速記者たちの国会秘録
著者 菊地正憲
新潮新書
2010年11月20日 発行
国会の速記者たちは、一番の特等席で政治家を見てきた。発言を細大漏らさず聞く技術は、細かな動作の観察や雰囲気などをもつかみ取ってこそなしえること。彼らは戦後の政治について、貴重な証人になるのではないかという思いで、北海道新聞の記者からフリージャーナリストになった著者が、生存中の元速記者に取材を試みた。しかし、彼らは黒子に徹してきた性格上、そして、公務員の守秘義務から、なかなか口を開いてくれなかった。そういう意味でなかなかの労作といえる1冊。
第1章として、東京裁判から始まる。東京裁判の記録は衆議院の速記者が任にあたっていた。そのうち精鋭5人は、パール意見書の翻訳をするため、東京・芝白金の服部時計店社長宅「ハットリ・ハウス」に“監禁”された。パール意見書はインドのパール判事が東京裁判の無効と全員無罪を述べた少数意見書で、その文書を通訳官が訳していくものを口述筆記して通訳作業が進められた。判決の日までに訳す必要があった。6週間の予定が101日間の拘束に。
その間、外出禁止、屋敷を囲む有刺鉄線の10フィート以内に近づくと射殺もありえる。また、仕事は一切口外してはならない。1人は母親が死んだ時に護衛をつけての外出を許されたが、秘密が漏れた時に自分が疑われかねないから断ったという。ただし、食事は裁判所の2倍出て、ビールも洋酒も好きなだけ飲めた。ビフテキなどの洋食も食べ放題だった。
東京裁判は開廷から2年半で、被告が3人減って25人に。外相松岡洋右、海軍大将永野修身は病死、国家主義指導者の大川周明は梅毒による精神異常を理由に訴追免除。
東京裁判の速記者の一人、20才の寺戸満里子は、真っ先に大川周明のことを思い出すという。被告席から手を伸ばして前列の東条英機の頭をぴしゃりとやった人物だが、彼のことを最初に見たときから「おかしい」と思った。いきなりパジャマで法廷に来たり、突然奇声を上げたり。しかし、寺戸はそれが(罪を逃れるための)芝居だったのでは、と考えている。そんな彼女が一目ぼれしたのは、パール判事だった。
第2章は、難物について。早口など速記泣かせを「難物」、逆を「お客様」という。戦後の新生国会で超難物は「トッキュウ」こと共産党の徳田球一だった。まさに特急並の早口だったのだろう。
昔は録音がなく、一語でも聞き取れなかったら大変。自分の番が回ってくる五分ほど前には速記席に着いて、質問者、答弁者の顔ぶれだけではなく、『与野党が対立してもめそうな雰囲気だな』とか『今日は野次が随分と多いな』といった感触を確かめる必要があった。
議事堂には、内部から外部に通じる秘密の通路があったと、速記者の話。「議事堂が爆撃を受けた際に、天皇や政府要人が脱出するための、溜池方面に抜ける地下通路だったそうです」
別の速記者は、「天皇が国会に出席する際に使う御休所がありまして、その部屋の中のある場所から議事堂西側の議員会館方面に、天皇や要人が脱出できる仕組みになっていると言うんですよ」と証言。この2つが繋がっているかどうかは不明。
第3章は、吉田茂の有名な「バカヤロウ」発言。これだってちゃんと速記者が記録していた。しかし、議事録からは抹消された。その詳細も明らかにされている。速記者の石田は、吉田茂の「バカヤロウ」「無礼」発言が小声だったが記録していた。彼は、傍聴していた知人の新聞記者数名に聞いたが気が付かなかったと言われた。それほど小声だった。
「バカヤロウ」や「無礼」の類は、議長や委員長の許可を得ていない明らかな不規則発言として、通常は公式の会議録には含めない。だが、速記に関する記録部の内部規則として、暴言や野次といった不規則発言があっても、発言を許された者が返答、応酬した場合や正規の発言に関係があった場合には、「……と呼ぶ」「……と呼ぶ者あり」などと原則、内容を書き記すことにしている。このため、石日さんは、(吉田国務大臣「無礼なことを言うな」と呼ぶ)、(吉田国務大臣「バカヤロウ」と呼ぶ)といった具合に、丸括弧を使って、規則どおりに速記文を反訳しておいた。反訳とは速記録を普通の文章に直すこと。
第4章には、思わず笑ってしまうような政治家の発言などを速記者ならではの視点で観察している。
自民党の畠出鶴吉は、昭和30年ごろ、運輸委員会に設置された小委員会の小委員長になったとき、「審議の締めくくりで、委員長として『ご異議ありませんか』と発言すると、議員たちから一斉に『異議なし』と声が上がりました。畠出さんは『それではそのように決します』と再び発言。そこまでは良かった。ところが、その直後、畠出さんが『拍手―』と、催促するみたいに大声で発したんです。どうやら、衆議院事務局の委員部が作成した次第書の卜書きをそのまま読んじゃったんです。場違いな空気が流れて、噴き出しそうになりました」。
昭和27年、井上良二(社会党議員)が、ある特別委員会で、『市井の無頼漢』を『しせいのぶらいかん』ではなく『いちいのむらいかん』と発言。
大蔵省幹部が答弁で言ったとされる「オイカヨサン(追加予算)」、一万田尚登(いちまだひさと)元蔵相の「プラトン輸出(プラント輸出)」、誰が言ったかはっきりしない「ホコトン(矛盾)「ケザワヒガシ(毛沢東)「カタヤマオリグチ(片山哲)などがある。戦後間もなくには、東北訛りが原因と思われる「チンユツチンコ(金融金庫)なんていう単語も議員から飛び出した。
第5章でも、いろいろと名物人のことが。
55年体制が定着した昭和30-40年代に、速記者たちの印象に残ったのは社会党が多い。昭和47年から6回当選の福島県出身、社会党の上坂昇について。
「この人はいつも面白いことを言う人でねえ。農業政策を批判した質問だったのですが、『豚を飼ったらトントンで、牛を飼ってもモウからぬ、鶏を飼ってももとはケエラン、全然だめなんです。何をやったってだめなんです』といった調子で、滔々と発言するんですよ。あまりにも上手に駄酒落が続いたので、速記しながらも笑いをこらえるのに必死でした」
社会党の大出俊も、多くの元速記者が「超」がつく難物として名を挙げていた。飛びっきりの早口で、速記者の仲間内では「大出書けたら一人前」とか、「大出抜けても(書けなくても) 一人前」という言葉さえあった。
第6章は田中角栄について。
「角栄さんは口癖の『まーそのー』の後に予算の金額や統計の単位といった数字が次から次へと出てくるんです。でも、それがけっこう間違ってるんですよ。そもそも早日で速記しにくい上に、確認作業が毎回、必要な人だったんです」
大平正芳については、用意された原稿を読んでいるわけではないのに、文章化してみると″ほぼ完璧〃だったと口を揃えるのである。「『アー、ソノー』を除いてしまえば、言葉の乱れがまったくなく、実に明快でした」
竹下登は「『言語明瞭、意味不明瞭』なんて言われたぐらいですから、発言の意味がつかみにくくて、速記する方は大変でした。質問者に言質を取られないように、わざとのらりくらりと答弁するタイプでね。作品の整った形を意図的に少し変形させる陶芸家を思わせる〃崩しの名手〃だな、と思ったことがあります」
ところで、ハマコーが委員長でありながら突然、共産党の宮本顕治を人殺し呼ばわりした事件があった。
昭和63年2月、衆議院予算委員会。共産党の正森成二が「日本政府は国内的なテロについて泳がせ政策をとっているのでは」と竹下首相に質問すると、委員長の浜田幸一がいきなり「殺人者である宮本顕治・・・」と発言。「昭和八年十二月二十四日、宮本顕治ほか数名により、当時の財政部長小畑達夫を……針金で校め、リンチで殺した」という趣旨の発言をした。これを記録した速記者は、その時に浜田が背広の内ポケットからメモを取り出すのを目撃した。つまり、事件の詳細についてはメモで用意されていた。速記者が尋ねると、浜田は、メモは共産党攻撃の材料として、いざという場面で使えと、中山正暉から渡されていたことを明かした。中山正暉は、ISIL人質事件の時に現地にいた中山外務副大臣の父親。
第7章では、記憶している人がどれぐらいいるのか?青島幸男が国会議員の頃、佐藤栄作に「総理は男妾」だと発言した件。あれは青島幸男が思いつきで言ったように聞こえるが、実はあらかじめ台本があったことが、速記者ならではの確認作業で判明した。速記者西片は、速記録を普通の文章にする反訳で、
「反訳する際、記録部の調査係を通して、参考のために青島さんから質問用原稿を借りたんです。すると、しっかりと『財界の男妾』の文字が手書きで書かれていました。『いかにも青島さんらしいな』と思いましたね」
宮田輝について。
「大臣などによる提案理由の朗読は、いつも発言者の元原稿のコピーを事前にもらって参考にしていました。朗読とはいえ十数分問はかかるので、誰もが必ず最低二、三カ所、読み間違えるんです。ところが、宮田輝さんだけはきっちりと一字一句、間違えずに読み終えることができたんです」
立川談志について。
「あの人は質問の際、『でやんしょ?』なんて江戸弁のような言葉が頻繁に出てくるんですよ。テレビで見るのと同じようにね」
市川房枝はバス通勤(新橋や四ツ谷から専用バスが出ていた)。
「まあ、議員さんですから一番前の席に座ってもらって、職員は後ろの方でした。でも本人はとても庶民的な人で、トレードマークの大きな真珠のネックレスが目立つ以外は、地味で普段着のような格好でした。凛々しい人格者で、速記者の間ではフアンがとても多かったんです」
速記者泣かせの「難物」は、石原慎太郎と、NHK記者から参院議員になった上田哲。石原は難解な言葉がぼんぼんと飛び出した。上田は畳み掛けるような感じ。記録する方はついていくのがやっと。歌手ちあきなおみの往年のヒット曲「喝采」を基に替え歌まで作った。「いつものように呼び出され」で始まり、サビの部分で「あれは上田の哲、速い、書けない、ぼろぼろ抜ける〜、冷や汗たらたらもがく〜 十分問〜」と続く。