以下、中学2年生の時に書いた読書感想文をそのまま掲載:
「あなたの分のメロンはないわ。だって、あなたは私と同じでメロンが嫌いだから…ええ、まちがいないわ」
「そうか、ぼくはメロンが嫌いだったんだ。ママが間違いないと言うなら、間違いない。」
ジュール・ルナール作の「にんじん」。この本は、あらゆる面で私に大きな衝撃を与えたし、私なりの大きな褒め言葉としてあえてこう言いたい。「出来ることならもう二度と読みたくない」。それほどに悲しくて、痛い。
まず、この話の主人公の本当の名前は最後まで分からない。なぜかといえば、この主人公は終始周りから「にんじん」と呼ばれ続けるからである。にんじんは髪色が由来のあだ名だが、友達はもちろん家族からも文中で1度も名前で呼ばれない。そんなにんじんは、なんとも不器用な子供で、優秀な兄や姉と比べられながら精神的ないじめを母親から受け続ける。そんな母の酷い仕打ちや、にんじんの愛に飢える様子などが連作短編のかたちで描かれている。
にんじんの受けた仕打ちの中で、特に私の心を強く揺さぶったものをいくつか紹介しよう。
にんじんは大きくなってもおもらしが治らなかった。だから、ベッドの下にはいつもいわゆるおまるが置いてあったのだが、ある日の夜、母はわざとおまるを隠した。母の思惑通りににんじんがおもらしをすると「なんて臭いなの」「この年になって」「動物以下よ」と騒ぎ立てて兄と姉の前で中傷をくり返した。そして、にんじんのシーツに溜まっていたおしっこをとっておいて、スープに入れてにんじんに食べさせたあと、「自分のしたものをあなたは口に入れたのよ」と罵倒するのだ。それに対する「うん、たぶん、そうじゃないかなって思ったよ」という、とてもおもらしをする年の子供とは思えない大人びたにんじんの返事がすべてを物語っているように思えた。
こんなシーンもある。にんじんは兄と姉と一緒に寮に住んでいて、たまの休暇に帰省することになっていた。久々の両親との再会に心踊らせていたが、母と父どちらに先にキスをしたらいいだろうかと考えているうちに兄と姉はキスをもらい、その時にはにんじん分のキスは残っていなかった。にんじんは泣きたい気分になりながらこう言った。「きっと嬉しくて泣けちゃうんだ。だって、ぼくは思っていることが反対の形で表れてしまうことがよくあるから…」
さて、ここまで話して、にんじんが置かれた環境がどれほど不遇だったかはある程度わかってもらえたと思う。愛を十分に注がれないまま育ったにんじんは、さらに不器用で目立ちたがり屋になっていく。ある先生に特段気に入られている生徒に嫉妬をし、2人が特別な関係にあると校長先生に言いつけ、その先生を辞めさせたり、友達に「甘えるってどういうこと?」と尋ねて、もし甘えられるなら…と想像したりした。愛に飢え空回りしているにんじんの不器用さが、物語の節々から現れている。
そんな中、にんじんが初めて母に反抗した場面がある。理由もなく、バターを買ってきて欲しいという母のお願いを断ったのだ。にんじんは、パパのお願いというなら買ってきてもいいが、ママのお願いは聞かないと言った。そして父とふたりきりで今まで母に受けた仕打ちを余すことなく話し、自分が母親を嫌っていること、母と離れて暮らしたいことを初めて打ち明けた。母への嫌悪を認めることを長い間ためらっていたにんじんは、必死に母の機嫌をとって自分は母に愛されていると言い聞かせてきた。しかし、父との会話の中でいままでママだった人が母親になり、あの女になった。母のネグレクトを受け入れ、淡々と生活をしてきたにんじんが、嫌だという感情を表に出せるようになったのは大きな違いだと思う。しかし勇気を出したにんじんを最後まで肯定しなかった父は、あれでもお前の母さんなのだからとなだめる。
それに対してのにんじんの「別にママのことを言ったんじゃないよ」の一言から、「あの女」が急に「ママ」という建前の存在に戻り、にんじんの心の叫びはここで閉ざされたように思えた。この話に「最後の言葉」というタイトルが付けられていることからも、これが父への最後のSOSだったのではないかと思わせる。
この物語は、姉の結婚が決まった時に、「もう誰も僕を愛してくれない」と嘆いたにんじんの前に母親が現れて、慌てて「…ママ以外からはね!」と付け加えて幕を閉じる。変わりかけたにんじんは、また母親の影に怯えつづけるのだろうか、とすっきりしないままだ。
正直言って、この話は私の置かれている環境とはあまりに違いすぎて、感情移入はもってのほか、「かわいそう」と思うことしか出来ない。ただ、この本が「理解できない」こと、それがこんなにも幸せに感じるのである。