富永京子の作品一覧
「富永京子」の「自由に生きるための知性とはなにか」「なぜ社会は変わるのか はじめての社会運動論」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
- 作者をフォローする
- フォローすると、この作者の新刊が配信された際に、お知らせします。
無料マンガ・ラノベなど、豊富なラインナップで200万冊以上配信中!
「富永京子」の「自由に生きるための知性とはなにか」「なぜ社会は変わるのか はじめての社会運動論」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
ビジネス・実用
ビジネス・実用
Posted by ブクログ
若者は政治に関心がないと言われるが、本当にそうなのか?
実態は関心がないわけではない、しかしどのようにそれを表現すればいいのかがわからない。1960年代〜70年代にかけて醸成された規範(反戦平和や女性解放運動、サブカルチャーの受容のあり方)へ対抗意識が1980年代の若者共同体にあった。一方でその規範自体の矛盾が1980年代の若者共同にいて花開いた。
つまり、前の世代が求めた多様性が大事という価値観を受け継ぐが、多様な価値観を獲得してきたその運動自体が、新しい規範となってしまう。
ビックリハウス内の読者投稿欄においては「反戦平和運動」的なもの、「女性解放運動」的なもの、「ロックは反権力としてメッセージを受容すべき」的なもの、が拒否される。これは多様な価値観を目指す運動がその目的をある程度達成し、その運動に内包していた「〇〇すべき」という強制力がその多様な価値観=「祖父は戦時中に〇〇したらしいけど、それは私たちにとっては面白い投稿として受容できるよね」、「バリバリのキャリアウーマンになって真面目ですごいけど、面白いの?」「自分はロックを自由に聴いているだけ」などのように茶化して受け入れることで、80年代の若者共同体のオリジナルな受容、自分達らしさを表現していた。
それは「政治に無関心な若者」、つまり政治に関心がないわけではないが、政治活動や運動という表現を忌避する若者という現象がそこには現れていた。
Posted by ブクログ
自由に生きるための知性
これはいってしまえば=教養なのかなと思った
第一部が特に心に残った
教養を学ぶ意義
教養と社会の関係について整理できた
いま、教養が大事だと改めていわれている理由
→教養から専門知に傾いて
専門家と一般人のコミュニケーション
が上手くいかず、さらには
非対称な垂直な関係になり
専門家と一般人の間の信頼が崩れた
→終身雇用制度が崩壊しており
学び続ける力が必要になってきている
=エンプロイアビリティ
一方で、教養・リベラルアーツとは、
それがある人とない人を隔てる垣根であり
いま社会から求められている教養との間に
ジレンマがある
いま求められている教養とは
他者に対して「開かれ」ていること
新しい自己に出会うこと
その後の章では、差別、好きって何、読書のすすめ、など専門家からの細かな話になるが
「いまの自分の枠からはみたでたものを学ぶ、触れることで、新たな自分を発見する」こと
の重要性が通底しているなと思った
感想
上田先生が言ってたいわゆる量産型の奴隷のような学生だったな自分…
そして色々みているつもりだったけど、自分の好きの中でしか出会えてないかも…
めちゃくちゃ井の中の蛙だな自分…
てか文中の引用がハードすぎて付いていけない…
と落ち込みそうになりました
しかし相手は大学教授たちなので仕方ない
というか、
教養の持つ分断の意味合いにジレンマ感じつつ
インテリたちの共通言語を使いすぎてやしないかい?とツッコミを入れながら読みました
単細胞の私には少々難しい本でしたが
1ヶ月くらいかけてゆっくり理解しました
おすすめの本がたくさん出てきて
読書リストがどんどん伸びる
時間を空けてもう一度読みたい作品
Posted by ブクログ
90年代のサブカル者である私にとって、大槻ケンヂこそがサブカルトップスターだった。そしてオーケンこそが、ノンポリビックリハウサーの代表だった。(エンピツ賞取ってるはずなのに、この本では名前が出てこず残念!!)
失われた30年を生きてきたからこそ、日本をここまでダメにしたのは政治だと痛感する。でも、それは政治に無関心すぎた国民のせいだ。
ビックリハウサーはなぜ政治や社会に無関心だったのか? 私もずっと疑問だったから、この本の存在を知って、少しでもヒントがあればと期待した。
読んで、今の風潮につながる点を2つ発見した。
一つは論争を嫌うところ。『宝島』のロック論争を「あげあし取り」「けなしあい」として避け、それぞれの「極私的ロック論」を語るようになったという指摘があった。昨今、プチ鹿島さんがよく指摘しているように、「批判・批評と悪口の区別がつかない」風潮がある。評論は読まれず、ファンダムだけが好まれる。その発露が「極私的ロック論」にある気がした。音楽なら害がない。けれど、政策に対する正当な批判までが、政治家個人への悪口とねじ曲げられ、「野党は批判ばかり」と論争を嫌うため、与党に都合よく世論形成されてきた。
もう一つは、第三部のタイトルにもなっている「みんなの正しさという古い建前、個人の本音という新しい正義」。ビックリハウス的なこの考え方は、今のネット社会に溢れてすぎている気がする。深澤真紀さんが語った話を思い出すのだが、深澤さんの学生がネトウヨの差別的暴論に対し、「正論だと思いました」と言った件。深澤さんは「正論というのは正しい論。あれは本音かもしれないが正論ではない」と諭していた。ビックリハウスの時代にはまだ反抗するべき「建前」が残っていたのだろうが、今はむき出しの「本音」だけが跋扈してしまっている。これもサブカルの罪に思えてならない。
オーケンは言及されていなかったけれど、ハウサーとして名前が出てきた香山リカさんは、今もずーっとSNS上でネトウヨと戦っている。『宝島』の編集者だった町山智浩氏も。結局、80年代90年代のサブカル者は、多くの人が今や政治的関心を寄せている(ただしみうらじゅんと大槻ケンヂを除く)。多くのサブカルスターたちが、SNSで政治的発言をするようになったとき、私は悲しかった。「政治がちゃんとしてないから、本来バカなことばっかり言ってた人たちまで、ちゃんとしたことを言わなきゃいけない時代になっちゃったじゃないか!!」
さて、80年代のサブカルを率いていた人として、宮沢章夫さんの著書が参考文献としてひいてあって、私はうれしくなった。2022年に宮沢さんが亡くなってはや3年。宮沢さんも決して政治や社会について無関心な人ではなかった。きっとこの本も興味深く読まれたんじゃないかなぁ⋯。