ(悪趣味)だが刺激的だと、TV制作現場においても多数派を占めた異性愛者は、そう判断したのだ。
しかしゲイブームがメディアでふりまいた同性愛のイメージにかなり錯誤があったことは確かだ。最大の問題は、男性同性愛者の性行為を、男と女が行なうセックスの転写図にしたところだ。 だから〝ゲイブーム〟におけるセックスは、異性愛者のセックスをそのまま同性に置き換えたものになりがちだったのではなかろうか。彼らは〝好きだ〟と言って目をみつめあい、キスをし、腟のかわりに肛門に性器を押し込んだり、フェラチオをしたりする。
ドラマを制作する彼らにとって、男性器は必ず何かに挿入されなければならないものなのだ。その考えの根本をさぐれば、フィスト・ファック─拳を肛門に挿入する性行為─や、極端な場合には頭部を挿入するスカル・ファックが同性愛行為の象徴だという幻想に突き当たる。
性的指向は、後天的心理環境のみによって決まるものでもなく、ましてや単なる趣味嗜好ではない。それは、生まれ落ちるときすでに後天的には不変な要素の多くを生物学的に組みこまれたものだ。要するに、同性愛者は〝なる〟ものではなく、〝ある〟ものなのだ。
このようなルヴェイ氏の考え方は、生物学の一仮説にすぎないが、多田氏はこの論文を引きながら、胎児はもともと女性として生まれたのち、ある特定時期に多量の男性ホルモンの働きかけによって男性になることを指摘する。また、男性を女性から区別して、男性たらしめているY遺伝子の数の少なさや遺伝子配置の粗さをしめして、男性が男性として生まれることの難しさを語り、同性愛は生物学的多型性のひとつの形態だと考えるべきだと述べる。そして同性愛を異常性欲として差別したり道徳的に非難したりするのはまったく根拠のないことだと断じている。
さらに多田氏は性そのものは、けっして自明のものではないと論を進める。ことに男性とはきわめて回りくどい操作を行なわなくては実現できない状態である。具体的に言えば、X遺伝子に比べてひどく貧弱なY遺伝子が、ある時点で、ただひとつのTdfという遺伝子を働かせることによって、何もなければすべて女性として生まれてしまう体を、無理やり軌道修正させ、脳の一部を加工することによって男性という生き物はできあがるのだ。
「私には、女は『存在』だが、男は『現象』に過ぎないように思われる」 多田氏は著書の中でこう語っている。 そのため、男女の間にはさまざまな曖昧な性が存在しているというのに、従来の性に対する絶対主義的な概念は、同性愛者も含めた曖昧な性を持つ人々に対してひどい誤解を行なってきた。それは間違いである。いまや、曖昧な性とその性的行動様式を、自然の性の営みの多様性の中に位置づけることによって人間は生物学的により豊かな種となるのではないか。多田氏はこう結論する。
多田氏の研究は免疫学だから、HIV・エイズがその研究の射程に入ることは考えられないことではないが、氏を、従来の科学者と分ける点は、ヒト免疫不全ウィルスの問題から発してヒトの性的指向や性別の多型性に言及し、あくまでも生物学的上の事実としてではあるが、同性愛者への偏見は誤りであるだけではなく、同性愛も含めた曖昧な性をヒトの自然な性に含…
もちろんルヴェイ氏の仮説も、またそれを引いた多田氏の仮説も、仮説の宿命として完璧ではない。一例をあげれば、両氏の論は、男性の同性愛者と女性の異性愛者を考える上では簡にして要を得たものだと思うが、女性の同性愛者がなぜ〝ある〟のかについては、やや説得力が欠けるのではあるまいか。 「女は『存在』だが、男は『現象』に過ぎないように思われる」 という多田氏の…
さらに一人の異性愛者の女性として我が身をふりかえると自分がそれほど盤石の〝存在〟だろうかという疑問が湧く。私自身は思春期以来、完全に性的対象は男性だけで、女性にはまったく性的指向がむかないのだが、私の周囲だけを見ても、〝女性でもよい〟という人や、〝女性でなくてはだめだ〟という女性は数多くいる。女性であることは、本当に〝存在〟そのものなのだろうか。生物学的…
私は堅苦しいまでの異性愛者だが、世の中が私のような人間ばかりであれば、どれほど社会は窒息観に満ちたものになるだろう。 性は単純に男女の二分別となり、そこには対決か、和合という名目のもとでの一方の屈服かという二者択一しかなくなる。その結果、文化も風土もきわめて平板なものとなるはずだ。当座はよいかもしれない。一見、平穏無事で均質な社会ができるからだ。しかし、均質で無風という状態は、所詮、生き物であるヒトがよく耐えうるものではない。生き物とは本来、いろいろと変化変容しつつ存続するダイナミックなものである。それを無理に、均質で無風、予定調和のみをよしとする社会に嵌め込んで不動としたなら、はたして生き物は生きていけるか。
だが、すべての人がそう思うわけではないらしい。世の中が、かたくなに異性愛のみを基準として貫き通すことを望む人々もいる。たとえば、アメリカにおいては、少数派に〝政治的平等(ポリティカル・コレクトネス)〟を行ないすぎた結果、多数派─白人の男性でプロテスタントにして異性愛者─による反発がこの数年著しいと聞く。また、日本では、〝ゲイブーム〟が去ったあと、拍子抜けしたように性的指向への言及は少なくなった。
第一章 ベルリン・一九九三年六月
彼らはこう主張した。同性愛者がエイズ蔓延の中心となったのは、すなわち、彼らが蔑視と差別のもと、社会のもっとも薄暗い片隅に追いやられ、十全に生きる可能性を封殺されてきたからだ。つまり、社会は同性愛者に対して、実質上、ゆるやかな隔離を行なってきたのである。
日本がベルリンについで、翌年、第一〇回目の国際エイズ会議の開催国となる予定だからである。それは、アジア地域で開かれる初めての会議である。同時に、リスキーグループの顕在化など、欧米を中心に展開されてきたエイズの認識が、巨大な異文化として、極東の国・日本に乗り込む会議とも表現できた。
「私は一人の同性愛者として、同時に、一人の日本人HIV感染者として、ここでスピーチをいたします。 また私は、来年、一人の同性愛者、一人のHIV感染者として、横浜の国際会議へ参加します。そして、その横浜で、私と同じ立場にいる、世界各国のHIV感染者、エイズ患者とともにエイズについて考えたいと切望しています。 どうぞ、みなさん、横浜においでください。一年後にお目にかかりましょう。そして、手を携えてエイズの克服をめざしましょう」
エイズの克服という二〇世紀末最大の課題は、冒頭で述べたように、社会の中で異性愛者と肩を並べて生きる同性愛者の存在を無視しては実現されないからである。先進諸国において、同性愛者はエイズの最大の犠牲者だった。その結果、同性愛者はその課題について、もっとも先鋭的な意識を持つ人々となった。彼らは多数の犠牲者を生んだだけではない。多くの死者からエイズの時代を生きる知恵を得たのである。
その結果、時代の病としてのエイズは、それまで侮蔑、嫌悪、嘲笑でのみ報いられてきた同性愛者を、世間のもっとも薄暗い片隅から解放し、社会の正規の一員としてものを語らせる契機を作ったのである。同性愛者との対話と、彼らの積極的な関与なしにエイズという汎世界的な感染症を理解することは不可能だ。これが、アメリカを始めとする〝エイズ先進国〟の了解である。 一九九〇年代において同性愛者とは何を意味するか。それは、まさに時代を読み解くための最大のキーワードなのだ。
同性愛者がこれからの時代を読み解くための必須事項だという考えは、国際会議の席上でこそ自明とされるが、会議外の世界の事情は異なる。同性愛者はいまだに社会の〝日陰者〟としてあつかわれがちだ。その傾向は日本においてはさらに強く、日本では、普通の人々としての同性愛者の像はないに等しいのだ。同性愛者とは水商売の世界に生きる特殊な性の趣味嗜好の持ち主という意味しかもたない。 ベルリンの会議場での同性愛者のあつかわれかたは、そのような状況にある日本から訪れた彼らの想像を越えるものだった。同性愛者が拍手をもってむかえられる会議場は、彼らにとってまさに異国であり、日本人同性愛者は彼我の落差をまのあたりにして言葉を失った。
大石は、新美の仲間だ。新美はそのほかに三〇〇人におよぶ仲間を日本国内に持っていた。同性愛という共通項を持つ三〇〇人だ。新美は、彼の仲間の集合体に名前をつけた。『動くゲイとレズビアンの会(通称アカー)』である。
はじまりは七年前だ。一九八六年、二一歳の新美広は他四人の同性愛者とともに小さな集まりを作った。当初は失敗の連続だった。創設時の仲間は早々に新美のもとを去った。ある人は、つねに社会の片隅で身をすくめて生きなくてはならない同性愛者の境遇に疲れ、ある人は、同性愛者をまともな人間として扱う気配を見せない世間への憎悪に燃え尽きた。またある人は同性愛者について考える以前に、重くのしかかる生活上の諸問題におしつぶされた。結局、新美一人が残り、新しい仲間を模索することになった。
変化は八〇年代後半に入って訪れた。さまざまな個性と経歴の持ち主が、新美のもとに吸収されたのである。彼らの個性の違いは、日本の同性愛者がいかに広い範囲にわたって遍在するかの証明だった。新美の仲間はさまざまに生まれ、さまざまに育ち、同性愛者であることをさまざまに受け入れた。受け入れ方はまちまちで、同性愛者についての考え方も人生観も異なり、性格にいたっては差異の見本市のようだった。
きわめつきの優等生と、きわめつきの劣等生がともにあり、平和主義者とケンカのプロが同居し、都会にしか生きる場を求められない若者と、田舎の共同体に根を下ろした若者がいた。差別一般が構造的に解消されれば、同性愛者もまた差別から逃れられると夢想するロマンティストと、同性愛者差別解消以外には非情なまでに興味を示さないラジカリストが肩を並べ、温和な常識人と過激な奇人が、遊び好きで傍観を得意とする享楽主義者と、明日は今日よりよくなると信じて努力に 勤しむ刻苦勉励主義者が共存していた。
神田は、自分が同性愛者だと気づいたとき、キリスト教の中でももっとも反同性愛者色の濃いモルモン教徒だった。
永田はきわめて生真面目で、なにごとにせよ思いつめがちな職人気質の男性で、大石は対照的に盛り場での享楽を好むコンピュータープログラマーである。 被取材者の最後の一人、古野直も永田、大石と同じ一九六八年に首都圏近郊で生まれた。両親ともに共産党員で、経済的には恵まれていたが、倫理的にはきわめて強張った特異な家庭環境のもとで、文学を愛する青年として育った。
日本の同性愛者の姿を知りたいと考え、彼らに接触した私が、なにより初めに経験したものは、ひとつの旅だった。その旅なしには、私は同性愛者について一切の実感を得られなかったにちがいない。それは、異性愛者の私が同性愛者の共同体にまぎれこみ、彼らの目に映る自分の姿に初めて対面した旅である。私はその旅の中で、おりおりつきつけられる異性愛者としての自分の像にたじろぎつつ、それを鏡像として、初めて同性愛者と呼ばれる人々と対面することができた。
「僕は六月にサンフランシスコに行きます」 新美は言った。 何をするために行くんですか。私は聞いた。 「ゲイパレードです。サンフランシスコで大きなパレードがあるんですよ。それに参加するんです」 何ですか、その……ゲイパレードというものは。私はたずねた。 「アメリカのあちこちから、同性愛者が一堂に会してパレードをするんです。二〇年近い歴史があるんですが、日本人の同性愛者が参加するのは初めてです。参加するしないは、それほどたいした問題ではないけど、そこに行けば、あらゆる同性愛者に会うことができるという話だから、いろいろと勉強になるんじゃないかと思ってね」
私は、裁判を報じるワイドショーをみてアカーに連絡をとって以来、同性愛とは何か、同性愛者とはどのような人々かという問題に当然の関心を寄せていたが、日本で十分な知識を仕入れることがほとんどできなかった。日本の情報媒体は同性愛の問題について完全に無関心なのだ。まじめな書籍も論文も皆無である。同性愛が精神神経科領域での病理からはずされ、当人がそれを自分の本質として認めているなら精神や心理の障害の原因にならないとされたのは、世界レベルにおいては一九七〇年代初頭だ。以後、同性愛を性的逸脱や精神病理として扱う傾向は全体として減少方向にむかっているが、日本ではその認知がいまだに薄い。日本にとって、それはいまだに変態の一種である。
しかたなく、海外で発表された論文を二〇種あまり取り寄せてみたが、発表年代の古さや文化土壌の違いから、それは満足がいくものではなかった。同性愛についての情報の少なさに、私は途方に暮れていた。新美の仲間たちの本質を十分に知るために、同性愛者と同性愛についての確かな実感が欲しかった。なかんずく、社会の一員として生きる同性愛者とは、どのようなものなのかを知りたいと思った。同性愛者は異性愛者の社会的隣人であるという題目だけでは、あまりにも抽象的すぎる。性的指向において対照関係にある異性愛者と同性愛者の共存の現実的な意味を、いわば肌身に近い感覚を含めて十全に知りたいと思っていた。
第二章 憂鬱のサンフランシスコ
言いつつ、同時に私は反問した。いったい、異性愛者の女性が着るような、とはどういう意味だ? 日本にいるときには、それを、単に〝普通の〟服と表現してはばからなかった。微妙に挑発的なからかいや、冗談や、恋愛感情の応酬の相手から、直接の性の対象までがすべて異性に限られることを、当然として疑ったことはない。そもそも、自分を同性愛者と対照して異性愛者だと規定したことすらなかったではないか。単に〝普通〟の人間だと思っていたではないか。
私は、異性愛者という耳慣れぬ日本語を初めて聞いたときを思い出した。それはほんの三カ月前、アカーに連絡をとり、同性愛者であることを公言する何人もの若者と話して以来のことだった。自分のことを異性愛者だと口に出せるようになったのは、それから二カ月後だ。日本語になじまない武骨な語感に辟易したせいでもある。だが、率直に
言えば、恥ずかしかったのだ。異性愛者というと、まるで自分が 異様な 性癖を持った人間だと告白しているようだった。性をむきだしで顔に押しつけられたような気分に陥った。異性を性的対象にしているという事実が、これほど羞恥を呼ぶものだとは予想もしなかった。それなのに、同性を性の対象としている人たちのことは、これまで同性愛者と呼んで平然としていた。彼らは同性愛者であり、自分は〝普通〟の人間だったのだ。
カストロを、同性愛者たちの〝メッカ〟であるとして、日本の新宿二丁目界隈のゲイバー街のアメリカ版にたとえる向きもあるが、その置き換えは安易すぎる。二丁目はいまだ歓楽街にすぎぬ一面をもつが、カストロは同性愛、異性愛を問わず、生活者がいる街だからだ。そして行政に対する力を持ち、そのうえサンフランシスコでもっとも富裕な経済力を誇っている。そのため、日中の新宿二丁目は、扉をとざしたバーのみが目につく閑散とした街路だが、カストロは昼夜を問わず人が往来し、生活を営む街である。
アメリカでの同性愛者は、六〇年代以前、強烈な社会的抑圧のもとにおかれていた。アメリカは、教義の基本として同性愛を罪と規定し忌避するキリスト教を精神的支柱として成立している。その規範のなかで生きる彼らは絶望的なほど不幸だった。自分が同性愛者であると宣言することは、よくて社会の枠外にほうりだされること、悪ければ、暴力によって物理的に抹殺されることを意味した。彼らは、男女を問わず、強引な社会の抑圧に声もなくおしつぶされていた。
その認識に変化がきざしはじめたのは六〇年代後半だ。その時代、アメリカから始まり、日本を含む北半球の多くの国を席捲した思想、人種、性の多様化の解放運動は、アメリカ本国においては公民権運動に、女性問題においてはウーマンズリブへ結集し、文化においてはカウンターカルチャーの氾濫を、そして日本に波及した結果として、青年たちの〝政治の季節〟を産み落とした。その同じ運動が、既成の性規範の被抑圧者だった同性愛者の解放と顕在化に手を貸したのである。彼らは時代に後押しされ、自分たちの性的指向を殺人者と等価に置く社会と激しく軋みあいながら、次第に少数派としての現実的な力を蓄え始めた。
力とは何を意味したか。それは、自分は同性愛者だと宣言したあとも圧殺されずに、社会の中で生き続ける力のことだ。当初、その力を持つにいたる同性愛者は一握りにすぎなかった。だが次第に多くの同性愛者が、自分の性的指向をあきらかにしたあとも、企業や行政といった社会の表舞台で生き残る可能性を手に入れ始めたのである。
ちなみに、日本語にはまだなじまない性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)という用語も、この頃生まれた。日本ではこれに性 嗜好 と訳語を当てることが多いが、これは原語の意味を考えた場合、まちがっている。性的指向とは、同性愛者であることを、単なるセックスの趣味嗜好の問題から切…
同性愛とは悪い遊びではない。いかがわしい趣味でもない。それは、性という、人間のひとつの本質の状態を表わす言葉である。これが同性愛者の主張だ。同性愛は即物的な性行為からいったん切り離され、より高位の問題として語られるべきだ。それ以外に、凶悪犯罪と同…
私も、また、同性愛に対するそのようなとらえかたに同意する。同意の理由は単純だ。異性愛者である私たちの存在は、今まで、けっして即物的性行為のみから読解され、解釈されることがなかったからである。なぜ、同性愛者だけが、性行為というたったひとつの特異な覗き穴からだけ観察されなくてはならないのだろう。セックスは人間の本質のひとつではあるものの、日常生活においてわずかな一部分をしめる行為でしかない。そして、私たちが異性を性的に好み、ときおりセックスをすること自体が、これまで悪い遊びや異性愛といういかがわしい趣味…
第一、同性との性行為を行なうことだけが同性愛者である証しとはならない。そもそも、性行為としての同性愛は異性愛者にとって不可能なわけではないのだ。現実に多くの異性愛者が、ちょっとした冒険を行なうつもりで同性との性交渉を持っている。また、同性愛者も社会の抑圧下で異性との結婚やセックスを強いられてきた。七〇年代後半以降に出された性行動に関する多くの研究は、同性愛はその行為の有無からは解析できないという点を指摘しているが…
これによれば、三〇歳の男性で異性としか交渉を持たない人の率は八三・一%。恒常的か否かの別なく、同性と交渉を持った経験者は一六・四%(無回答〇・五%、以下のデータも同様に一〇〇%から両者の加算分を差し引いたものが無回答の率)。同じく三〇歳の女性で前者は八八%、後者は八%。すべての年齢層に範囲を広げると、男性で、前者九二・六%、後者六・八%、女性は九〇・八%と八・四%(男性の統計は四八年、女性は五三年に発表)。 もし、この数字を、そのまま同性愛者の率におきかえるとすれば、三〇歳男性の一六%以上が同性愛者ということになるが、いくらなんでも、これは過剰だ。同性愛者の存在率については諸説あり、…
人間にとって性的指向が同性と異性との二方向に分化する事実はおそらく普遍的…
の顕在、潜在の別は、その文化や社会構造のありかたに深く関わる問題だと思う。社会の中で同性愛者がどのように存在するかは、その社会固有の事情によって左右されるのではないか。そして、貧富や文化の差にかかわらず、男性同性愛者が三~七%、女性同性愛者が一~二…
同じ条件のもとに共産主義国家も、宗教国家と同じ状況にある。もっとも共産主義国家において順化させられるのは同性愛者のほうだ。共産主義は同性愛を資本主義の病理とする教義を持つ。そのため、旧ソ連も中華人民共和国も長らく、自国には同性愛者は一人として存在しないという立場を貫いてきた。宗教にも似たその理念に綻びが見え始めるのは、ソ連邦解体を待たなくてはならない。九〇年代にはいって、まずロシアが少数者としての同性愛者を認め、九二年、中華人民共和国もしぶしぶながら自国民が異性愛者だけで構成されていない事実を肯定した。
また、ヒエラルキー社会の最上段に位置する階級が、性愛の楽しみを含め、すべての利益を享受する社会においても近代と事情が異なるだろう。たとえば、ギリシャやローマの貴族階級に同性愛行為が偏在していた例などだ。日本の中世近世における〝衆道〟も同じ事情によって生まれた支配階級の嗜好だと思う。同性愛は基本的に労働力を再生産しない性愛のありかたなので、貴族など、労働と無縁な階級にとって自らの属性とするにふさわしい性愛指向と受け取られたのかもしれない。
実際、きわめて多くの人的労働力が必要とされる一次産業の中では、同性愛はめったに顕在化しないと思う。そこに生きる同性愛者は、社会的抑圧のもとに自らの同性愛に気づくことなく、労働力の…
だが、一次産業労働者も、ある条件下では同性愛者の大群を輩出することがある。たとえば、彼らが農業の不振などによって本来の労働形態による対価を得られなくなり、自らの性を商品として売買する場合だ。端的な例は現代の東南アジアなど先進国との経済格差が大きな国々にみられる。その国の貧困層は、男女を問わず売春という〝商業行為〟によって経済の格差を強引に縫い繕っている。だが、それをもって、タイやフィリピンの人々が好色であるというのが妄言そのものであるように、彼…
そして、今あげたような国や文化の条件を持たない近代国家において、同性愛者は前述した比率で遍在する。そして、それを大幅にうわまわる人々が同性愛行為を経験しているというわけである。すなわち、同性愛行為の経験者の比率から、推定される存在率をさしひいた、三〇歳の男性の九~一三%、女性の六~七%が、性的指向の本質は異性愛においたままで、同性と性交渉を持った計算だ。しかも、キンゼーが調査した時点は、アメリカでの、いわゆる…
この数字が示唆するように、同性愛は単に性行為のある、なしによって読解されるべきものではない。それは、人間の本質のひとつである性が、どのような指向性を持つかという問題であり、その意味で同性に対して性のベクトルが決定されている同性愛者は、異性に対してベクトルが定められている異性愛者と等価である。性的指向という言葉はこのような考えから生まれたものだ。また、異性愛(ヘテロ・セクシュアル)という…
そんなことはありません、と答えようとしていると、ジョージが事態に気がついた。彼は、私とウィルヒナの間に割って入り、小声で言った。 「ウィルヒナ、やめてやってくれよ。彼女はストレートなんだ」 〝ストレートなんだ〟という部分を、ジョージはとくに声をひそめて言った。それが、初めての屈辱だった。なぜ、そんな小声で言わなくてはならないのだ? 私が異性が好きだということは、普通の声で語れないような事柄か。三一歳のグラフィックデザイナーである中国系アメリカ人、ジョージ・チョイは、きわめて礼儀正しい常識人だ。穏やかで暖かい人柄の好青年でもある彼が、私を侮辱しようとして声をひそめたのではないことはよくわかった。これはジョージの問題ではない。つまりこの街では、私がストレートであることが問題なのだ。
「すまない。彼女は実はストレートなんだ」 そう言われるたびに、私は縮みあがった。自分が、何か、ひどくいかがわしいものに成り下がったような気持ちだった。
当時、私の同性愛についての知識はほとんどないと言ってよかった。新美のサンフランシスコ旅行に同行したのは同性愛についての情報を得るためである。アメリカが同性愛者をどのように扱ってきたかもまだ知らない。それが、長く正邪の問題として語られ、多くの同性愛者が、今の私が、ウィルヒナに強制されているように、正しい人間であるために性的指向を変えよと迫られていた歴史にも不明だ。
それは、まことに画期的な事件だった。なぜなら、われわれの隣の家に住む人々がおこした裁判だったからである。隣の家に同性愛者が住むとは予想だにしていなかった人々は、彼らの声を聞いてうろたえた。彼らが自分と同じように普通の人々だったからだ。彼らがもっと変わった外見を持ち、奇矯な行動をする人々であれば、問題は簡単だっただろう。世間は彼らの奇態を安堵して笑うことができる。だが、彼らはまさに隣の家に住む家族の一員以外のなにものでもなかった。提訴は、その意味で世間を不安におとしいれた。
その日、霞が関にある東京地裁七一三法廷は、裁判所の関係者をとまどわせるほど多くの傍聴者を集めた。多くの同性愛者とわずかな異性愛者がいた。おおむねが二〇代の若者だった。原告に立った三人の両親や兄弟姉妹もいた。原告の風間と永田は一五分間の意見陳述で、自分が同性愛者だと気づき、それを受け入れるまでのことを、またアカーに連絡を取り、この世の中に自分以外にも同性愛者がいることを知ったときの安堵と希望を語った。また、日本で同性愛者がおかれている現状を訴えるためには、裁判で素顔と実名をさらすことが必要だったこと、それを彼らの家族も支援していることを述べた。
だが、賑やかな語らいをしばらく眺めていると、その中に、どことなく保護者然とした沈黙を保っている人物がいることに気がついた。彼が新美だった。骨太な体格で、勝気な容貌の青年である。無口で、挙措動作がきわめて落ち着いている。そして、その態度が、彼がその場のヘゲモニーを握っていると直観させた。私は、談笑している若者をかきわけて彼に近づき挨拶をし、彼は自分の名前を告げた。
新美広
だが新美の同性愛についての知識にも限界があり、前述したように、日本における文献は皆無に近かった。結局、私たちは、空しく帰るのもやむなしという覚悟で、プライドパレードに赴く以外になかった。
ゲイメディアが発達したアメリカでは、同性愛についての報道は同性愛者によって行なわれるのが普通だからだ。ゲイメディアは、異性愛者によって支配されていた情報媒体から、同性愛者のための独占区域を奪取する形で生まれた。アメリカでは同性愛者と異性愛者は抑圧と被抑圧の二項対立でとらえられている。それは、まことに単純明快な対立構造で、異性愛者は同性愛者を抑圧し、同性愛者はそれに力で対抗するのである。
「日本では同性愛者が社会的に認知されていないのです。差別の有無以前に、一般市民として同性愛者が生活していることが、まだ意識にのぼっていないんです。だから、ゲイメディアというものも存在しない。日本の出版社やテレビ局にもおおぜいの同性愛者がいるでしょうが、彼らが自分たちの問題について語る土壌はないのです。日本とアメリカは違うのです」
サンフランシスコと日本は、同性愛者の生活事情において絶望的なほどかけ離れていた。八〇年代、すでにサンフランシスコ市は、男女を問わず同性のカップルに、異性の既婚者と同じ福祉や社会保障、法律上の権利を保障する法令をさだめている。彼らは養子の斡旋においても異性愛者と同じ権利を持っている。これは二〇年近い追跡調査の結果、同性愛者の養親に育てられた子供が、異性愛者の養親に育てられた子供に比べて、マイナスの影響を受けないと認められたためである。男性二人、女性二人が養子をわが子として育て、堅実な家庭を営むこともサンフランシスコではまれとは言えない。
たとえば同性愛者のことを話すとき、ほとんどの人は妙な笑いをうかべる。性的な話題を扱うさいに日本人がうかべる隠微な笑いだ。 また、拒否回答を出す前、教育委員会は、前述したように、同性愛者も日帰りで、また風呂に入らなければ、特例として利用を認めてもよいという奇妙な妥協案を提示したことがある。同性愛者は、まさに下半身だけの存在で、性行為以外は何もせずに生涯をすごすと思わなくては出せない提案だろう。
その感想は、一部カストロストリートの真実に抵触するものだった。サンフランシスコのカストロストリートは、たしかに異性愛者に拮抗して同性愛者の権利平等を勝ち取った街だったが、それは、同性愛者の中での平等を意味しなかった。あえて言えば、それは白い肌を持つ共和党支持の男性の同性愛者にとっての平等だ。そのほかの人々は、彼らが頂点を築くヒエラルキーの下部に配置された。ヒエラルキーの下層はアジア系が占め、また、女性はつねに男性の下に位置された。すなわち、アジア系のレズビアンが最下層である。頂点に立つ白人同性愛者の男性は、香港あるいはフィリピン移民のレズビアンが、どれほどの貧困に苦しもうが、街路でレズビアン嫌いの男に殴られようが、ともに闘う姿勢はまず見せない。むしろ、自分たちの富の蓄積に忙殺されている。また、ベトナムやタイの男性同性愛者に関しては権利などには無知な、かわいい〝坊や〟であってほしいと思う一方で、自分たちが異性愛者から二等市民扱いされることには憤激する。
「サンフランシスコは自由な街だから、ゲイだから、アジア人だからって差別されることはないんじゃないの」 彼が感情を爆発させたのは、この発言を聞いたときが初めてだった。場所は、カストロストリート近くの中華料理店。シャンティプロジェクトでのパーティーに先立つこと四日前だった。その日の夜、私たちは、GAPAの事務所を初めて訪ねた。GAPAはジョージ・チョイやゲイリー・タンが所属する、アジアと環太平洋諸島出身の同性愛者の市民団体。彼らは、新美をパレードに招き、サンフランシスコ滞在中、諸般の世話役となってくれた。
サンフランシスコは自由な街だなんて呑気な寝言にすぎない。見てきたわけじゃないが、世界のどこにも完全な自由や平等などあるものか。もしあるなら、誰もカストロストリートを作るはずがない。この街は城砦だ。あなたもそう思ったでしょう。 新美は怒りで歯ぎしりせんばかりだった。カストロは、周囲の圧力から同性愛者が身を守るために作った城砦だ。自由がないからこそ、危険があるからこそ築かれた街なんだ。そう思うでしょう。くりかえし言った。 たしかにそう思う。私はうなずいた。カストロストリートは、サンフランシスコの中では、めだって富裕、小綺麗な街だ。周囲の街から区分された城砦のような街と言えなくもない。だが、それほど激怒しなくても、という感想は胸に呑み込んだ。剣幕はただごとではなかった。
そのとき初めて、彼の怒りの全容を読みとることができた。日本にいても同性愛と同性愛者について十分な知識を得ることはできないが、アメリカにやってくればやってきたで、文化の画然とした格差に悩むだけなのだ。彼我の差に苦しまない、〝お気楽な〟日本人になることができれば別だが、新美には不可能である。切ない使命感に燃え、社交好きでパーティー上手なアメリカ人の中で違和感にさいなまれ、きわめて親切なGAPAの人々に、同じ同性愛者としての共通項より、東アジアと北米大陸の住民の間に横たわる埋めがたい差異のほうを大きく感じていらだっていたのだ。
「ねえ、君。僕は日本人の事情がよくわかる気がするんだ。同じアジア人だからね。アジア人は同性愛を白人とか西欧とかの悪習として片付けたがる。チャイナタウンじゃ、今でも、同性愛は白人にかぶれた息子の悪癖なんだ。日本人も、結局、そのとおりなんだろう? 日本人同性愛者が今までめだたなかったのは、いわゆる西洋の流行として軽んじられてきたからだろう? また一方で、アジア的な家族主義に守られて、家庭の問題として処理されてきたから
なんだろう?」 中国系のゲイリー・タンがこう問うたとき、新美は返答につまって無表情になった。しばらくしてから、…
「家族とか社会とかいう前に、日本にはいったいどれだけの同性愛者がいるのかさえわからないと伝えてくれませんか? そして日本では同性愛が人格のレベルの…
たとえ、そこに根深い人種差別問題があるにせよ、サンフランシスコの同性愛者は交流の場としてのカストロストリートを、統合の象徴としてのプライドパレードを持つ。また、GAPAのようなグループによって、自分たちに通底する文化背景を確認しあうこともできる。サンフランシスコの同性愛者社会が、さまざまな問題を含みながらも、あきらかに新宿二丁目とは雰囲気が異なる、地に足の着いた共同体基盤…
それに比べると、日本の同性愛者はまさに水上に浮いた人々だと、新美は表現した。アカーは、まさにその浮遊する人々を繫ぎ止めるブイとして結成されたが、いったんブイから離れれば、彼らはまた飛散していくのではないか。その不安を持ちつつ、アメリカ…
新美の問いと、GAPAの人々との解答は微妙なところでいつも食い違った。アメリカに根づいて長いGAPAの人々は、同性愛者の共同体を維持するために、すでにそれほど過激な行動や上昇志向を必要としていなかった。彼らはおおむね穏健なリベラリストだった。それがときに新美の態度を荒れさせた。
より卑近な日常生活での食い違いも無視できない問題だった。日常の所作、つきあい、生活行動のすべてにおいて、二六歳の新美広は愚直なまでに日本人の特性を崩さなかった。堅苦しさ、遠慮、抑制の砦にこもり、アメリカの開放的社交との同化を拒否した。
たとえば、彼は一通りの自己紹介と、相手の仕事や役割への礼儀正しい質問を経なければ、けっして会話を始めようとしない。名前も知らない人と親しく口をきくのは、彼にとっては無作法のきわみなのだ。彼は自分を名前で呼ばせなかった。日本にいるときと同じように新美と呼ぶよう求めた。アメリカ式の抱擁を可能なかぎり拒み、おじぎで押し通した。
「彼はとても若いんだ。若いということは、すぐに結果を欲しがるということだ。そして、劇的な効果を求めるということだ。人生は 劇 ではない。しかし一〇〇の退屈を積み重ねることが、たったひとつの成功を生み出すことを、若い人間はなかなか理解しないのは事実じゃないか」
「インテリはインテリでしかない。それ以上でも以下でもないでしょう。もちろん、彼らは多分アメリカにあなたほどの違和感を覚えないでしょう。でも、今、必要なのはまさに違和感であり、日常の苦労じゃないですか。日本での同性愛が何かをわかるためには、安易にアメリカに慣れてはだめなんじゃないですか」
「違和感を持たなければ問題の本質をみないですごしてしまう危険がある。それにくらべれば、たとえ、ときには無礼であっても、普通の日本人としての疑問をぶつけるほうがよいでしょう。そのほうが収穫があるにちがいない。収穫が何であるか今はわからないが、そのうちわかるでしょう。可能性があるのならあきらめるべきじゃないでしょう」
だが、一方アジア系の人々にとって、パレードはいまだに新しい緊張を強いる行事だ。彼らがパレードに参加しはじめたのは八九年、わずか二年前である。参加の直接の原因は、八七年のエイズパニックを経て、それまで同性愛者のヒエラルキーの上部を占有していた白人男性同性愛者の多数が命を落としたことにある。それまで行政や経済に大きな力を持っていた指導的立場の白人を失った同性愛者の共同体は、従来圧倒的下位に置かれていたアジア系同性愛者や、女性の同性愛者の手を借りざるをえなくなった。彼らの協力なしには、同性愛者の共同体の力の維持はすでに困難なのだ。
エイズ以前、パレードは白人の同性愛者による異性愛社会への示威運動にすぎなかった。だがエイズ以降、それはいまだに根深い人種差別の問題をひきずりながらも、より広範囲な同性愛者のためのパレードになりかわったのである。非白人の同性愛者のパレード参加は一九八八年、ネイティブアメリカンを嚆矢とし、翌年東アジア、東南アジア系の人々が加わった。
私は午前一一時の太陽に照らされたマーケットストリートの路上に膝をついた。正面には口切りのグループがいる。ダイクス・オン・ザ・バイクス。すなわち、レズビアンのバイカーたちの集団だ。三〇〇人に及ぶ彼女たちは、全員ハーレー・ダビットソンにまたがり、皮ジャンをまとった黒い一群となって出発を待った。スロットルがふかされ、轟音が地を這い熱波のように押し寄せる。
彼女たちはけっして急がなかった。時計台が一一時を打ったとき、ハーレーの大群は悠然とすべりだした。歓声がおこったのは、最後の一列がマーケットストリートを走り出したときである。ダイクス・オン・ザ・バイクスは鋭く口笛をふき、歓声をあげ、初めて速度をあげた。ある人の長い金髪がなびき、ある人はサングラスを短い黒髪の上にはねあげて六月三〇日の太陽のまばゆさに一瞬目を細め、またある人は風にあおられた皮ジャンの前がひらいて、両
乳房があらわになった。ジッパーをあけたままのジャンパーを裸体に直接まとった彼女は、ハンドルを握りながら空を仰いだ。
それが始まりだった。そして、彼らは永遠と思われるほど長く続き、無限と思われるほど多様だった。グループはひとつとして同じではなかった。半裸で観客に投げキスをし、路上で性行為のまねごとをしてみせる団体のあとには、熱暑のさなか、ネクタイをしめ背広を着込んだ同性愛者の弁護士の一団が続く。レズビアンを友人に持つ異性愛者と同性愛者の混成団体が通ったあとには、全身皮革でおおったSM愛好者の一群が歩く。
家畜を運ぶ車に白人の男女が積載され、もちろんエンジンはついているのだろうが、浮世離れした美丈夫の黒人がその〝家畜〟車を太綱一本で悠然と引き、かたわらで無色に近い碧眼のカウガールの集団が牛追いの鞭を頭上で振り回すパフォーマンスは、路上の報道関係者を逃げまどわせた。カウボーイハットをかぶった彼女たちが振る鞭は、長さが二メートルあまり、厚みが一センチほどだ。一撃されれば機材もろとも叩きふせられるだろう。彼女たちが去…
剣呑な集団ばかりが歩いたわけではない。トライアスロン愛好者の同性愛者団体が行進すればフォークダンス愛好者も踊った。爬虫類の愛好家と犬好きの人々も行進し、同性愛者と動物の権利を守れとシュプレヒコールした。一方で企業内に結成された同性愛者のユニオンも驚くほど広範囲におよんでいる。地元のアップルコンピューターや…
身障者の団体も通る。海軍に結成された同性愛者のHIV感染者の一群が、すでに発症した患者の車椅子を押して続く。九一年時、アメリカの軍隊は同性愛者の兵士の存在を認…
アメリカを訪れて以来の不機嫌と不安は影をひそめた。表情から険が失われ、彼は幸せな放心のさなかにいた。ふと気がつくと、トイレを待つ人たちの行列の中で、静かに順番を待っていた。日本にいるとき、新美はつねに短気だった。無口だが怒りっぽかった。行列をおとなしく待つなどもってのほかの行動である。だが、そのときは一生でも待つことができると思った。
「世界と自分があれほど折り合っていると感じたことはなかったよ。いつも、俺は折り合いが悪かった。気に入らない世界と肌をすりあわせて気分は荒れていた。 なぜかって、それは俺が同性愛者だからだよ。そして、世界は同性愛者が気に入らないし、俺は世界が気に入らないからだよ。いつも世界にムカムカしていた。
でも、そのとき初めて世界と折り合った。アメリカは違和感だらけの国でもあるし、頭にくる国でもあったけど、少なくともそのとき、あの公園の空気は、俺がこの世界に生きていいんだと言っていた。まわりがすべて同性愛者だからじゃないと思う。そんな単純な理由じゃない。新宿二丁目で同性愛者に囲まれていても、あんな気分になったことはないもの。
あれは、パレードの力だったと思う。パレードはすごく奇妙なものでもあったけど、あれを通じて訴えかけられているものは、結局、同性愛者はこの世界に生きていていいんだってこと。そのたったひとつのことを訴えるのに、あれほど大きなパレードを行なったんだと思う。 世界は初めて俺に生きていいと言った。 あのとき初めて、生きていることに不安も不愉快も怒りも感じないですんだんだ」
「私はずっとパレードが嫌いだった。異様な見世物だと思っていた。レザーをまとった白人の同性愛者や、彼らの色情狂めいたしぐさは、恥を忘れた人間の姿でしかなかった。SMの人が通ると肌が粟立ったよ。どうだろう。あなた
にもパレードはそう見えたのではないだろうか」
「いいんだ。そう思ってもいいんだ。だが、こういうことも知っておいてほしい。私がパレードに参加したのは二年前のことだ。ほとんどのアジア人にとって、パレードはそれまで参加するものではなかった。無縁なものだとも思っていたね。だから、実際にパレードを歩きながらも、けっしていい気持ちではなかったよ。恥ずかしかった。緊張もした。まったく楽しめなかった。 ところが、後日、ある中国人の同性愛者が私にこう言ったんだ。私はあなたがパレードを歩いているのを見た。それを見て泣いたよ、と。アジア人もパレードを歩くんだ。私たちは一人ではないんだ。仲間がいるんだ。それが嬉しくて泣いたよと」 それから、私のパレード観は少し変わった。あらためて、それはアジア人にとっても必要なものだと感じ始めたんだよ。
ツンは言った。私も同感だった。パレードはある面では直視しがたいほど凄じいアメリカの〝愛〟の開陳であり、別のある面においてはすでに通俗的な観光名物に堕していた。だがそれは同時にきわめつきの新参者である日本人青年、新美広に生まれて初めての安堵と安定をもたらしたではないか。
もちろん、わからないこともあった。同性愛の、また異性愛の本質については判然としなかった。同性愛、異性愛の差異を、アジアとアメリカの文化格差が上回ったためでもある。ジョージもゲイリーもツンもドナルドも、アジア系の同性愛者として語った。アジア人であることは、そのさい同性愛者であることをうわまわる重要事だった。そしてパレードへの参加は、新美がそのアジア系同性愛者の一員であることを再確認する行為だった。それは同時に、同性愛は深くその個人の本質に関わることであると同時に、個人相互を縫い合わせる文化の背景とは無関係になりたたないことを教えた。
同性愛の問題は、すなわち文化の問題だと認識できたことは貴重だった。日本人の同性愛者の問題は、必ず日本社会を横目で捕捉しつつ、その国が生みだしたあらたな問題として解かれなくてはならない。 つまり、それは、〝先進国・アメリカでは同性愛はすでに市民権を得ている〟というような文脈で解かれてはならない。自国の文化を無視して解読される問題ではないのだ。アジア系アメリカ人についてはともかく、長年、白人が優位をおさめてきたゲイコミュニティと日本の事情は違いすぎる。ハーレーにうちまたがったダイクの大群は刺激的ではあるものの、日本がそこから何かを学びうる光景ではなさそうだ。
同性愛者をどのような社会の一員としてむかえるかという問題は、すぐれて地域的な問題ではないのか。そしてまた現代的な問題でもある。歴史的考察の対象である歌舞伎や衆道の歴史が単線的にのびた先端に、一九九〇年代の同性愛が位置すると考えるのはばかげている。それはあくまでも現代の事情の上で解かれなくてはならない問題なのである。
同性愛者が異性愛者の隣人として顕在化し、パレードが終了したとき、新美が公園をさまよいながら感じたような世界との折り合いを手にするためには、日本の土壌は暴力的ではないが、酷薄にして冷笑的だ。侮蔑と無視が積み重なった瘦せた土地である。
第三章 彼らの以前、彼らの以後
思春期をむかえた同性愛者は、まず自身の資質が周囲の多くの友人、知人、また兄弟、両親と異なることを感じる。最初は、ちょっとヘンな感じにすぎないが、そのうち、それはたしかに異質な手触りを増してくる。違和感は独特のものだ。それまでは、よくも悪くも、周囲の人々と似たりよったりの平凡な少年や少女が、ある日、自分のなかに周囲との決定的な差があることに気づくのである。 それがよいものか、悪いものか、最初のうちは判断もつかないだろう。だが、少なくともそうなりたいと、本人が望んだ結果ではないのだ。個性や癖とも違う、何かヘンな状態、奇妙な違和感である。ふと気づくと、内面に芽生えていた差異なのである。
そのうち、それははっきりとした特徴をそなえはじめる。漠然とした違和感から、あきらかな違いへと移り変るのだ。すなわち、兄弟は、友人は、そして自分を生んだ両親は異性が好きなのに、自分一人は、異性を好まず、性的に同性にひかれるという違いである。 その時点で同性愛という概念を知る人がわずかあり、知らない人が大半をしめる。 だが、知る人も知らぬ人も、まもなく、自分の内面に芽生えた差異がなにかやっかいごとをもたらしそうだという予感を覚え始める。
その予感にとまどう同性愛者は少なくない。彼らの周囲にはそれについて正しく説明できる大人が乏しいのだ。だからといって、友人どうしの会話としても成立しにくい。友人は、異性愛者としての思春期を乗り切るのに精一杯なのだ。 結果、ある人は差異を持つことそのものに恐怖して、また、ある人はそれが暗渠に…
そして、自分にやっかいごとをもちこみそうな差異を内面からふるいおとせないかと、一度ならず試みる。だが、それは微動だにしない。光の届かぬ深い内奥に根をおろしているのだ。 そのうち彼らも、同性愛という根を抜けば、…
私はなにものか。私はいかに生き、いかに死ぬのか。私と私以外の社会はどのように争い、和解するのか。 その問いが彼らを一九八〇年代おわり、新美の仲間として交錯させ、また同じ