どなたかの本棚で面白そうだったので、ずっと気になっていた脳神経学者オリヴァー・サックスの一冊目はこちらに。
利き腕を怪我した場合、反対の手や足でできることが増えることがある。脳の内部でプログラムや回路が変化して、異なる行動様式を習得したのだ。
このように欠陥や障害により潜在的な力を発揮して躰が再構築されることがある。
このように、人間の脳や身体の病から別の機能が発達する症例に接して、脳の機能だとかそこから構築される人間の個性とかを感じるドキュメンタリー。
『色盲の画家』
65歳のジョナサンは交通事故の頭部損傷で目の認識が変わった。視力は鋭くなり遠くの物が認識できる。しかし色が全くわからなくなった。一時的だが文字も認識できなかった。
色や文字を知っている人が、その認識機能を失くすとどんな感覚になるのか、言葉で説明できます。「アルファベットはギリシャ語かヘブライ語に見える(一時的な障害だった)」とか「赤も黒も真っ黒に見える」とか、元の物を知っているので説明がわかりやすいですね。
そして色盲になったことは、見えない以上の影響が出る。見えるもの全てが醜く感じられ、食べ物も汚らしく思える。明るいところでは見えるものが暗いところにいくと見えなくなる。人間の色も見えないので人付き合いもしづらくなる。自分の感じていることを伝えられずもどかしさも募る。
しかし次第に機能も感覚も順応する。彼は画家なので、独自オンスタイルを持つ絵を描くようになった。(絵は冒頭に収録されている)頭部損傷後の不快感や喪失感を元に新たな感じ方をするようになった。色をなくしたために物事の形を感じるようになった。自分の感覚が研ぎ澄まされるようになった。
医学的には、脳のどこがどのように損傷したのかはわからない。それがどんな変化をもたらせたのかもわからない。それでも人間は順応してゆく。
『最後のヒッピー』
グレッグは思春期の激しい反抗から、ドラッグ、宗教に嵌まり込んだ。やがて視力の衰えや精神の静謐さを併発する。教団は宗教的な高み〜とか言っていたので治療が遅れた。どうやらグレッグは脳神経に巨大な腫瘍ができていたのだ。グレッグは盲目で記憶障害、精神障害で施設に入る。
なんといっても奇妙なのが、自分が盲目だとわかっていない!そんなことあるの!?医師が物を持って「これは何?」と聞くとグレッグは自分が見えていると思っているものを答えるので、見えていないという自己認識がない。テレビがついていれば音を聞いて画面を想像する。グレッグには視覚という認識がなくなっているのでそれが普通だと思っている
グレッグは時間が経過する認識がないので、「この次」がない。例えば両親が毎週見舞いに来るとしても「さっきまでいた。」と思って時間の感覚が持てない。次にいつ来る、も認識できない。認知症とかで「いつ食事をしたか覚えていない」ってこんな感じなのか!
昔の友達のことは覚えているが、例えば幼馴染のAさんと今眼の前にいるAさんが同一人物だと認識できずに「Aさんという名前の人が二人いる」認識。
最後は、コンサートの最中はとても楽しむのに、翌日には全て忘れているというちょっと切ない終わり方。
『トゥレット症候群の外科医』
わめいたり、痙攣したり、他人の言葉や動作を真似したり(反響)、顔をしかめたり、奇妙な行動をしたり、無意識のうちに口汚い言葉や冒涜的な言葉を吐く(汚言)トゥレット症候群。
患者自身も、意志とは違う衝動や脅迫に突き動かされるので自分とは外部の「それ」に強制されている(一種の取り憑かれた)と感じることもある。
しかしは1000人に一人の割合でいると考えられるこの症状は割と身近で、細かい作業に着いている人もいる。著者はそんななかの一人の外科医ベネット博士を密着観察する。
ベネット博士は結婚して子供もいるし、車も小型飛行機も操縦する!助手席の著者は「よそ見してる!?」と気が気でないが、ベネット博士も本当にヤッてはいけないことはわかっていてやらないようだ。そして「空は広いから多少外れたって問題ない」という広大さもなんか良いな。
外科医としての腕も確かだ。どうやら愛する外科医の仕事に没頭するときはもっと深い部分での自分自身になるので、トゥレット症候群が消えるのだそうだ。人間の意識って不思議。
症候群のために読書は難しい。音や文字やレイアウトがきになってしまう。それでも本を楽しむことができないぶん、医学部の教科書は暗記するくらいに覚えられた、という効果にもつながったみたい。そして運動しながらの勉強も別のことに集中できるので良いみたいです。
私は自分自身も何かあるよなーと思っているのですが、ここに書いてあるトゥレット症候群はちょっと心当たりあるんだよなあ。常に独り言を言ったり、一人のときに勝手に口から思わぬことが出てくることは日常です。成長して自重できるようになって人前ではまずいことは言いませんが、ぼーっとして歩いているといきなりよろしくないことを口走りそうなので、常に何かを考えて独り言をコントロールしたり、音楽を聞いて意識を自分に向けるようにしてます。
『「見えて」いても「見えない」』
3歳の発熱(ボリオ?)で躰の麻痺と盲目になったヴァージルは、50歳の時に手術により見えるようになった、はずなんだけど、本人はどうも見えていないようだ。
『色盲の画家』では「見えていた人が見えなくなったらどうなるか」でしたが、こちらは「見えるという感覚を失くしてる人が見えるようになったらどうなるか」です。
自分が見ているものが信じられない、見ているものが自分が頭で認識していたものと結び具かない、見たのもを考える頭がついていかない、録画という概念がない。
ヴァージルは、触ったり聴いたりでものを判断していたため、目が見えても自分が考えていたものとその実物が認識できずに苦労した。眼の前にあるものが人の顔だとわからず、それが動いて声が出るということがわからないとか。
実際に見える物はわかるようになっても、写真では遠近感がつかめないし輪郭もわからない。町に立つ人の写真ではどれがビルでどれが人間かわからない。
赤ちゃんの時は他の神経も発達していないから目で見たものを脳に認識する力ができてゆく。しかし見えない状態に慣れた大人が見えるようになるというのはすでにある認識を覆すのでまったく違う問題になる。
ヴァージルは、目で見て、さらに触ることによって、「見る」ことができるようになった。
しかしまたしても高熱を発して再度視力が悪くなる。このときは、目で見たものを説明はできるが、それがなにか認識できない失認症に近い症状になったみたい。
私は自分や近しい人が「手術すればまた見えるようになるよ」と言われたら手術を勧めてしまうと思いますが、自分が作り上げた認識とそれで積み立てた人生がひっくり返ると言われたら、そんなに簡単なもんじゃないんだなあ…と思いました。
『夢の風景』
生まれ育った故郷を細部にわたり描き続ける男がいる。家の石垣もあらゆる角度から実物そっくりに描くくらいの精密さ。
イタリアの村ポンティトはナチス侵攻で衰退した。フランコは少年時代を過ごした村を懐かしく思いながらも海外で暮らしていた。だが熱を出した時に夢でポンティト・ポンティト・ポンティトを見て、初めて絵筆を取ったら詳細に描けた。
それからはフランコの話はポンティト・ポンティト・ポンティト。強迫観念に取り憑かれてしまったらしい。自分でも自分が描いた絵が、写真とそっくりで驚くくらいだそうだ。
彼の場合は奥さんとか精神科医のお陰で「失われた故郷ポンティト」専門の画家としてメディアで取り上げられたり個展を開くようになれた。
しかしフランコはポンティトには行こうとしなかった。「ポンティトの思い出が終わってしまう」ことを感じていた。
そんなフランコもポンティトに訪れることになった。頭にどの角度からもはっきり映る夢のポンティトと、現在のポンティトの違いに混乱する。
しかしその混乱も受け入れられるようになった。著者によると、ポンティト訪問前は「人の気配を感じない終末後の雰囲気」だったようだが、訪問して混乱が収まった後は「人はいないがちょっと出かけてる感じ」になったんだそうだ。
この章では「記憶」についてだが、一般的に考えられる「記憶とは積み重なり」というものに疑問も湧いてくる。記憶は変化する。それなら「記憶」というものはなくて「思い出す」という動作があるだけだ。記憶には、見直されて新しく思い出されるものもあれば、いつまでもそのままの形で存在するものもある。
『神童たち』
前の章と同じように、詳細な絵を描く話。自閉症の中でもサヴァン症候群と言われるのかな。
知的障害の少年スティーブンは、風景をちょっと見たらその光景を記憶して絵を描くことができる。でも実際のものとところどころ違うところがある。どうやら本人なりに「ここにはあれがあったほうがいい」とか「あの時見た形に、違う時に見た色」を組み合わせるなどしているみたい。どうやら、見たものを覚えるが記憶は連続しない。
その絵は芸術と評価もされるが、著者は「確かに個性はあるけれど、見て覚えたものそのままを描いたら創作といえるのか?」と考えてゆく。
見て覚える能力が優れているので、物真似も上手い。ゲームとしてスティーブンが先生、著者が生徒になったときには、著者の特徴が模倣されていて著者を「甘く見てはいけない」と事故を戒めることになるんだって。また、絵を見たらその画家のタッチを真似することもできる。
著者は「彼らが人の真似をするのは、自己というものを認識できないので、他者を取り入れて個を知りたいからなのか?」と推測しています。しかしその記憶、真似が、世界を表現して探索するというとになっている。
『火星の人類学者』
自閉症全般のことと、自閉症本人から話を聞く。
1940年代に発表された研究ではレオ・カナーは「改善の見込みのない悲惨な状態」として、ハンス・アスペルガーは「きわめて独特な思考や経験は、いつか例外的な業績に繋がるかも知れない」としている。(自閉症という症例自体が、彼らが研究対象にしたよりももっと広範囲ではあるのだが)このころは「先天的なもの」と、「冷たい母親が要因な後天的なもの」という研究の両立だった(うちの子供の一人が「児童精神科診断のグレー」ですが、カウンセラーさんや周りの方々から「母親が悪い」はしょっちゅう言われたわ…(;_;) わたしの母親もなかなか特異なので、私自身も何かあるだろうなあと思ってる)
その後も自閉症の生物学的要素が研究されている。
著者は、重度の自閉症だが現在は食肉の動物行動研究をしているテンプル・グランディンから話を聞く。彼女は「自閉症に生まれて」をテーマの自伝も出している。
自閉症本人が語るので、自分では何を考えているのか、どうしてそうするのかが分かりやすいんですよね。
そして経験豊かな脳神経医師である著者自身も、このような多方面に渡る自閉症の人たちに面会してもまだまだ驚かされることばかり。
表題の意味はテンプルが「自分には人間同士の微妙な感情を読み取るコミュニケーションができない。まるで火星人を研究する人類学者のよう」と言ったことから。