作品一覧

  • もっとアジアを学ぼう 研究留学という生き方
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    ひとつの地域に住み込み、フィールドワークや資料収集に没頭する生活。単なる学生生活や海外赴任では見えない、ディープな体験とは。 もっとアジアを学ぼう。学ぶためには留学に出かけよう。「留学」と一口に言っても、この語の意味するところは様々である。夏休みや春休みを使っての語学留学もあれば、正規の学生として海外の学校に学び、幾年もかけて学位を得るという留学もある。この本が皆さんにお勧めしようとするのは、そのどちらでもない。大学院生やポストドクターなどが自分で計画を立て、その計画を実現するために渡航先へ赴き、現地の大学や研究所などに、訪問研究者や外国人研究生の資格でお世話になる。そうして、一年や二年という期間を区切ってフィールドワークや資料収集に没頭するという、いわば「研究のための留学」である。時には現地で学会発表をしたり、論文を世に問うたりする機会もあるだろう。以下、この本の中で「留学」という言葉を断りなく用いる際には、この種の留学を指すものと思っていただきたい。(本文より抜粋) 【目次】 はじめに(水口拓寿) 一 留学を通して出会ったもの 1 新たな研究手法との出会い(岩城考信) 2 葬儀が教えてくれたこと (胎中千鶴) 3 ベトナム留学を通して出会ったもの(俵寛司) 二 留学先との繋がりは続く 1 住宅に刻まれる一九世紀後半から二一世紀後半に至る家族の歴史(岩城考信) 2 台北孔子廟と私の一〇年 (水口拓寿) 三 留学成果を活かす 1 永遠の「観察者」としての「調査者」(岸保行) 2 大地震と台湾社会 (胎中千鶴) おわりに(水口拓寿) 【著者】 水口拓寿 武蔵大学人文学部准教授。 2000年度松下アジアスカラシップにより台湾の中央研究院民族学研究所に留学。本シリーズではこれまでに『風水思想を儒学する』(2007年)を執筆。 胎中千鶴 目白大学外国語学部教授。 1998年度松下アジアスカラシップにより台湾の中央研究院歴史語言研究所に留学。本シリーズではこれまでに『植民地台湾を語るということ―八田與一の「物語」を読み解く』(2007年)を執筆。 俵寛司 考古学者。 2001年度松下アジアスカラシップによりベトナムのベトナム国家大学ハノイ校ベトナム研究・文化交流センターに留学。本シリーズではこれまでに『境界の考古学―対馬を掘ればアジアが見える』(2008年)を執筆。 岩城考信 呉工業高等専門学校建築学科准教授。 2004年度松下アジアスカラシップによりタイのチュラーロンコーン大学社会調査研究所に留学。本シリーズではこれまでに『バンコクの高床式住宅―住宅に刻まれた歴史と環境』(2008年)を執筆。 岸保行 新潟大学経済学部准教授。2005年度松下アジアスカラシップにより中国の香港大学日本研究学系に留学。本シリーズではこれまでに『社員力は「文化能力」―台湾人幹部が語る日系企業の人材育成』(2009年)を執筆。
  • 風水思想を儒学する
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    1巻880円 (税込)
    「百偽一真」「末流猥雑」と儒教側から排撃され続けてきた風水。中国思想史の底流をなす巨大な「格闘技」を平易に示した風水思想史。 本書の主題は、『発微論』という風水書が、四庫全書及び『提要』においてこのような待遇を受けた所以を探ることである。なぜなら、それは風水書というものにとって、十分に稀有な現象なのだ。意外に思われるかもしれないが、風水という占術は、中国社会において、必ずしも顕彰の対象となってこなかったのであり、むしろ風水思想の沿革は、儒教思想に基づいて風水思想を批判することの系譜と、常に併走してきたと表現して差し支えない。そうした流れは『提要』にも受け継がれたのであって、故に風水という占術や、風水書という文献ジャンルに対する館臣の態度は、不信や蔑視をこそ基調としていたのである。(本文より抜粋) 【目次】 はじめに──四庫全書の中の『発微論』 一 『発微論』の著者と執筆目的 二 『発微論』の構成と各篇の論述内容 三 『発微論』の思想的特徴──「儒理」の在処をめぐって 四 南宋時代~清朝時代中期における術数学の変質 五 儒教知識人からの風水思想批判に応えて おわりに――風水思想を儒学する 参考文献 跋 【著者】 水口拓寿 東京大学教養学部(文化人類学)卒業、大学院人文社会系研究科(東アジア思 想文化)修士課程・博士課程修了、博士(文学)。 近年の著作に、「四庫全書における術数学の地位:その構成原理と存在意義について」(『東方宗教』115 号、日本道教学会、2010、第11 回日本道教学会賞受賞)、「墓地をめぐる記憶と風水文化」(小島毅監修、早坂俊廣編『文化都市 寧波』所収、東京大学出版会、2013)などがある。(2014年現在)
  • 中国倫理思想の考え方
    4.0
    1巻1,980円 (税込)
    倫理という語は中国で生まれ、その思想とあわせて日本にも伝わった。私たちはいつのまにか、英語のethicsを倫理と訳すことに慣れてしまったけれど、ethicsのイメージに寄りかかっているかぎり、漢語としての「倫理」は正体をあらわしてくれない。 中国の倫理思想は、儒教によって代表される。孔子がつくりだし、孟子・荀子などが育てた儒教の倫理思想は、やがて歴代王朝の「国教」となり、中国の人間関係や社会秩序を二千年あまりにわたって強く規定した。彼らは具体的に、どのような倫理を求めたのだろうか? 人と人の正しいつながりを、どうすれば実践できると考えたのだろうか? そして何よりも、儒教の倫理思想は皆を幸せにしたと言えるのだろうか? 本書では、春秋時代に始まる儒教の倫理思想が、前漢・後漢でひとまずの完成形にいたったところまでと、南宋の朱熹(朱子)、明の王守仁(王陽明)による新たな展開に重点をおき、その理論的な歩みと、それが社会にもたらした影響についてわかりやすくお話しする。論理が整わずにおわった部分や、負の遺産と呼ぶべきものごとにも忌憚なく触れよう。中国で語られた倫理の思想を、さまざまな角度から冷静にみつめていただきたいと思う。

ユーザーレビュー

  • 中国倫理思想の考え方

    Posted by ブクログ

    儒教は哲学なのか宗教なのかが自分の中での長年にわたる問いなのだが、倫理の根拠が「天の善を信じること」にしか求められないとなると、それは宗教のカテゴリーに入るだろう。ただ「天」を「理=自然」に抽象化した朱熹の理論に立てば、それは宗教ではなく哲学に含まれる気もする。本書を読んで儒教をさらに立体的に理解することができたが、まだ結論は出ない。先は遠い。
    日本人男性にとって儒教はさほど違和感なく受け入れられる思想であるが、第5章で示されているように女性やマイノリティの人たちには全く優しくない差別的な教義である。自分の中にある無意識の差別性は、実はこんなところ(=儒教的な価値観)に根差しているのかもしれな

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    2024年03月17日

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