リチャード・フラナガンの作品一覧
「リチャード・フラナガン」の「奥のほそ道」「グールド魚類画帖:十二の魚をめぐる小説[新装版]」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「リチャード・フラナガン」の「奥のほそ道」「グールド魚類画帖:十二の魚をめぐる小説[新装版]」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
小説・文芸
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Posted by ブクログ
『ときどき思う。なぜわたしたちはそもそもの始まりに繰り返し戻るのか、なぜわたしたちは、自らの人生と呼ぶ織物の後ろに「なぜ」に応える真実が見つかるかもしれないと、一本の糸を探してはそれを引っ張り、織物をほどこうとするのだろうか、と。だが真実などありはせず、「なぜ」しかない。そしてさらに近づいて見てみれば、その「なぜ」の後ろにまたもう一枚の織物が現れる。そしてその後ろにまたもう一枚、またもう一枚と現れ、いつしかわたしたちは忘れ去る』―『第一章/2』
リチャード・フラナガンを初めて読んだのは十年程前、「グールド魚類画帖 十二の魚をめぐる小説」。そして「奥のほそ道」。これらは小説に分類され、「奥のほそ道」はブッカー賞を受賞。個人的に「シュレーディンガーの猫を追って」のフィリップ・フォレストと印象の重なる作家であり、時に混同さえしてしまう小説家。一方で、本作は「歴史」について考察する一作であり、その分類に属する著作に対するベイリー・ギフォード賞を受賞。ただし、読めば解ると思うけれど「グールド魚類画帖」や「奥のほそ道」と比べて、書きぶりに大きな違いはなく、読んだ印象も同じ象限に着地する。そのことは、訳者あとがきの中でも言及されているが、一八五一年の「白鯨」に対する書評が題辞として引用されているところを見ても、作家が分類に拘っていないということが見て取れる。
『作者は、この作品が歴史なのか、自伝なのか、地名集なのか、悲劇なのか、恋物語なのか、年艦なのか、感傷的な恋愛劇なのか、空想物語なのか、説明する労を取っていない。あれやこれやで成り立っているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。問うたとて、答えはあるのだろうか。
『白鯨』書評、ホバート・タウン・マーキュリー紙、一八五一年』
ではこの本はどんな本なのだろう、そもそも「第七問」とは何を意味しているのだろう、とぼんやり考えながら読んでいると、幾らも頁を捲らない内に二つ目の問いに関する答えに辿り着く。それはチェーホフの短篇の一つにある皮肉な問い掛けであり、それは「答えの無い問い」ということなのだ、と。けれど、調べてみると、チェーホフの短篇「狂った数学者の提起した問題」には同じような不条理な問いが八つあることが判る。ならば他でもない第七問を取り上げた意味は何なのだろう。それもまた頁を進めるに従って徐々に見えて来ることだが、鍵となる言葉は「指示」であり「愛」なのだ、と。
『戦争には倫理に依拠した計算法があるふりをする。実に多くのことができるふりをする。だが戦争においては、単純な算数すら可能ではない。(中略)あの青い朝に散った無数の知られざる死者の魂は捉えられず、計測を拒み、メトリクスを嘲笑う。それら死者の魂は数字の外に在る。チェーホフは、答えを提示するのではなく必要な問いを投げかけるのが文学の役割であるということを信条としていた。チェーホフ最初期の短篇の一つに、学童に出す暗算の問題のパロディがあり、そのなかの第七問が好例である ―― 一八八一年六月一七日水曜日、ある列車が、A駅を午前三時に出発してB駅に午後十一時に到着する予定でしたが、出発直前になって、午後七時までにB駅に到着せよとの指示がありました。より長く愛するのはだれでしょう、男でしょうか、それとも女でしょうか』―『第一章/17』
終戦を広島で戦争捕虜として迎えた父の足跡、日本の敗戦を象徴してしまう新型爆弾、その爆弾を投下する任を追った機長の母親の名前を冠したエノラ・ゲイ号の乗組員の逸話、原爆という言葉を生み出した空想科学小説家H・G・ウェルズの科学的洞察と乱れた私生活、ウェルズが後年記した科学理想郷的著作、その著作に霊感を受けて空想の兵器を現実のものへ変えて行く役割の一端を担う異才レオ・シラードの生涯、と、身近な存在から作家の思索は次々と「連鎖反応」を起こし展開していく。それは一見足元の地点から遠い地平線への飛躍のようだけれど、その連鎖反応の根源には常に作家自身の心の傷があり、言及される過去の困難、苦悩は決して他人事、あるいは客観的な歴史解釈のようなもので合理的に説明され得るものではなく、自身と地続きな問題なのだということが繰り返し示唆される。それは、全ての形の「戦争」「侵略」「差別」と関係があり、タスマニアの歴史にも、それを歴史の必然のように見なす大英帝国的史観にも、ウェルズの書いた「宇宙戦争」にも、地球を襲う火星人という「概念」にも、人間の腹黒い本質が表れているのだ、と。
そして「第七問」に対する作家の答えのような一文に行き着く。
『わたしはこういったことを理解しようと、解決しようと、一篇の小説を書いた。それを書いているあいだ、書くという行為は知り得ないものを知ろうとする方法だと思っていた。書き終えてみると、自分がなにひとつ理解していないことがわかった。―― より長く愛するのはだれだろう』―『第八章/16−17』
しかし、本書がどこか郷愁に満ち、他人事とは思えない寂寥感を読むものの内に共鳴させるのは、著者が決して大きな問題を大上段に振り被って切り捨てるような考察を下さないからであり、差別する側ではなく差別される側の視点が常にそこにあるからだとも言える。そう解って来ると冒頭に引用した自問の意味が更に一段深い所で響き出すのだ。ただし、作家自らが語る作家や作家の家族の逸話がどこまで客観的な事実なのかは、作家自身すら確信を持てないでいる。歴史を語るとは記憶を言語化することに他ならないが、記憶は記録ではなく、感情の起伏による解釈や後年の自己保身のための修正の施されたものに過ぎないのだから。郷愁が須らく愛おしさと結びつくのは記憶が受け入れ易いものに作り直されているからなのだ。
『わたしはどの年に最も雨量が多かったか、あるいは一九六四年や一九六五年の雨量が多かったとするのは正しいか記録をあたることもできるが、わたしが記述しているのは記憶であって事実ではなく、そしてわたしたちは事実によって自分自身を知るのではなく、記憶――その詐術、その回避、その沈黙、そのでっち上げ、その避けられない疑問――によってわたしたちになり、あの狭い居間でゆっくりと円を描いて動き、そのあいだ雨は絶え間なく降りつづき、下地のないトタン屋根を叩きつけ、窓をかすめ、テレビはまた意味をなさず、父は別のダンスと昔の記憶に身をまかせ、わたしたちはともに父の過去をゆっくりと円を描いてめぐる』―『第六章/4』
頁が進むにつれ、大きな問題は、小さな問題と裏腹の問題であることがますます明らかとなってくるのだけれど、それは作家の幼少期の記憶、祖母の記憶、父の記憶、母の記憶と濃密に絡み合う。そのことを作家自ら終盤の第九章にこんな風に記している。
『描くことができない夢を実現することはできない。そしてときにわたしたちは、自分が他人の夢や悪夢に住みついていることに気づき、新たに夢を見る。あなたが今読んでいるこの本は、わたしの父母と故郷の島への、消え去った世界への愛を綴った短い手紙であり、それ以上のものではない』―『第九章/17』
決して「短い」とは言えないけれど、確かに本書は去ってしまった人々や世界への語りかけとして読むのがしっくりと来る。その意味で、本書の目的は第九章までで完結しているとも言えるのだけれど、そもそも著者がそのような思索をすることになった経緯が第十章に記されている。この章を読んだら、翻訳されていない作家の最初の小説「Death of a River Guide」を読んでみたくなった。
Posted by ブクログ
凄まじい本だった。圧倒的。まず描写力がすごい。体験した本人しか書けないんじゃないかと思うような、各人の具体的な感触、思考の流れ、感情。臨場感ありすぎ。
物語の構成も凄い。語られていく断片が徐々にパズルのピースのように埋められていき全貌を露わにし新たな意味を表す。
父親の経験を基に12年をかけて書かれた本。この本には血肉があり、何人もの個人的な叫び、痛み、疑問があり、人類全体の持つ闇、結局のところ暴力とは何なのか、人が人を虐げ続けることとは何なのか、という恐怖や絶望もある。
そして欺瞞や、一つの嘘が人間を壊してしまうということも。
これからもこの本に書かれている一つ一つの文章について考える必要があると思った。
Posted by ブクログ
第二次大戦中、ミャンマーとタイを結ぶ鉄道いわゆる泰緬鉄道の建設に捕虜として従事することになったオーストラリア人医師の人生の物語。その医師の視点だけでなく、他の登場人物の視点からも、また作者の俯瞰的な視点からも物語は描かれる。作者の成就しない恋愛を第1軸、鉄道建設を第2軸、時間軸を第3軸として物語は重層的に展開する。
戦時下の行動を決して善悪の二項対立では評価できないということが繰り返し表現される。
日本人の行動が戯画化されているような印象があるが、これは仕方がないのだろう。
著者リチャードフラナガンの父親が実際に捕虜として鉄道建設に従事し、その体験談をもとに様々な取材をし、12年かけて書き上げたという労作。
さすがはブッカー賞受賞作。最初の章は話があちらこちらに飛び読みにくいがそれは最初の100ページほどなので
そこだけ頑張りましょう。読んで損はなし。
Posted by ブクログ
『彼らはそういったことを考えていたのではない。そういうものだと知っていたのだ』
歴史上の出来事を一つの記号に集約させる。例えば、大化の改新とか、応仁の乱とか、関ヶ原の戦いとか。するとあたかもその様な結果になったのは全て必然であったという錯覚に陥る。それどころか、複雑な要素は至極単純な因果関係に収斂し数学の公式と同じような記憶の対象となってしまう。勧善懲悪。ブラック・アンド・ホワイト。それと同じように泰緬鉄道という言葉の意味するところも、二百字以内で要約可能な出来事に矮小化される。そして自分たちの世代だと、水野晴郎や高島忠夫の顔とともにあの口笛の旋律が喚起され、ウィリアム・ホールデンや早川雪洲の顔が思い浮かんでしまう。
けれども「戦場にかける橋」は余りに西部劇のようだし、「戦場のメリークリスマス」はオリジナルのガンダムのよう。どこかしら青臭い正義感や子供っぽい善悪の価値観に支配されているような気がして、クワイ河マーチや坂本龍一の音楽さえ耳障りなもののように思えたりもする。史実を語ることは容易ではないと理解しつつ、後年の価値観をべったり上塗りされたものを見せられるのは勘弁して欲しいとも思う。それは多分に自分自身の狭量さによる感情だとは認識しているけれど。
リチャード・フラナガンを読むのは「グールド魚類画帖」に続いて二冊目。自分でも意識してはいなかったが新しい翻訳が出ているのに気付きすっと惹き寄せられた。帯に泰緬鉄道にまつわる話であると書いてあったがタイトルの意味するところが気になって手に取る。はじめは一人のオーストラリア人捕虜経験者の少々人生に屈折した物語かと思わせるが、徐々にグールド魚類画帖を思い起こさせる文章が展開する。歴史は断片で語るのがよい。それ以上に適切なフォーマットは無いとも思う。
ここにあるのは価値観の破壊などという生易しいものではない。崩壊し、ばらばらになり、そして全てを手放すことを強制される巨大な力だ。価値観の喪失、その先で待ち受ける諦観。そしてそれと矛盾するような躍動感。今日一日を、日々を生きていくこと、詰まりは生への執着の圧倒。そんなぎりぎりの精神状態の中、自身の中に辛うじて残るもののおぞましさの発見。それが自分自身の腹の底に巣食っていたものであることを改めて知る恐怖。そんなものがフラナガンの書くものの本質であろうと思う。
熱帯特有の湿度、植生、泥、雨、疫病、腐敗。そんなものは、単なる上辺を取り繕う化粧に過ぎない。むしろ、戦地から生還し目の当たりにする清潔な現実に潜む倦怠に気付いてしまう無意識の欲望に似た感情。おぞましいと思いつつ、腹の底に巣食うものに惹かれる心。そんな人間の性を圧倒的な鮮明さでフラナガンは描き出す。湿潤な村上春樹。今のところリチャード・フラナガンは自分にとってそんな位置付けだ。