『そしてあとは――あとは煙草に火を点けて家に帰るだけ。まったく、ぼくたちは死ぬということをやっと思い出した。でも――ぼくも! とりあえずいまはイチゴの季節だということは忘れずにいよう。そう。』
今年の翻訳大賞候補の一つということで読んでみた。図らずもここにもウクライナがついてまわる。1920年にロ
...続きを読むシア国内でのユダヤ人迫害を逃れて生後間もなくウクライナから亡命しブラジルに辿り着いた作家の、やや哲学的な一冊。
翻訳者のあとがきにもあるが、この物語が語られている主人公やその登場人物に起こる逸話が主題ではないことは読み始めて直ぐに気付く。一人称で語る登場人物が、一応物語の形式の中の主人公とおぼしき少女と明確な係わりを持っているかは判らない。その視点はむしろ物語を語る作家の視点であることは、意図的に放り込まれた一見物語とは無関係の文章からも明かだ。
『そう、でも忘れてならないのは、何を書くとしても、ぼくの基本の素材はことばであるということ。だからこの物語は、集まっては文章になる言葉で作られるし、そこから言葉や文章を超える秘密の意味も立ち上がってくるだろう』
更に読む進める内に「ぼく」という一人称の生物学的意味は重要ではないと思い始め、これは作家の物語を語る行為そのものについて思弁した文章なのだろう、ということに思い至る。物語るうちにさらけ出されてしまう自らの経験や思考。それらを感じたままに描写することと、飾り立てて脚色することの狭間で揺れる思いを、物語には登場することのない一人称の登場人物ロドリーゴ・S・Mという人物の仮面を付けて作家クラリッセ・リスペクトルが語っているのだ、と。そして当然のことながら、語られる物語の主人公であるマカベーア(その名は物語の前半では意図的に秘されている)が作家本人の分身的存在であることも、容易に察しがつくこと。
そう推察したところで気付くのは、だとしたらこの物語は死にゆく主人公が全く別の人物として自分自身の物語を語っている物語、という構図になるのだということ。そしてその構図はもう一つ外側に拡張され、本作を書き上げた後に病死したという作家自身も適用される。作家は、死にゆく主人公に擬えて自らの物語を、少なくとも象徴的な自分自身の人生の核となるものを、語り残して逝ったのだろう。語り終えた筈の語り手が残す最後の言葉の意味が、急に切ない響きで追いかけて来る。