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2026/08/23
ベンジャミン・フランクリン
(英: Benjamin Franklin, グレゴリオ暦1706年1月17日〈ユリウス暦1705年1月6日[注釈 1]〉- 1790年4月17日)は、アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をした。また、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたことでも知られている[注釈 2]。現行の米100ドル紙幣に肖像が描かれている他、1963年まで米50セント硬貨にも肖像が用いられた。勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像を象徴する人物。己を含めて権力の集中を嫌った人間性は、個人崇拝を敬遠するアメリカの国民性を超え、アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられる。『フランクリン自伝』はアメリカのロング・ベストセラーの一つである。
「先祖たちの逸話を集めるのは、どんな小さい逸話でも、昔から私には楽しいことだった。お前も覚えているだろうが、私がお前と一緒にイングランドへ出かけた時、いまなおその地に残っている親類の者について調べたり、旅行したりなどしたのもそのためであった。同じようにお前にとっても、私のこれまでのことを知るのは嬉しいだろう。その多くはお前がまだ知らないことなのだから。それにいま私はへんぴな田舎にいてここ一週間はずっと暇でいられるはずだから、それで一つお前のために書いてみようと思って机に向ったのである。もっとも、この仕事をやってみたいと思う理由は他にもいくつかある。私は貧しい賤しい家に生れ育ち、のち次第に身を起して富裕の人となり、ある程度世間に名の知られ、かつこの年になるまでかなり幸運に恵まれて日を過してきたが、子孫の者からすれば、そうなるまでに私が取り用いた有益な手段 それは神さまのお蔭でたいそう成功したが その中には自分の境遇にも役立ち、したがって真似したらよいと考えられるものもあろうから、その手段を知りたいものだと思うことだろう。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著
「私の兄たちはみんなそれぞれ違った職業に年季奉公に出された。私は八歳の時ラテン語学校に入れられた。父が十人ある息子の一人を十分の一税(教会、僧侶の費用に当てるための物税、収穫の十分の一を納めるもの)として神に仕えさせる考えだったからである。私は小さい時から字を覚えることがとても早く(現に字の読めなかった時代の記憶がないくらいだから、よほど小さい時からそうだったに違いない)、それに友人たちがこの子はきっと勉強がよくできるだろうとみんな言ってくれたので、それに力をえて父もこんな目的をたてたのである。これにはベンジャミン伯父も賛成で、わしの速記術を覚えるつもりがあるなら、思うに商売を始める資本としてという意味からであろう、自分が速記した説教集を全部お前にやってもいいと言ってくれた。しかしこの学校に通ったのは一年に足りなかった。もっともその間に私はクラスの中ほどから次第に上って首席まで行き、さらに上のクラスに移され、学年の終りにはクラスの者と一緒に三年級に進むことになっていた。しかし父は、これは私のいるところで友達にも話したことだが、大勢の家族を抱えていたので、そう簡単に高等教育の費用を出すわけには行かなかったし、それに、そういう教育を受けさせてみても、牧師というものは、多くの場合、ろくな暮ししかできないと考えたので、やがて最初の考えを捨て私をラテン語学校から下げて、当時名高かったジヨージ・ブラウネル氏の読み書き算術の学校へ入れた。この人はその道で大成功を収めていたが、それも穏かで励みのつく教え方でそうだったのである。おかげで私もじきに字を書くことがうまくなった。ただし、算術のほうはうまく行かず、一向に進歩しなかった。十の歳に私は学校を下って父の商売を手伝うことになった。その商売というのは獣脂蠟燭と石鹼の製造で、これは父の本職ではなく、ニュー・イングランドへ来てから、もとからの染物屋では需要が少くて家族が養えないので、新しく始めたのだった。そこで私は、蠟燭の芯を切ったり、蠟燭の型に脂を流しこんだり、店番をしたり、使い走りをしたり、といった仕事をやることになった。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著
「幼い時から私は本を読むのが好きで、わずかながら手に入る金はみんな本代に使った。『天路歴程』(バニャンの代表作、一六七八年出版)が気に入ったもので、私はまず小型の分冊本でバニャン(一六二八─八八、英国清教徒の説教師)の著作を集めた。後にこれを売って R・バートンの『歴史叢書』(ナサニエル・クラウチの著とする者もあるが、正確なところは不明。歴史、紀行、物語、伝記などを雑然と集めたもの)を買ったが、それは行商人が売り歩く小さな安本で全部で四、五十冊あった。父のささやかな蔵書は主に弁証神学に関するものであったが、それもたいていは読んだ。もう牧師にはならないことに話はきまったのだから、こんなに知識に飢えていた時代に、もっと適当な本が手に入っていたら、と私はしばしば残念に思ったものである。それらに混ってプルタークの『英雄伝』もあり、大いに愛読したものだが、今でもそれに使った時間はすこぶる有益だったと考えている。ほかにデフォー(一六六一?─一七三一、英国の小説家、『ロビンソン・クルーソー』の著者)の『企業論』(一六九七年出版、デフォーの最初の重要な著述)、マザー博士(一五ページに出たコトン・マザーのこと)の『善を為すの論』(一七一〇年出版)があり、この二冊は私のものの考え方に一転機をもたらし、のちに起る生涯の重要事件のあるものに影響するところがあったように思う。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著
「同じ町にいま一人ジョン・コリンズという本好きの青年がいて、私はその男と仲よしになった。私たちは時々議論をしたが、二人とも議論が大好きで、互に相手を言い負かしたいと心から願ったものだ。ついでながら言うが、この議論好きという性質はともすると非常に悪い癖になりやすいもので、この性質を実地に生かすとなると、どうしても人の言うことに反対せねばならず、そのためにしばしばきわめて人付きの悪い人間になり、こうして談話を不快なものにしたり、ぶちこわしたりしてしまうほかに、あるいは友情がえられるかも知れない場合にも不愉快な気持を起させ、恐らく敵意をさえ起させるのである。私にこうした議論好きの癖がついたのは、父が持っていた宗教上の論争の書を読んだからである。その後私の見たところでは、思慮ある人物は滅多にこの悪癖に陥らない。法律家や大学出の連中、それから一般にエディンバラ育ちの人々(当時エディンバラ大学はヨーロッパの学問の中心の一つであった)は例外であるが。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著
「私は是非ともそうなりたいと思っていたのだ。こうした練習や読書にあてた時間は、夜、仕事がすんだあとか、朝、仕事がはじまる前か、あるいは日曜日だったが、日曜日にはなんとか口実を作ってはひとり印刷所に残るようにして、みんなと一緒に礼拝に出かけるのをできるだけ避けた。父のもとにいる間は、いつも父から日曜の礼拝をやかましく言われ、自分でもその頃はまだ礼拝に出かけるのが義務だと考えてはいたのだが、どうにも時間の都合がつかないように思えたのである。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著
「 仲のいい友人のコリンズは郵便局の事務員であったが、私から新しい土地の話を聞くとすっかり気に入り、自分も出掛けようと心を決めた。そして私が父の決断を待っているうちに、一足先に陸路ロード・アイランドへ出発した。蔵書は、数学と自然科学の書物がかなり集っていたが、ニュー・ヨークで待っているから、君が来る時に君の蔵書と一緒に持ってきてくれと言って、あとにおいて行った。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著
「ニュー・ヨークで私は少し前に着いていた友人のコリンズと落合った。私たちは子供の時からの仲よしで、同じ本を一緒になって読んだものだが、彼のほうが読書や研究の時間に恵まれていたばかりか、数学の方面に私をはるかにしのぐ驚くべき才能を持っていた。私はボストンにいた間じゅう、人と喋ったりする暇な時間は、ほとんど彼と一緒に過したのであった。彼はかねて勤勉で酒をたしなまない真面目な青年であって、学問があるというので牧師たちやその他の紳士連から大いに重んじられ、やがては世に出て一とかどの人物になるだろうと思われていた。ところが、私が留守をしている間にブランデーを飲んで泥酔する癖がついて、ニュー・ヨークへやってきてからも毎日酔っぱらい、その振舞いにすこぶる異様なものがあることが、彼自身の話からも他の人の話からも分った。彼はまた 博をやって金をすったので、私は彼の下宿料を始末し、途中の旅費もフィラデルフィアへ行ってからの滞在費も支払わねばならなくなったが、これは私にとってはなはだ迷惑なこととなった。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著
「バーネット主教(一六四三─一七一五、英国の著名な聖職者・歴史家)の子息で、当時ニュー・ヨーク植民地の知事だったバーネット(一六八八─一七二九)は、船長から乗客の一人で書物を沢山積んで来た若者がいると聞くと、会いたいから連れて来てほしいと船長に言った。そこで私は彼のところに伺候した。もし酔っていなかったらコリンズも一緒につれて行くのだったが。知事はたいへん 重に私をもてなし、その蔵書を見せてくれたが、なかなか立派なものであった。私たちは書物や著者のことをいろいろと話し合った。この人は私に知遇を与えてくれた二人目の知事で、それは私のような貧しい少年にとっては非常に嬉しいことであった。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著
「 当時の私の重立った知合いは、チャールズ・オズボーン、ジョーゼフ・ウォットソン、それにジェイムズ・ラルフで、いずれも読書家であった。最初の二人は、町でも有名な公証人、つまり譲渡証書作製人チャールズ・ブロッグデンの書記で、いま一人はある商店の店員であった。ウォットソンは敬 で常識に富んだ真正直な青年であった。他の二人は、宗教上の信念などむしろいい加減なほうで、ことにラルフは、コリンズ同様、私の影響で宗教に疑いを持つようになっていたが、そのために私はこの二人からひどい目に会わされた。オズボーンは頭がよく、率直淡白かつ真率で友達思いであったが、文学上のことになると、必要以上にあら探しを好んだ。ラルフは才人で、態度は温雅、恐ろしく弁が立った。私は彼以上の弁舌家には会ったことがないように思う。二人とも詩がとても好きで、短いものを試作し始めていた。日曜日になると、私たち四人はよく一緒にスクールキル川(フィラデルフィアでデラウェア川に合する)近くの森へ楽しい散歩に出かけ、そこでかわるがわる書を読み合っては、読んだものについて話し合うのであった。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著
「 このことがあって以来、ラルフは詩人になる決心を固めた。私は思い切るよう百方説得したが、ポープのおかげで迷いがさめるまでは下手くそな詩を書くのを止めなかった。けれども散文家としては相当なものになった*。彼についてはまた後で述べる。しかし、ほかの二人については述べる機会がないかも知れないから、ここで簡単に述べておくと、ウォットソンは数年後私の腕に抱かれて死んだ。仲間の中で一番いい人物であったから、私たちはその死を深く悼んだ。オズボーンは西インド諸島に行き、その地で著名の弁護士となり、財産も作ったが、若死した。私たち二人は、先に死んだほうが、できたら生き残っているほうを親しく訪れて、あの世の事情を知らせることにしようと固い約束を結んでおいたが、いまだに彼はその約束を果してくれないでいる。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著
「私たちの家に、店はたしかクロイスターズ(ロンドンにはこの名の場所が少くとも四ヵ所あるが、ここは恐らく先に出た法学院近くのそれであろう)に出していたかと思うが、小間物屋の若い婦人が泊っていた。上品な育ちで、物分りがよく、快活で、ことのほか話の面白い婦人であった。夜になると、ラルフは脚本を朗読して聞かせなどしたが、やがて二人は仲よくなり、女が他の宿へ移るとラルフもついて行った。しばらくは二人で一緒に暮していたが、彼は相変らず仕事がないし、女には子供もあり、その収入だけではやって行けないので、彼はロンドンを出て田舎で塾をやろうと決心した。字は上手だし、算術や計算が得意でもあったからこの仕事をやる資格は十分にあると考えたのである。けれども、これは自分にはふさわしくない卑しい仕事で、いずれは運が向いてくるに違いないのだが、その時になってかつてはこんな卑しい仕事をしていたと言われるのは癪だと考え、彼は名前を変えて、光栄なことに私の名前を使ったものである。それが分ったのは、まもなく彼から手紙がきて、ある小さな村に落ちついたこと(パークシャアだったと思う、そこで一人につき週六ペンスの割で十人ほどの子供たちに読み書きを教えた)、 T 夫人の面倒を頼むこと、手紙はこれこれの場所の塾主フランクリン氏宛にしてほしいこと等々と認められていたからである。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著
「 私は子供の時からこの運動が好きで、テヴノー(一六二〇─九二、フランスの水泳家)の泳法を学んで練習し、これに、実際に役に立つばかりか、見た目にきれいで、楽々と泳いでいるように見えるようにと、自分自身の工夫を少しばかり加えていたが、それをみんなこの機会に一行の者に披露すると、しきりに感心してくれたので大いに気をよくした。ワイゲイトは、研究題目が私と同じであったほかに、水泳の達人になりたいと思っていたので、そのためにますます私に近づいてきた。そしてしまいには、生活費は印刷の仕事で稼ぎ出すことにして、二人でヨーロッパじゅうを旅行しようではないかと言い出した。私も一度はその気になったが、敬愛する友人のデナム氏(私は暇な時には、よくこの人と一緒に時を過したものだが)に打明けると、彼はやめたほうがいいと言い、自分は近く帰国するつもりでいるが、君もペンシルヴェニアに帰る以外のことは何にも考えないようにしたらと忠告してくれた。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著
「 アイルランド人のジョンはほどなく逃亡したが、その他の者と私はたいへん仲よく暮し始めた。キーマーは何にも教えることができないのに、私からは毎日何かしら教わるので、それだけ一同は私を尊敬したからである。土曜日はキーマーの安息日で休みだったから、読書のできる日が週に二日あった。町の才智のある人々との付合いもふえてきた。キーマー自身もすこぶる 重に、かつうわべはいかにも大切そうに私を遇するので、ヴァーノンへの借金のほかには、今や心を悩ますことは何もなかった。これまで経済がまずかったので、まだこの金が払えないでいたが、親切にも彼は催促しては来なかった。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著
「話が前後するが、前年(一七二七年)の秋、私は有能な知人の大部分を集めて相互の向上を計る目的でクラブを作り、これをジャントー(スペイン語からきて、徒党・秘密結社を意味する)と名づけて、金曜日の晩を集りの日にしていた。会則も私が起草したのだが、それによると、会員はすべて順番に、倫理・政治ないしは自然科学に関するなんらかの点について少くとも一つの問題を提出し、仲間の討論にかけることになっていた。また三ヵ月に一度は何であれ、自分の好きな題目について論文を書き、それを提出して読むという約束であった。討論も、議長の司会の下に、議論のために議論するとか、相手を言い負かすために議論するとかではなしに、真理探求という真面目な精神で行うことになっており、しばらく後には、議論が喧嘩腰になるのを避けるために、独断的な言い方や真向から反対するといったことは一切禁制となり、それを破る者には小額の罰金を課することにした。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著
「 ニコラス・スカル、測量師。後に測量監督官になった。本好きで、たまには詩も書いた。 ウィリアム・パーソンズ、もとは靴屋の職人であったが、読書好きで、はじめ占星学研究の目的で勉強して、数学の知識をかなり身につけたが、後には占星学なんかと言って笑っていた。彼もまた測量監督官になった。 ウィリアム・モーグリッジ、指物師。まったくすばらしい腕利きで、また着実で物分りのいい男であった。 ヒュー・メレディス、スティーヴン・ボッツ、ジョージ・ウェブ、この三人の人物については前に述べた。 ロバート・グレイス、多少財産のある青年紳士。鷹揚で、元気がよく、機智に富み、よく洒落を飛ばし、また友達好きだった。」
—『フランクリン自伝 (岩波文庫)』松本 慎一, 西川 正身著