『ところで、何の話をしていたのでしたっけ? 何も存在していない、ということでしたよね。中にも外にも何も存在していないのなら、瓶も存在していないということになりませんか? そうですよね? けれども、次のようなことを考えてみましょう。中にも外にも何も存在していない、というのであれば、何の中や外のことなのか、という疑問がわいてきますよね。つまり、何かは存在しているわけです。あるいは何も存在していないのかもしれません。でも、それならなぜ中とか外とか言うのでしょうか? いや、これは明らかに行き詰まり状態です。もう何をお話しすればいいのかわかりません。では、さようなら。』―『現象と存在について No.2』
ロシア独特のユーモアセンスで語られる小噺、アネクドートを思い起こさせるハルムスの不条理な話を集めた一冊。アネクドートではしばしば政治的な皮肉が語られたりするけれど、スターリン体制下以降ペレストロイカまでは公に政治的な批判を口にすることは憚られなければならなかったことは言うまでもない。そもそもアネクドートという言葉は、ギリシャ語のアネクドトス(anekdotos)「公にされなかったもの」という意味だというのだから、公に出来ない話を喩え話にして笑い飛ばす文化というのは「冗談」でも笑えない話である。そんな体制の真っ只中で、喩え話よりも一歩進んで一見何の意味もない不条理な話を書き続けたハルムスの作品は、その不条理さこそが体制批判であっただろうことは部外者にも容易に想像がつく。
不条理さに満ちた話であったとしても、ハルムスの言わんとしたことは、ところどころ伝わるものがある。どの話も筋らしい筋はないし起承転結も整ってはいないのだが、誰かの事を皮肉たっぷりに当て擦っているのだということが解るのだ。当時の状況を身を以て体験していない自分でさえそう感じるのだから、渦中にいた人々であれば具体的に誰の何の行為のことを言っているのか、容易に想像がついたのだろう。それはすなわち凶弾されている当局も敏感に感じ取るところでもあり、作家の身に危険が及ぶことを意味してもいたのだろう。作品の間にところどころ挿入される解説を読むと、その危惧が危惧に終わらなかったことが記されている。
翻訳者の解説によるハルムスの人となりに関する情報は、確かに作品を理解する上でヒントとなる。しかし、このような不条理さをとことんまで追求した作品に、第三者的な視点による「理解」というものが必要なのかどうか。何故なら理解とはどこまでも「理屈」によるものであり、ここに収められた作品はどれもそんな「理屈」を拒否しているようにしか思えないからだ。そしてそんなハルムスの言葉が生まれた背景や経験を理解せずとも、感じられるものは依然として存在する。アネクドートのように、単純に笑い飛ばしてしまう(その笑いは詰まるところ、諧謔を経ての達観、あるいは諦観が土台となっている)ことすら拒絶する、より強固な不条理さ。非日常的な不穏さがこれでもかと描かれることで、逆説的に、理不尽さに満ちた日常が作家を取り巻いていることが伝わる、と言えばよいのか。
そしてそれが過去のとある国に限定された状況ではなくて、ひたひたとありとあらゆる場所を蹂躙しつつある気配が漂う今を思い返して見ざるを得なくなる。なんてことを言いつつ、こういう本の感想は自分の中の疑問符を曝け出すしかないってことも一応言い残しておこう。