1078円
★再読
ピカソを模写するのメンタルにめちゃくちゃ良いんだけど。ピカソは頭が良いしオシャレだし女にモテモテだし、孤独とか不安が全く見えてこない所が好き。ゴッホより完全なるピカソ派だな。
タンギー親爺、アルルの女、自画像、
ゴッホの絵を模写してると、不安と孤独と絶望と時々半端ない視座の高い絵画への情熱が渦巻いてて、気持ち悪くなってくる。相当変な人だったんだと言うのが絵に表れてる人だよね。
日本人キリスト教知らない人多いからカトリックとプロテスタントはそんな違いないと思ってる人多いけど、全く違うし、ゴッホとゴーギャンが仲違いしたのってそこだと私は思ってるぐらいカトリックとプロテスタントは違う。
ゴッホのキリスト像信仰の話の中で熱心に聖書を読みって描写が沢山出てくるんだけど、やっぱりプロテスタントの信仰とは聖書を読むことなんだろうなと思った。うちの母がカトリックだったからカトリックは一通り知ってるんだけど、母との思い出の中に全く聖書が出てきたことないなと思った。
ゴッホのあの筆のタッチってシニャックの点描から来てるのか
木下 長宏
(きのした ながひろ、1939年6月24日 - )は、日本の美術史学者。横浜国立大学名誉教授。私塾「土曜の午後のABC」を主宰。1966年同志社大学文学部文化学科卒、同大学院美学・美術史博士課程単位取得退学。京都芸術短期大学助教授、教授、1993年『思想史としてのゴッホ』で芸術選奨新人賞受賞。1998年横浜国立大学教授、2005年定年。
面白い
ゴッホって精神疾患発症したの死ぬ前の1年間だけで、あとの9割は色彩研究とかしながら絵を描いてたのに、やたらとゴッホと言えば狂人的な部分が取り沙汰されるのは微妙だと思う。
「「狂気」と「不遇」を一身に担った「炎の人」は、ゴッホの代名詞になっていった。 しかし、彼の生涯をていねいに辿ってみると、「狂気」とされた発作は、最後の一年半にだけ起った出来事である。一年間精神病患者を収容する施療院に入っていたが、発作と発作のあいだに書いた手紙には、「狂気」の仕業と認めなければならないような表現はまったくない。一九世紀後半の医学では、現代のような病状診断はできなかったが、当時ヴィンセントがかかっていた二人の医者は、そろって「癲癇」と診断している。 若いときから自己主張がつよく、激情的な行動に出ることはあったようだが、そういう性向を、晩年一年半に見られた「狂気」の前兆とするのは、問題がある。 その絵にしても、「炎の人」といった先入観を拭って、作品をよく見れば、そこには「狂気」のひとかけらもみつけられない。色彩の配合や筆触の効果など、よく考えた上で作られている。文芸評論家・小林秀雄は、「ゴッホが、精神病者であった事には間違いはないが、彼の絵が現した世界は、狂気の世界ではない」(『近代絵画』)といい、その絵画に隠されている精神的な価値の高さを評価しようとした。 それでもなお今日、ゴッホが狂気の天才画家であるというイメージは支配的で、展覧会が開かれても、狂気を読みとれるような作品が注目されがちだ。「ゴッホの驚くべき創作と共に陳列された全ヨーロッパの千遍一律なる表現派の作品を見ながら、私は狂人たらんと欲しつつも余りに健全なこれらの多数者の中で、ゴッホだけが唯一の高邁なる、且つ、自己の意志に反しての〝狂人〟ではないかとの感じを抱いた」。これは一九一二年のケルンでの展覧会の印象を綴った精神病理学者カール・ヤスパースの言葉だが(『ストリンドベルクとファン・ゴッホ』一九二一年、村上仁訳、一九四六年、山口書店)、こういう考えがいまなお現代人のゴッホ像の基底に埋まっている。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「最も多く自画像を制作した画家といえば、まず、レンブラント・ファン・レイン(一六〇六 ~六九)が思い浮ぶ。油彩、素描、銅版合せて一二〇点を超える。エドゥアルド・ムンク(一八六三 ~一九四四)も一二〇点近い自画像作品を遺している。ヴァン・ゴッホと同世代のポール・セザンヌ(一八三九 ~一九〇六)は六二点(うち油彩鏡像二五点、水彩一点、素描二六点、ほかに群像のなかに自分を描き込んだ作品が一〇点)、ポール・ゴーギャン(一八四八 ~一九〇三)は一五点(油彩。うち鏡像が一四点、ほかにスケッチ風の自画像、陶器に彫った自刻像数点)である。とはいえ、セザンヌは、その画家人生は五〇年近くに及ぶのに対し、ゴーギャンは二〇年、ヴァン・ゴッホはすでに記したように一〇年。活動期間にも違いがあり、作品数だけを比較して自画像を多く描いたとか少なかったとか議論しても、意味はない。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「つまり、ヴァン・ゴッホが自画像を描いたのは、画家人生の後半、三十三歳から三十七歳になるころまでの四年余りのあいだだけなのである。自画像へと向かう内的な理由 ヴァン・ゴッホが多くの自画像を描いたのはモデル代がなかったためではないか、という考えもある。ヴィンセントが、画家になりたいと思い始めたのは、一八七九年の夏。グーピル商会という画商で働いていた弟のテオが、ヴィンセントに、毎月、生活費や制作費の援助のための送金を始めるのが、翌八〇年六月。以来一〇年間、テオの送金は続き、そのお陰でヴィンセントは絵を描き続けることができた。食費も住居費も諸雑費もすべてテオに頼っていた。とくに、絵の制作費には惜しみなくそのお金を注ぎ込んだ。ときには催促することさえあった。 しかし、自画像を集中的に描いたパリ時代は、テオと同居していたから、ほかのどの時期よりもお金には心配しなくてよかったはずだ。パリを出てアルルへ行ったあとの方が、経済的には困っただろうが、自画像の制作は減っていく。エッテンやヌエネンにいたころは、父親から小遣いをもらうのが嫌だったので、テオからのお金を使い果したあと、絵具の支払いやモデル代が足りないと言ったりしている。しかし、自分をモデルにするという考えは思い浮ばなかった。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「ヴァン・ゴッホが画家として生きたのは、一九世紀の終りの一〇年間である。この時代、芸術表現に対する考えかたに大きな変化が起る。ギュスターヴ・クールベ(一八一九 ~七七)が「眼に見えないものは描かない」と言い、印象主義の若い画家たちが「自分の眼に映ったものを映ったように描かなければならない」と主張したとき、描かれた絵は、その画家の「自己表現」となった。つまり、芸術表現というのは一個の人格と個性を持った人間(芸術家)が見つけた世界を表出したものだという考えが共有されるようになったのである。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「ヴィンセントは、絵を描くとき、画面に描かれる絵の背後にあるなにものかをみつけようとしている。絵の世界の彼方にあって、描かれている世界へ深い意味を伝えてくるなにものかをみつけたい、と願っているのである。 絵を描き始めたころ、ボリナージュからテオへ、こんな手紙を書き送っている。 ほんとにできるかどうか、まだまったくぼく自身自信はないのだけれど、しかし、どんなにできが悪くっても、とにかく、人間的なもののなにかを表現している作品をつくりたいのだ。(一八八〇年九月二四日[一三六/一五八]) そして、絵を描きに描いた八年後のアルルでは、 どこにでもある、しみったれたアパルトマンの壁を描く代りに、ぼくはそこに無限を描くのだ。(一八八八年八月一八日[五二〇/六六三]) と書く。「人間的なもののなにか」と「無限」、この二つの言葉をつないでいるのは、絵画は、現実の表面を写し出しているのではだめだ、現実の背後、その彼方に隠れているものを見つけ出し描かねばならないという考えである。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「 そこに、ロンドン支店転勤となったヴィンセントに起った一つの事件を、ヨーは誌している。ロンドンで、ヴィンセントは下宿先の娘に恋をしたのだった。しかし、彼女には婚約者がいた。ヴィンセントは、婚約を解消させようとしたが失敗に終った。「この最初の大きな悲しみで、彼の性格は一変した」と、あたかも見て来たかのようにヨーは誌している。 ハーグ時代のヴィンセントは、よく働く好い印象を与える青年だったが、この失恋を境に無口になり、宗教にのめり込み、画商の仕事にも身が入らなくなった。このころから時間があれば聖書を読むようになった。パリ支店に転勤させられたが、その勤務態度は会社に歓迎されず、一八七六年三月いっぱいで、グーピル商会を解雇された。 イギリスの東南部ラムズゲイトにある小さい私立学校に無給の助教という職をみつけるが、そこもすぐに辞め、七月にはアイズルワースのトマス・ S・ジョーンズ牧師が経営する学校に移る。そこでは、ジョーンズ牧師の後押しを得て、教会で説教もした。しかし、この学校も半年で辞め、一八七七年一月オランダに戻り、ドルトレヒトの書店で働くようになる。 ジョーンズ師のもとを去り、書店員になったのは、ヴィンセントと同名の伯父の差し金によるものだったことをヨーは仄めかしている。この伯父は、もともと画商だったが病身であったため、自分の店をグーピル商会に譲って隠居生活をしていた。ヴィンセントやテオをグーピル商会に送り込んだのがこの伯父である。伯父というより、伯父や父の背後にあるヴァン・ゴッホ家の大家族主義の方針によって、二人は人生行路の第一歩を決められていったのである。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「 昔の上司テルステーフや、母方の従妹アリエッテと結婚した画家アントン・マウフェ(一八三八 ~八八)にも、いろいろ教えてもらい、本を借りたり、絵具をもらったりして、積極的に先輩の意見に耳を傾けようとしてはいた。マウフェは、当時すでにオランダでよく知られた画家だった。そんな人物が親戚にいることをヴィンセントはとても嬉しく思っていて、画商時代から、「マウフェによろしく伝えてくれ」としばしばテオへの手紙に書き添えている。絵を描こうと思い立ってからは、なおさら、マウフェは頼りになる存在だった。「すぐにもいっぺんマウフェを訪ねて、ぼくが絵画を始めていいか、話し合ってみたい」(ラッパルトへの手紙、一八八一年一〇月一二日[ R 1/一七四])などと言っている。ここでの「絵画」は、油彩画のことを指している。ヴィンセントは、なによりも基礎をしっかり勉強しなければ油彩に手を出していけないと自分を戒めて素描を続けてきたが、油彩を描きたいという逸る気持も抑えられなかったのである。 しかし、結局は、早くに自分で固めていた考えを譲ることはしなかった。マウフェも最初は親身になって指導してくれたが、最後には見捨ててしまった。疎遠になる直接の原因は、ヴィンセントが娼婦と同棲し始めたことにあるだろうが、シーン一家といっしょに住むということは、ヴィンセントにとっては、どのような絵を描くかという「絵画」意識に関わることだった。どのような絵を描くかという問題は、ヴィンセントにとっては、どのように生きるかという問題と等価だった。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「画商時代の上司テルステーフにも、よく相談にのってもらい、デッサンの指導書やいろいろな版画、本などを借りたりもらったりしている。テルステーフの意見も、マウフェの助言も、ラッパルトとの議論も、「絵画」という芸術の領域のなかで考えようとしていた。ヴィンセントが絵画に賭けようとしていたものは、「絵画」や「芸術」の領域のなかだけで処理し切れないものだった。ヴィンセントは文学や宗教とともに共生し合い、ときには文学の代りの役割を果し、ときには宗教の役割を担う絵画を、求めていた。それは、画家になろうという考えを徐々に固めていくなかで、彼の「絵画」意識のなかに根を張っていった考えである。彼は、その考えを、絵を制作しながら、あらためて見つけ直していく。その意味では、ラッパルトの批判は的を射ていたといえるかもしれない。ラッパルトが画面に読みとった「極度の弱さ」は、ヴィンセントが絵を描く以前の問題として、人間としてのありかたの問題として、大切にしていたことだったからである。そこを衝かれてヴィンセントは憤慨した。というのも、いつも弱い存在に対して優しくあらねばと思うことを、ヴィンセントは、絵に表すときはつよい心構えで表現せねばならないと思っていたからだ。「農夫たちを描いた例の作品は、じつに辛い仕事だったんだ。非常に弱い人間なら描こうともしないだろう」(ラッパルトへの手紙、一八八五年八月一八日[ R 57/五二八])というヴィンセントの言葉は、ラッパルトには響かない。ラッパルトは額縁の枠のなかの絵の完成度のことを考えて「弱い」と批判している。ヴィンセントは、絵を描く主体への非難と受け取ってしまうのである。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「ラッパルトにこんなことを言っている。「ぼくは君に負けないくらいいろんな芸術作品を観てきた。絵を描く技術はまったくの初心者だけれど、絵画全般に関しては眼が利くつもりだ」(一八八一年一〇月一五日[ R 2/一七六])。ここの「絵を描く技術」と訳したところ、原文では「素描家」にあたるオランダ語を書いている。 基礎をしっかり勉強しなければならない、という思いはつよかったから、学校やアトリエ教室に行ってみようとするが、すぐ先生と衝突してしまった。それも、習い始めの画学生としては余るほどの「絵画」経験がヴィンセントにあっただけでなく、牧師になろうとしていたときに経験した挫折も大きく働いていただろう。既存の権威に対しては、無条件で従順になれないのである。 この姿勢が、彼をつねに貧しく虐げられた人びとに対する共感へ誘っているし、また、絵の世界に過剰なほどの精神的意味を求めることにもさせている。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「絵画を自分のこれから生きる道に選ぼうとしたヴィンセントは、テオに長い手紙を書いて、自分の現状と心境を吐露している(一三三/一五五)。そのなかに、「福音のなかにはレンブラント的なものがあり、レンブラントのなかには福音書的なものがある」という一節があり、これは、ヴィンセントが、心の奥に秘めた信仰(「福音書」)を、絵画(「レンブラント」)によって究めるぞ、という宣言のように読める。しかし、この一節の前には、「シェイクスピアのなかにもレンブラント的なものはあるし、ミシュレのなかにコレッジオ的なものやサルト〔アンドレア・デル・サルト〕的なものがある。ヴィクトル・ユゴーのなかにドラクロワ的なものはあるし、ミレーのなかに、 M・マリス的なものがある……」とつぎつぎに、一般に比較の対象として選ばないもののあいだにある共通性を見つけようとしていろいろな固有名詞を挙げている。その、付け足しの最後の一例として、福音書とレンブラントを組み合わせているのである。ヴィンセントがこんなことを書いたのは、テオが手紙で、最近君はレンブラントやミレーへの熱が引いたんじゃないかと言ってきたことへ反論しようとしたからだった。ここから読みとれるのは、誰かを信奉してその画家なら画家の示した道をひたすら行けばいい、という考えは拒絶しなければならないというヴィンセントの思いである。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「 十歳年下ではあるが、点描の作品を制作していた印象派のメンバーのなかでは先輩格のポール・シニャックと、ヴィンセントは仲良くなった。ヴィンセントの点描は、シニャックとの議論から着想したところが多いだろう。シニャックと連れ立って、ときにはベルナールなどともいっしょに、パリの西の方にあるセーヌ河下流域のアニエールへ出かけて絵を描いた。 図 30は、アニエール公園の風景を描いた作品と伝えられている。フランス北部の確かに暑いけれど、どことなく爽やかな夏の昼下がり、太陽の光が燦々と、樹木や葉や道や草の上に降り注いでいるさまを描いている。二組の二人連れが描かれているが、一組は女性が日傘を持ち、椅子に坐っている。その女性の手を握っている麦藁帽の男は、ヴィンセントかもしれない。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「タンギーは、パリで画材店を営む老店主だが、かつてはパリ・コミューンの戦士だったと言われ、虐げられた人民への愛と情は持ちつづけていて、時代と闘う印象派の若者たちを物心両面から支える存在だった。売れない画家たちの作品を担保に絵具を提供したり、彼らの議論に耳を傾けてやったりしたという(エミル・ベルナール「タンギー親爺ことジュリアン・タンギー」『メルキュール・ド・フランス』一九〇八年一二月)。ヴィンセントは、とくにタンギーの社会主義思想に共鳴し、のちに回想して「もしぼくがうんと年取ってまで生きることができたら、タンギー親爺のようになるだろう」(テオへの手紙[五四〇/六八五])と書いている。 そんなふうに敬愛していたタンギーの肖像を、ヴィンセントはパリ時代に二枚制作しているが、どちらも背景は浮世絵を何枚も貼りつめている[図 42・ 43]。これも実景の写生ではなく、つまり浮世絵を貼りつめた壁の前にタンギー親爺を坐らせたわけでもなく、タンギー親爺を称える背景として、日本の浮世絵の世界を描こうとしたにちがいない。真正面を向いて両手を組んで坐るタンギーのポーズは、仏陀のポーズである、とベルナールも言っている(前出『メルキュール・ド・フランス』)。浮世絵はヴィンセントにとって、ここでは光背の働きをしている。ヴィンセントがイメージしていた仏教は、社会主義的な共同体思想と重なっていたのである。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「印象派の若い画家たちは、よく、自分たちの作品を相互に交換し合った。そうして相互に研究し合おうと始めたらしいが、だんだんそれが、友情の証になっていった。ヴィンセントも、ポール・ゴーギャンやエミル・ベルナール、その他の画家と自画像だけではない作品を交換し合ったことを手紙に書いている。 ゴーギャンと交換するために、ヴィンセントが描いたのは「日本の僧侶になった自画像」[図 53]である。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「ヴィンセントは、テオへの手紙を母語オランダ語でなく、フランス語で書くようになった。フランスに来てからは妹たちにもフランス語で書いている。フランス語の方が考えがまとまるというのだ。 どの手紙もそうだが、「日本の僧侶になった自画像」について、彼が書いているフランス語は、とくに、日本語に置き換えるのが難しい。句読点は付けないし、考えが浮ぶ順番につぎつぎ書きついでいて、意味が取りにくいこと甚だしい。ゴーギャンに書いている「オレンジ色にもみえるようにエメラルド・グリーンを混ぜてできた灰白色」などという表現は、絵具を混ぜる順序を頭に浮べながら書いているのだろう。パレットを横において色を着けながら読まないと腑に落ちない。単語の使いかたも、単純ではない。どこが難しいかを考えてみることが、彼の絵へより近づいていけると思われるので、ちょっとここで考えてみよう。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「あんなにたくさん絵を描いていて、どこにそんな時間があるのだろう、と思うくらいたくさんの本、とくに当時のフランス現代文学(ゾラやモーパッサンなど)を読んでいることを、手紙などで報告しているヴィンセントだ。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「ヴィンセントがビングの店に出入りして、浮世絵を集めて勉強したことは、先にも触れた。そのビングが一八八八年五月に刊行した雑誌『芸術の日本』の創刊号を、アルルへ送ってもらったヴィンセントは、あらためて「日本」への思いを募らせることになった。南仏アルルの明るい陽光は、パリで見ていた日本の絵画に溢れている明るい色彩を連想させて、ヴィンセントを興奮させたが、『芸術の日本』から得たのは、もう一つの「日本」の画家たちの哲学的な姿だった。九月二三日か二四日に書いたとされるテオ宛の手紙に、ヴィンセントはこんなことを書いている。 日本の芸術を研究していると、疑いもなく賢者にして哲学者という知的な人間に出会う。彼はなにをして時を過しているのだろうか──地球と月の距離を研究しているのか──いや、ちがう。(中略)彼は、一本の草の芽を研究しているのである。 しかし、この草の芽の研究は、彼に、すべての植物を──そして、四季を、壮大な風景を描き出させ、ついにはいろいろな動物、そして人間の姿を描き出させるようになる。彼はこうして生涯を送るが、人生はすべてをなすにはあまりにも短い。 ねえ、これこそ、本当の宗教というものではないか。この、日本人がわれわれに教えてくれる、こんなにも単純で、まるで自分自身が花であるかのように生きることこそ。(五四二/六八六)」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「一八八八年年末の発作は、こういう余裕のある絵画意識を根こそぎくつがえすことになった。そして、翌八九年五月、アルルから程遠くない南仏サン・レミ・ド・プロヴァンスにある施療院へ、みずからの意志で入院した。彼は、その前に外人部隊に入ろうかと考えたこともある。精神病院に入る前に、外人部隊か病院かという選びかたをしたことは、注目しておきたい。病を治療するというよりも、世俗世界から隔離された苛酷な生活環境へ自分の身を置いてみようという考えが先行している。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著
「絵を描くというぼくの仕事のなかで、他のなにより情熱を持つのは、肖像画、現代の肖像画だ。ぼくはそれを色彩で探究しようとしている。もちろん、そんな追究をしているのはぼくだけではない。ぼくも、それができるようになるのは、まだまだずっと遠いのだが、とにかく、ぼくがやりたいのは、一〇〇年後の人びとの前へ亡霊のように現れる肖像画だ。それは、写真のように似ているのではなく、情熱のこもった表現によって、色彩に関する現代の科学と鑑識力を駆使して追究するのだ。 (W二二/八七九)「一〇〇年後の人々の前へ亡霊のように現れる」と彼がいうときの「亡霊」の原文は、フランス語で apparitionと書いていて、 fantômeという語を使っていない。 apparitionは直訳すると「出現」という意味で、ルルドの泉に聖母マリアが現れた姿を、 apparitionという。そういう意味合いを含めて、この言葉をヴィンセントは選んだのだろう(この問題については、圀府寺司『ゴッホ──日本の夢に懸けた芸術家』〔角川文庫、二〇〇九年〕で詳説されている)。」
—『カラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行 (中公新書)』木下長宏著