作品一覧

  • 快楽主義を生きる エピクロスの哲学

    快楽主義を生きる エピクロスの哲学

    ビジネス・実用

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    1巻3,300円 (税込)
    電子版は本文中の写真を多数カラー写真に差し替えて掲載。 自足による最大の果実は、心の自由である。 わずかなもので満足できない者は、何ものにも満足できない。 われわれが生まれるのは一度きりで、二度生まれることなどできない。 今日を楽しめ。隠れて生きよ――。 「快楽主義」は、その語感からつねに誤解を受けてきた。 いっぽうで、古代ギリシアのヘレニズム時代やローマ時代の人びとの心をとらえたのは、その思想が読む者の心に癒やしをあたえたからであろう。 心の平静を求め、友情を重視し、今現在に目を向ける……。 エピクロスを中心とする「快楽主義」の系譜をたどり、現代を生きるわれわれにも色褪せない、普遍的な魅力溢れる思想の本質を探る。 【目次】  序 章 激動の時代が求めた思想 I エピクロスの生涯と哲学  第一章 人と思想  第二章 継承者たち  第三章 原子論的世界  第四章 運命と自由意志 Ⅱ 快楽主義を生きる  第五章 快楽主義とは何か  第六章 心を癒やす特効薬  第七章 友情について―エピクロスの園から  終 章 より善く生きるための哲学
  • ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス

    ギリシア・ローマ ストア派の哲人たち セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス

    ビジネス・実用

    4.3
    1巻2,640円 (税込)
    犬の哲学者とは? 樽の中で暮らす。。。 ネズミに学ぶ 奴隷から哲学者に! 「ストイックに生きる」ことは、自分に厳しいだけの生き方なのだろうか?キュニコス派のディオゲネスから、ゼノンらの初期ストア派、パナイティオスらの中期ストア派、ローマ時代の後期ストア派、すなわちセネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスの思想を紹介。初期、中期、後期の特徴を分析し比較し、「ストイックに生きる」という意味を探る 第一章 自然にしたがって生きよ――キュニコス派 第二章 時代が求める新しい哲学――ストア哲学の誕生 第三章 沸き立つローマの市民――ストア哲学の伝承 第四章 不遇の政治家――セネカ 第五章 奴隷の出自をもつ哲人――エピクテトス 第六章 哲人皇帝――マルクス・アウレリウス 終 章 ストイックに生きるために
  • 哲人たちの人生談義 ストア哲学をよむ

    哲人たちの人生談義 ストア哲学をよむ

    ビジネス・実用

    3.8
    1巻946円 (税込)
    「幸福とは何か」.哲学は,このシンプルにして解きがたい問いから始まり,その問いに身をもって対峙したのがストア派の哲人たちであった.ギリシアからローマにいたる西洋古代哲学の系譜をおさえつつ,エピクテトス,セネカ,マルクス・アウレリウスらのゆたかな言葉から,〈生きること〉としての哲学を手繰りよせる.

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  • エピクテトス 人生談義 上

    エピクテトス 人生談義

    ビジネス・実用

    4.2
    1~2巻1,353~1,507円 (税込)
    「君は私の足を縛るだろう.だが,私の意志はゼウスだって支配することはできない」.ローマ帝国に生きた奴隷出身の哲人エピクテトスは,精神の自由を求め,何ものにも動じない強い生き方を貫いた.幸福に生きる条件を真摯に探るストア派哲学者の姿が,弟子による筆録から浮かび上がる.上巻は『語録』第一・二巻を収録.(全二冊)

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ユーザーレビュー

  • 哲人たちの人生談義 ストア哲学をよむ

    Posted by ブクログ

     現代は多様性の時代である。SNSや実際に人々の交流を通して国境があいまいになり、地球の裏側まで瞬時にニュースが飛び交う時代である。まさに身近なことが地球規模に影響を及ぼす、あるいは地球規模のことが身近にある、グローバルな時代なのである。しかしそれだけではなく、安定していた豊かな閉じられた世界では感じられることのなかった様々なことが露わとなり、国を超えなくともごく身近な範囲で分かりあうことの難しさを痛感するという意味でも、日々多様性を感じさせられるのではないだろうか。
     ストア哲学の思想は多様性の現代にあって日に日に注目度を増している。ストア哲学が生まれた社会というのはまさに国境があいまいになり様々な文化が入り乱れる多様性の世界であった。世界市民(コスモポリテース)としての自覚は、どこのポリスに属するでもなくこのコスモス(世界ないし宇宙)のポリテース(市民)であるという自覚に由来するものである。さまざまな価値観がぶつかり合い、人が入り乱れ、ローカルなルールだけでは上手くいかない局面が増えれば増えるほど、普遍的な思考が求められていく。個々の文化によって変わることのない人間の姿を見定めようとしたのがストア思想の特徴といえるのではないだろうか。分断の社会が進展していく中で、カントの世界市民論が注目され、その根底にあるストア思想はその存在感を増している。そもそも自然法、本性、人権といった言葉の淵源にストア思想は位置しているのである。
     しかしそのような重要性をもったストア思想についての学問的案内はことのほか少なく、本格的に読み進めたい人にとって確かな道引きとなるのは、原典を始めとした諸外国の文献案内を含む中央公論新社の『哲学の歴史2 帝国と賢者』であろう。具体的な引用と解説が織りなすこの哲学史は、一通りの概説では得られない深さで哲学的テクストを読み説くことを通して、その奥行きを知らせてくれる。しかし、それよりも簡潔にストア哲学の全体像を示してくれるのが本書『哲人たちの人生談義』なのである。
     そもそもストア哲学を学ぼうとして「原典」に当たろうとして読者が容易に手にすることのできる体系的なストア哲学の本というのはなかなかない。というのもエピクテトスにしても、マルクス・アウレリウスにしても、彼らは思想体系の構築ではなく実践に重きを置いていたからである。それでは、実際に私たちが読むべき「原典」とは何なのか。そこから解き明かしてくれるのが本書の特徴なのである。
     ストア哲学を読むとは様々な哲学的潮流の中でストア派と呼ばれる人々について語られる言説に触れることを通して、その輪郭を捉えていくことなのである。それは時にディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』を読むことであり、キケロやセネカの著作を読むことである。であるからこそ、ある程度はプラトンやアリストテレスといった主流な見解と突き合わせて理解するという作業が求められる。そのうえで読者一人一人が彼らについて残された言葉を精査していくことの内に、その体系を見出していくことが求められるのである。本書はその実例を通して、何を読むべきかの外縁を提示してくれる。
     本書を読んで気が付かされることはストア思想に触れることは、あるいはプラトンやアリストテレスをよりよく理解する大きな手掛かりを与えてくれることである。古典ギリシア・ローマのテクストを読むことの醍醐味を感じさせてくれる本書は、古代ギリシア・ローマのみならずヨーロッパ世界に興味のある人にはぜひ勧めたい一冊である。

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    2026年02月02日
  • エピクテトス 人生談義 下

    Posted by ブクログ

    504P

    ギリシアローマ時代に出来た本が素晴らし過ぎて、人類はここでもう完結してたんじゃないかと思う。

    エピクテトスの人生談義に『人は起こることではなく、それをどう捉えるかで心が乱される』って言葉があるんだけど、私人からマウンティングされたことないし、裏切られたことも無いんだけど、マウンティングと裏切りって捉え方でかなり左右される気持ち悪い言葉だなと思った。こういう言葉昔から苦手。

    ニーチェ、アラン、パスカル、夏目漱石も尊敬していた!古代ローマの哲学者「エピクテトス」

    言行録「人生談義」は人生にまつわる悩みごとを先生が切れ味抜群に回答。夏目漱石も愛読した名著。

    エピクテトスが「早く走れるようになりたいなら毎日早く走れ」と言っていて、要するに2000年近く前に答えは出てる。絵が描けるようになりたいなら絵を描く。勉強できるようになりたいなら勉強をする。他に薬などはない。これ以上「勉強法」などを売り捌く下品な自己啓発屋に搾取されてはならない。

    エピクテトス
    1~2世紀、ローマ帝国時代のストア派哲学者。解放奴隷出身でネロ帝に仕えた。ローマ帝政時代のストア派の哲学者。小アジアのフリギア出身の奴隷であったが解放され、文章家としてネロ帝などに仕える。外的なものに左右されず、自己を確立することによって自由を得ることを説いた。その思想は、五賢帝の一人、哲人皇帝といわれるマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝にも影響を与えた。

    「書物は、もしそれがよりはっきりした文字で書かれたものならば、誰でもより気持よく、そしてよりたやすく、読むことができるだろう。それで言論も、もしそれが口調よく、同時に適切な言葉でいい表わされたものならば、人は誰でももっとたやすく、聴取できるだろう。従って表現能力が、存在しないなどといってはならない。というのはこれは、信仰のない人や、同時に卑怯な人のいうことであるからだ。信仰のない人というのは、それは神からの恩恵を軽視するからであって、ちょうどそれは人が視力もしくは聴力もしくは言語自身の使用を棄てるようなものだ。ところで神は君にあてずっぽうに眼を与えたのだろうか、遠方に達して対象の像を形づくるような、そういう強力にして巧妙な霊(*)を、神はそれら眼に対して、あてずっぽうに混合したのだろうか。いやどんな使者がこのように迅速で注意深いだろうか。またあてずっぽうに神は中間の空気をして、そんなに活動的に、弾力あるようにし、従ってその張り合っているものを通して、視力が通過するようにしたのだろうか。またあてずっぽうに、神は光を、つまりそれがなければ他のいかかるものも役に立たないような光をつくったのだろうか。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「家であなたの好きなだけの競争をやるがいい、そして彼がネメア、ピュチア、イストミア、オリンピアの競争で勝つように、叫ぶがいい。だがしかし公の場所では人より余計に所有しようとするな、また共有のものをわがものとするな。もしそうでなければ悪口を辛抱するがいい。なぜかというにあなたが大衆と同じことをする時には、あなたはあなた自身を彼らと等しい処へ置いているのだからである。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著

    「そのように熱病の時もしていないだろう。いやもし立派に散歩しようとするならば、散歩にふさわしいことをするだろう。もし立派に熱病を病むならば、君は熱病にふさわしいことをするだろう。立派に熱病を病むとはどういうことなのか。それは神をも人をも非難せず、出来事によって悩まされず、立派に死を期待し、なすべきことをなすことである。また医者がやって来た時、彼が何というかを恐れもしなければ、「こりゃいい」といっても、悦び過ぎることもないことである。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著

    「寂しさとは寄るべのない人のある状態である。というのは孤独である者が直ちに寂しいのでないのは、ちょうど大衆の中にいる者が寂しくないのと同じわけである。とにかくわれわれが兄弟や息子や信頼している友人を失った時には、われわれは往々ローマに住んでいて、沢山の群衆に出逢ったり、沢山の人々と一緒に住んでいたり、時にはおびただしい奴隷を持っていたりしても、寂しく残されてしまったというのである。というのは、寂しい者とは概念的にいうと、寄るべなく、毀害を加えようと欲する人々にさらされている者を意味するからである。だからわれわれが旅をして盗賊の手に陥った時、その時はとりわけわれわれを寂しいというのである。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著

    「アイオロスはテッサリアの支配者で子沢山だった。シシュポスはその一人で有名な盗賊で、その罪の故に、永遠に山巓へ石を転がして行き、転げ落ちてはまた転がして行くという罰を受けた。 (* 3)「イリアス」第二二巻。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著

    「それから他のすべての気晴らしの代りに、君が神に従順であるということ、また言葉によってではなく、行為によって、知徳兼備の人の義務を果しているということの自覚から来る気晴らしを持って来るがいい。というのは自分が自分自身に対して、次の如くいうことができるということは、何と素晴らしいことだろう、「現在私は、他の人々が学校で勿体ぶって話したり、パラドックスを話したりしてると思われることを、実行しているのだ。そして彼らは坐って私の徳を説明したり、私について探求したり、私を褒めたりしているんだ。そしてゼウスは私をして私自身からこの証明を得させようとし、また自身兵士らしい兵士や、市民らしい市民を持っているかどうかを知ろうとしているのであるし、また他の人々に対しては、私を意志を越えてるものについて(真の善は意志外のものにはなく、われわれの意志にあるということ)の証人として、引き合いに出そうと欲したのである。『見給え、諸君は無闇に怖がっている、諸君は諸君が欲しいものを空しく欲している。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著

    「また動物の場合、われわれが自由の観念をどのように用いているか考察してみるがいい。人は馴れた獅子を檻に入れて世話したり、食わしたり、またある者は連れて歩いたりする。だが誰がこのような獅子を自由だというであろうか。おとなしい生活法をしているだけ、それだけ奴隷的なのではないだろうか。もし彼が感覚や理性を持っていたとしたならば、どのような獅子がそのような獅子になろうと欲しただろうか。(あそこにいる)鳥どもを見給え、彼らがつかまえられて、籠に飼われる時、彼らは逃げようとしてどんなにもがくだろうか。そして彼らのあるものは、そのような生活を辛抱するよりも、むしろ飢え死をするし、また生きているものでも痩せ衰えてやっとこすっとこ生きてるのだ、だからもし何か穴でもあいているのを見つけるならば、飛び出てしまうのである。そんなに彼らは、自然的な自由や、独立や、邪魔されないということを求めているのだ。  しかし籠の中は君にとって何が悪いか。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著

    「人を卑しくし、他に隷属するようにするものは、ただ官職や富の欲望だけでなく、平静や閑暇や旅行や学識の欲望もそうであるということを記憶しておくがいい。なぜかと云うに、概して外物は、どんな性質のものであろうと、その価値は他に隷属させるからである。それで議員になろうと欲するのと欲しないのとでは、何の差別があるか。官職を欲するのと欲しないのとでは、何の差別があるか。「私は都合が悪い、私は何もするものがない、いや私は死体のように書物に縛られている」というのと、「私は都合が悪い、私は読書する暇がない」というのと、何の差別があるか。というのは挨拶や官職が外的な意志を越えたものに属しているように、書物もその通りだからである。それとも何のために君は読書しようとするのか。どうかいってくれ給え。というのはもし君がそれを娯楽のためか、何かを知るためになすのであるならば、君はつまらないあわれむべきものだからである。だがもしなすべきもののためになしているのであるならば、それはゆとりを持つこと以外の何であろうか。だがもし読書が君に心のゆとりを持ち来らさないならば、それは何の役に立つだろうか。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著

    「ある人の気に入りたいという気持からして、一度外部に心惹かれることがもし君にあるならば、君の計画は御破算だと知るがいい。それですべての場合、哲学者であることで満足し給え。だが哲学者であると思われたいならば、君自身にそう思わせるがいい、そしてそれで十分だろう。」

    —『人生談義(下)』エピクテトス著



    「孤独とは頼るものがない人の心の状態のことである。というのは、ひとりでいるからといってただちに孤独であるわけではないのは、多くの人の間にいるからといって孤独でないとは言えないのと同じだからである」(P77)

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    2025年11月23日
  • エピクテトス 人生談義 上

    Posted by ブクログ

    442P

    ストア派の思想

    エピクテトス
    1~2世紀、ローマ帝国時代のストア派哲学者。解放奴隷出身でネロ帝に仕えた。ローマ帝政時代のストア派の哲学者。小アジアのフリギア出身の奴隷であったが解放され、文章家としてネロ帝などに仕える。外的なものに左右されず、自己を確立することによって自由を得ることを説いた。その思想は、五賢帝の一人、哲人皇帝といわれるマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝にも影響を与えた。

    「うん、だがなぜ君はこの人を、彼自身の悪に気づくことから引き離すのか。彼がどこに進歩を求めるべきかわかるように、彼に徳の仕事を君は示そうとしないのか。気の毒な、君の仕事のある処に進歩を求めるがいい。だが君の仕事はどこにあるのか。それは(一)欲求したり、忌避したりすることの中にあるので、得そこなったり、避けそこなったりしないようにすることなのだ、(二)間違わぬように意欲したり、拒否したりすることの中にあるのだ、(三)まただまされぬように判断したり、判断を差し控えたりすることの中にあるのだ(*)。だが一番大切で一番必要なのは、第一の領域のものである。だがもし君がふるえたり、悲しんだりしながら避けそこなわぬようにと求めているならば、そもそも君は進歩しているだろうか。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    つまりそれを招来したり、妨害したりすることのできる人々に、従属させざるを得ないということを学んだならば、更にまた朝早く起きて以上述べられたことを保持したり、見守ったり、それに忠実な者として風呂にはいったり、つつしみのある者として食事したり、同様また常に事柄に対しても、その主要なる義務を、ちょうど力走者が力走者らしく、歌の先生が歌の先生らしく骨折るように骨折るならば、この人こそ本当に進歩してる人であり、この人こそでたらめに旅をして来た人ではないのだ。だがもし読書力を養うために張り切り、そのために骨折り、そのため旅したのであるならば、私はその人に対して、即刻家に帰るように、そして家の事をゆるがせにしないようにいおう。というのは彼の旅行の目的は、何でもないからだ。しかし旅行の本当の目的は、自分の生から、苦悩とか、悲痛とか、「あゝあゝ」とか、「可哀そうな私」とか、不運、不幸とかを取り去り、死とは何か、追放とは何か、牢獄とは何か、毒とは何かということを学ぶように心することで、それは牢獄の中で「親愛なるクリトンよ、もしそれが神々の御気に召すならば、そうなるがいいのだ」〔プラトンの「クリトン」〕ということができるためで、「可哀そうな老人の私、これらのために私は白髪頭になったのだ」などということのないためなのである。誰がそれらのことをいっているか。

    「理性は他のものを分析したり、完成したりするものであるが、自身また非分析的なものであるはずがないとすると、それは何によって分析されるのだろうか。というのはいうまでもなくそれは、自分によってか、他によってかだからである。ところで実は、後者もまた理性であるか、あるいは理性よりもっと高次な何か他のものであるかである、だが後者であることは不可能だ。もし理性だとするならば、更にまた何がその理性を分析するのだろうか。というのは、もし自分が自分をなのであるならば、この理性もまたそうすることができるだろうから。もしわれわれが他の理性を必要とするならば、それは無限にしてきりがないだろう。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「そうすると、教養を身につけるということはどういうことなのか。それは自然的な先取観念を、個々のものに、自然本性と合致するように、適用したり、また今後諸物のうち、ある物はわれわれの権内にあるが、ある物はわれわれの権内にないということを区別したりするのを学ぶことである。意志やすべての意志的活動は、われわれの権内にあるが、肉体、肉体の部分、財産、両親、兄弟、子供、また祖国、簡単にいえば社会的なものは、われわれの権内にない。ではわれわれは善をどこに置くことにしようか。どんなものに善を当てはめようか。われわれの権内にあるものにか。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「というのは本来人間は善を奪われるのを辛抱することも、また悪に出会うのを辛抱することもできぬようにできてるからだ。それから最後に、物を変えることも、邪魔する者を盲にすることもできなくなった時は、私は座って溜息をつく、そして私の罵ることのできる者は、ゼウスであろうが、その他の神々であろうが、罵るのである。というのは、もし彼らが私を顧みてくれないならば、私は彼らとは何のかかわりがあるだろうか。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「ようく似てるよ。人間の身体が滅びた、また牛や羊の身体が滅びた。人間の住家が焼けた、また鸛の巣が焼けた。何か大きなことか、もしくは恐ろしいことか。それともどうか示してくれ給え、人間の家と鸛の巣との間には、家としてどんな違いがあるか。  そうすると鸛と人間とは似ていますか。  何をいってるのか。物質の点ではようく似てるよ。一方は家が、梁や煉瓦や漆喰からできてるが、他方は小枝や粘土からできてるということは別として。  すると人間は、鸛からどんな点でも違いませんか。  そんなことはない、しかしこれらの点では違わない。  ではどの点で違いますか。  探求して見給え、そうすれば他の点で違うことに気づくだろう。ほら、彼の行為が、理解によるという点で違わないかどうか、ほら、社会的とか、誠実とか、つつしみとか、注意深いとか、分別とかいう点において、違わないかどうか。そうすると、人間における大きな善や悪は、どこにあるか。違いのあるところにあるわけだ。もしそれが保持され、防備されて残っており、またつつしみも、誠実も、分別も破壊されていないならば、その時にはその人自身も保持されているわけである。だがもしそれらの中の何かが滅亡したり、征服されたりしているならば、その時にはその人自身も滅びているわけだ。そして重大な事柄はここにあるのである。ギリシア人が船でやって来て、トロイアを荒らし、そしてアレクサンドロスの兄弟たちが滅びた時、アレクサンドロスはひどく没落したわけなのか。決してそうではない、というのは他人の行為によっては、何人も没落しないからだ、いやその時には鸛の巣がこわされたのである。だがつつしみや、誠実や、客に対する友愛や、礼節をなみした時、既に彼は没落していたのである。アキレウスは、いつ没落したのか。パトロクロスが死んだ時か。そんなことはない。むしろ彼が腹を立てた時であり、女の子のために泣いた時であり、また恋人を得るためにそこにいるのではなく、戦うためにそこにいるのであることを忘れた時だ。正しい考えが取り去られる時、それが破壊される時、それが人間的没落であり、それが包囲であり、それが滅亡なのだ。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「それでは、これらの教説の結実は、何だろうか。本当に教養ある人々にとって、最も美しく、最もふさわしくあるべきものは、平静であり、無畏であり、自由である。つまりこれらについては、自由人たちのみが、教養を受けることが許される、と主張している大衆を信ずべきではなく、むしろ教養ある人々のみが、自由である、と主張する哲学者たちの方を信ずべきである。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「諸々の事物は善悪無差別なもの(どうでもいいもの)であるが、それらの使用は善悪無差別ではない。そうするといかにして人は、剛毅や平静を保つと同時に、また注意深くして、でたらめでもぞんざいでもないことができるか。それは、さいころ遊びをする人々になぞらえて見ればいい。数とり石も善悪無差別なものであるし、またさいころも善悪無差別なものである。投げて何が出るかを、私はどこから知るか。だが投げ出されたものを注意深く、うまく利用することは、それはもう私の仕事である。かくてそのように人生の場合でも、主なる仕事は、事柄を区別し、分類して、そして「外物は私の権内にないが、意志は私の権内にある。私は善や悪をどこにさがそうか。それは私の内部にである」ということである。だが他人のものにおいては決して善であるとも、悪であるとも、有用であるとも、有害であるとも、この種の何か他のものであるとも名づけてはならない。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「そうすると何か外界の事物が、自然本性にかなっているとか、自然本性に反しているとかいうことは、どうしていえるか。それは、あたかもわれわれが絶対的であるかのように思う場合だ。というのは足にとっては、綺麗であることは自然本性にかなっていると私はいうけれども、もし君が足を足として取り、そして絶対的でないものとして取るならば、それは泥の中にはいることも、いばらを踏むことも、また時あっては全身のために切断されることもふさわしいからである。だがもしそうでなければ、それはもう足ではなくなる。何かこのようなことを、われわれの場合にも考うべきである。君は何か。人間である。もし絶対的なものとして考察するならば、老年まで生き、富み、丈夫であることは、自然本性にかなったことである。だがもし君が人間として考察し、何か全体の部分として考察するならば、その全体のために病気をしたり、航海をして危険を冒したり、窮乏したり、また時あっては寿命前に死んだりすることもふさわしい。そうすると、何で君は怒っているのか。かくては前者がもう足でないように、君はもう人間でなくなるということがわからないのか。一体人間とは何なのか。それは国家の一部分である、第一に神々と人々とからなる国家の、次にまたいわゆる全体の小さい模倣で、われわれと最も近い関係にある国家の部分である。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「それからもし彼が「君は遺産を相続するだろう」というならば、われわれはあたかも彼から遺産の相続を受けたかのように、彼に感謝するのだ。だから結局彼らもわれわれを翻弄することになるわけだ。そうするとどういうことになるか。欲望も忌避もしないで、(虚心坦懐に)行くべきだろうか、ちょうど旅人が、出逢った人から、(目的地へ行くのに)どっちの道を行ったらいいかと訊ねて、左の道よりも右の道の方をなどと望まないように。というのは彼はこれらのある一方を行こうとするのではなくて、目的地へ達する方を行こうとしているのだからである。そのように神に対しても、案内者と思って行くべきなのである、ちょうどわれわれが眼を使用する場合に、このようなものの方をわれわれに見せてくれるようになどと、眼に要求しないで、見せてくれるようなものの心像を(そのまま)受け取るようになのである。ところが事実はと云えば、われわれはびくびくしながら小鳥をつかまえ、そしてそれが神であるかのように呼びかけて、「主よ憐れんで下さい、どうぞ(危険を)逃れさせて下さい」などとそれに嘆願するのだ。憐れだね君は、もっと善いものがあるのに君はそれよりも何かほかのものが欲しいのか。そうすると神にそう思われるものよりも、何かもっと善いものがあるのか。なぜ君は、力の限りを尽して、君の判定者をそこなったり、忠告者を迷わしたりするのか。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「それは石か、銅か、金か、もしくは象牙ではないか。それにまた、フィディアスのアテナは、一度その手を伸ばし、その上にニケ(勝利の女神)を受け取ったが最後、永遠にその姿で立っているのだ、だが神の作品は動くものであり、呼吸するものであり、心像を用いるものであり、吟味するものなのである。君はこの形成者の作品であるのに、君はそれを辱かしめるのか。何?  神はただに君をつくっただけでなく、なおまた君だけを信頼し、君に委せているのだ、君はそれを憶えていないで、かえってその信頼を辱かしめるのか。もし神が君に誰か孤児を委せたとするならば、君はそのようにしてそれをおろそかにするだろうか。彼は君に君自身を与え、そして「わしは他人を君以上には信頼しなかった、どうかこの人を本来あるように、つまりつつしみ深く、誠実で、高尚で、ぐらつかず、情念なく、平静であるように守ってくれ給え」と云っているのである。そうすると君は守らないわけなのか。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「それは個人的に何らの利益もはからず、何物についても絶対的なもの(孤立したもの)としては考えないで、ちょうど手や足がもし理性を持ち、自然の仕組を理解しているとしたならば、全体に対する関係以外の仕方では意欲したり、欲望したりしないだろうが、ちょうどそのようにすることだ。だから哲学者たちは、もし賢者が未来のことを予見したとするならば、病気や死や不具に協力したことだろうとうまくいっている、というのはとにかくそれは全体の秩序から分たれたのであって、全体は部分よりも、都市は市民よりもより勝れたものであるということを知っているからだ。だが現にわれわれは予知していないのだから、選択するのに、より性分に合うものを保持することが似つかわしいわけである、というのはわれわれはそういうふうに生まれて来たからだ。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「哲学の始めは、少なくともあるべきように、そして入口を通ってそれにとりかかろうとする人々においては、必要なものに関する自分の貧弱さと、無能力とを自覚することである。というのは直角三角形とか、四分の一音とか、半音とかの観念は、本来われわれは何一つ持たずにやって来ているのであって、むしろ何か技術的なことを仕込まれて、われわれはそれらの各々を教わっているのだ、そしてその故にそれらを知らない人たちは知ってるとは思わないのである。だが善悪、美醜、似つかわしい似つかわしくない、幸不幸、ふさわしいふさわしくない、また為すべきこと為すべからざることについては、誰が、生得観念を持たないで生まれて来たであろうか。だからすべてわれわれはその言葉を用い、そしてその先取観念を、個々の事物に適用しようとしているのだ。彼は立派にやった、彼はやるべきようにやった、彼はやるべきようにやらなかった、彼は不幸であった、彼は幸福であった、彼は不正である、彼は正しい。われわれの中の誰がこれらの言葉を遠慮するだろうか。われわれの中の誰が、ちょうど線や音についてその無知者がそうするように、学ぶまでこれらの言葉の使用を延期するだろうか。この原因は、人はこの領域のことを、既に、自然によって、いわば教わってから、この世にやって来たということである、そしてそこが始まりとなって、われわれはその上に自惚れを取ってつけるわけなのだ。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「これらの言葉に従って、いつ彼はこの勉強をしたのか。それでは何でなおも君は、彼が学んだ処では他の人々にまさるが、勉強のできてない処では多くの人々と同じだということを変に思うのか。それはちょうど竪琴を弾いてうたう人が弾き方を知り、立派にうたい、立派な舞台着を持っていながら、それでも舞台にあがると震えるようなものだ、というのはこれらのことは知っているが、大衆とは何かということは知らないし、また大衆の叫び、大衆の嘲笑の何かも知らないからだ。いや不安というものさえ何であるのか、われわれのしわざなのか他人のしわざなのか、それはとめられるのかとめられないのか、ということも知らないのである。だから彼は褒められると、驕り高ぶって退場するが、嘲笑されると、あの高ぶり顔は面目を失ってくしゃくしゃになってしまうのだ。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「すべての習性と能力とは、それに対応する活動によって、維持され、増進される、(例えば)歩行のそれは、歩行することにより、疾走のそれは、疾走することによって、維持され、増進される。もし君が朗読家になりたいならば、朗読し給え、作家になりたいならば書き給え。だが三十日間ずっと朗読しないで、何か他のことをやる時、君はどういうことになるかわかるだろう。そのようにして、もし君が十日間寝ていて、それから起きて、長距離の道を歩行して見給え、そうすれば、いかに君の脚が弱くなったかがわかるだろう。そこで、一般に、もし君が何かをなそうとするならば、常習的にやり給え。もしあることをなすまいとするならば、それをなさないで、その代りにむしろ何か他のことをやるように慣れるがいい。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「学校へ行ってるのは、ただ物語を学んだり、以前に知らなかった書物を理解したり、またもしそういうことがあれば、他人にもそれを説明したりするためなのか」と自分自身に注意するのが正しいと思う。ねえ君、君は家では奴隷と喧嘩したり、家をかきまわしたり、隣人を混乱の中に捲き込んだりしたのだ。ところが今は賢者のようななりをして、私の処へ来ているのか、そして坐って、私が文をどう解釈したか、私が思い浮ぶものを一体どうしゃべったかということを判断しているのか。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著

    「 そうすると残るところは、彼らが一所懸命になってるのは、善いものだけについてだということになる。またもし彼らが一所懸命になっているのであるならば、彼らはそれを愛しているわけだ。それで誰にもせよ、善いものについて知識のある者は、また愛することも知っているだろう。だが善いものを悪いものから、またいずれでもないものを両者から、区別することのできない者は、どうしてなお愛することができるだろうか。そういうわけで愛するということは、賢者だけがなし得ることなのだ。」

    —『人生談義(上)』エピクテトス著



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    2025年11月23日
  • エピクテトス 人生談義 下

    Posted by ブクログ

    自分の力が及ぶもの=意思と理性のみを重視し、力の及ばないもの=肉体、役職、財産、他人等には一切期待しない。そして意思を誘惑する様々な心象≒欲望を避ける訓練法などを勧めながら、逆に外的なものに意思を依存した人間の末路や有様が刻々と語られる…

    「外的なものに一切依存しない」という姿勢は、リスク回避という後ろ向きな目的ではなく、意思を完全に自由にするためには捨てなければいけないものなのだ、と理解した。

    上巻と下巻を通して読んだが、やっぱり思想の全体感を掴むには難しい。と思ったら、下巻最後の「要録」に40ページ程で全体の要約があった笑
    なんだ、最初にこっちから読んでおけば良かった!

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    2025年01月22日
  • エピクテトス 人生談義 上

    Posted by ブクログ

    古代ローマのストア派の代表的哲学者として伝わる「エピクテトス」の講話を弟子がまとめたものとされる本である。

    旧訳本を1度読んだが、新訳が出るに及んで、再度読み直した次第である。

    一貫している内容は、ストア派的世界秩序をベースに、真に自由に生きることを目指し、以下の内容を説く。

    「求めて得損なわず、避けて避け損なわず。」

    「権内にあるもののみが君の自由になるもの。権外にあるものは一切自由にならないもの。」

    本書の内容は上記の内容を繰り返し説くものと言える。

    本書からは仏教書に通じる何かを感じる。

    所々になんとも言えない親しみやすさを覚える。
    これが何かは、まだうまく言語化できない。

    権内にあるのは、「今」、自分の意思や肉体を、神に感謝して、心象を正しく用いて、行動することだけである。その結果は権外であり、一喜一憂するものではない。

    年を経ても変わらない真理の一つであろう。

    自分の中にエピクテトスの説くことのベースは刻まれた。

    自分が、彼の教えを実践できる素質の人間だとは思わないが、折に触れて本書を読み返し、この一つの真理を、人生と言う航海の、灯台の灯りとしたい。

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    2022年08月03日

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