当初思っていた内容とは違っていて、初めはあまり進まなかったのだけど、上巻の中盤くらいからグッとギアが上がって、そこからはもうグイグイと引きずり込まれて、怒涛の展開に翻弄され、読み終わったいまではぐったりと虚脱しながらこの感想を書いています。
広東で幕を上げるこの作品、なにが起こっているのか明らかにならないまま、あれよあれよと物語は進み、舞台はイギリス、ロンドンからオックスフォードへ。
ほぼ史実通りのなか、たった一つのフィクションが紛れ込まされ、主人公はそのフィクションにまつわる大きな事件へと巻き込まれていきます。それは、「銀」を媒体とした「翻訳の魔法」。異なる言語で、同じ言葉を刻み込んだ銀は、言語間を翻訳した際に発生する「揺らぎ」が、様々な効力を発揮する、という設定になっています。
とはいえ、そのフィクションは、本作にとってはエッセンスにすぎず、主題は異なるところにあります。白人主義全盛の19世紀前半のイギリスを舞台に、その傲慢な植民地主義や、それを支える異文化の「奴隷」たちを通して、現代まで続いている人種差別や文化の搾取といった問題を鋭く抉り出し、また、若者たちの壮絶な青春絵巻を描き切っています。
「銀」に刻み込まれる言葉は、翻訳のときに失われるニュアンスが大きければ大きいほど効力が増すとされているため、ヨーロッパ圏の言語間のように、ニュアンスの差異が少ないものではなく、例えば広東語、例えばサンスクリット語のように、ヨーロッパ圏とはかけ離れた文化圏の言語と対にすることで、その効力が増していく、とされています。
また、「銀」は刻むだけでは効力を発することが出来ず、刻まれた2つの言葉を口に出すことで初めて効果を発揮します。しかし、口に出して効果が出るのは、刻まれた2つの言語を、言語として意識しないレベル、つまり母語として使いこなせるレベルでないといけない、という縛りがあります。
そのため、「銀」による覇権を謳歌している英国における「銀」研究の中枢であるオックスフォードでは、植民地や、それに準ずる国の子供に、母語を使わせながら、英語の英才教育を施し、マルチリンガルの話者へと教育したうえで、「銀」を使いこなせる「翻訳者」として囲い込み、「資源」として活用するということが行われているわけです。
オックスフォードを、そして英国そのものを運営する白人たちは、こうして集めた子供たちをただの道具としてしか見ておらず、有色人種の子供たちは、学校から一歩外に出れば、いえ、「塔」から外に出るだけで、オックスフォードの他の学部の白人たちから偏見にさらされ、女性に至っては更に過酷な状況を受け入れなければなりません。
さらに、集めてきた子供たちの母国に至っては、白人からすれば「蛮人の住む未開地」であり、「劣った人種」と完全に見下している有り様です。
この歪な状況に巻き込まれた主人公たちは、こうした白人主義、植民地主義への抵抗を行う集団と出会い、歴史のうねりに巻き込まれていきます。
これは、今でも根強く世界中にはびこっている白人中心主義や、様々な差別への異議申し立てであり、いわゆる先進国が行っている文化の搾取というもののグロテスクさを描いた作品なのだなあ、と。
そして、世界という大きな視野でなくとも、近現代における日本における、地方の優秀な学生を東京へと吸い上げ、囲い込む施策と同じであり、同様に労働力を確保している手段と同じじゃないかと思ったりしました。地方から労働力を充分に吸い上げられなくなった近年では、その食指を海外へと向けていますね。
コンパクトシティという一見正しそうな理屈には、それぞれの地方にはそれぞれに根ざした文化があって、そこには生活している人達がいる、という側面を完全に無視し、都会から見た「効率化」だけを一方的に押し付けるものだと自分は思っています。それぞれの地域が、それぞれの文化を持ち続けることが、一つの国家の中に多様性をもたらし、国力そのものを底上げしていくものだと思うのですが、中央官僚の視野の狭さでは、そういう視点は持てないのでしょう。
レティという登場人物の、残酷なまでの描かれ方は、この人物こそが影の主人公なのではないかと思ってしまうほどのものでした。物語の中では裏切り者であり悪役ですが、自分をその立場に投影した時、果たして違う行動が取れるだろうか?というのは、非常に大きく重い問いになる、と思います。
本書が世界中で絶賛され、ネビュラ&ローカスのダブルクラウンを初めとした様々な賞を受賞しているということは、まだまだこの世界は捨てたもんじゃない、という気持ちにさせてくれますね。「バベル」が崩壊せず、その奇蹟を世界中で共有できるような、そんな世界がいつか実現されて欲しいものです。