及川琢英「関東軍-満州支配への独走と崩壊」(中公新書)
関東軍は満州事変を勝手に引き起こすなど独断的な行動で知られる。なぜそのような組織になったのか、歴史をたどって記述されている。
序章(1904-19):前史
日露戦争の後、ロシアから関東州と南満州鉄道の利権を得た。それを守備するため小規模な駐屯部隊が設置された。これが関東軍の前身となる。第一次大戦中の対華21か条の要求で権益拡大。また満州での日本の行政権について領事館、都督府、満鉄の間で錯綜、整理が求められていた。また満州での治安維持について張作霖などの現地勢力との連携が模索され、陸軍内や大陸浪人の「支那通」が各勢力と個別に接触したり軍事顧問になったりしていた。
第1章(1919-23):関東軍の誕生
原内閣は、行政府の関東庁と関東軍司令部を分けた。関東庁は一般行政と警察、満鉄の監督を行い、関東軍司令官は天皇に直隷して駐屯部隊を統率することとなった。現地では張作霖など奉天派と直隷派の戦争(第一次奉直戦争)が起き、日本は表向き中立を守りながら張作霖を支援した。その間、陸軍中央に無断で武器を渡すなどの不祥事もあった。
第2章(1923-28):張作霖爆殺事件
第一次大戦後の軍縮で関東軍の規模も縮小した。その間に第二次奉直戦争が起き張作霖が負け、さらに蒋介石軍が北上した。満州の治安維持を巡り張作霖と関東軍の間で緊張が高まる。関東軍は張作霖の排除のための出兵を陸軍中央に上申するが参謀本部は同意せず。河本大佐らは張作霖を爆殺した。
第3章(1928-32):満州事変と満州国
関東軍は張学良を担いで満州に自治政権を作ろうとしたが、張学良は蒋介石との連携を選んだ。関東軍参謀となっていた石原は満蒙占領計画を立てるが陸軍中央の同意は得られず。柳条湖で爆発を起こさせ、それをきっかけで中国側の軍と衝突を引き起こした。朝鮮軍も無断で満州に越境した。天皇は穏便な処理を行うとし越境を咎めなかった。満州の軍事的な占領後、石原らは日本の植民地とすることを主張したが、天皇・内閣・陸軍中央ともに同意せず、満州の現地勢力を各省のトップに据え、また清朝のラストエンペラー溥儀を統領とした満州国を設立することとなった。また陸軍中央は、満州国設立にかかわった軍幹部を本国に転勤させ、より中央に忠実と思われる幹部を関東軍に送った。
第4章(1932-35):在満機関統一と満州国統治
満州国の統治について関東軍の軍人では経済運営等のノウハウが乏しく、国内の行政官が招致された。はじめ関東軍司令部内に民生部門が作られたが、文官を司令部に勤務させることへの反対があり、また関東軍とは別に民政機関を作ることへも反対があるなどの混乱があった。結局は満州国政府の中に日本人官僚を送り込む形で統治が行われた。その間、関東軍では陸軍中央の承認を得ないままで熱河への進出を行った。
第5章(1935-38):華北・内モンゴル工作の推進
華北方面への関東軍の進出には陸軍中央の反対が強いことと対ソ連での足場構築のため、関東軍は長城以北の内モンゴルへの進出を図る。モンゴル王公との連携で傀儡政府を作っていった。一方で支那派遣軍は北京郊外で中国軍と衝突、これをきっかけに日中全面戦争となる。
第6章(1939-45年):日ソ戦争と軍の崩壊
満州とソ連・モンゴル人民共和国との国境は不明瞭、特に川の中州は頻繁に位置を変えるため紛争が絶えなかった。ノモンハンで双方大きな損害を出した後は一旦静穏となった。対ソ戦対応で関東特別演習「関特演」名目に軍備を増強した。しかし対米開戦後は南方軍への支援が必要になり、戦況の悪化とともに関東軍から兵力が中国や南方に抽出され、1945年には実戦能力が残っておらず8月にソ連が参戦してから戦うことができなかった。
関東軍は陸軍の中の一つの部署であり、陸軍中央とは頻繁に人事異動が行われていた。それでも中央にいた時には関東軍の独断を抑制しながら、いざ関東軍に赴任すると独断に走る人が続出した。
なぜ関東軍が独断で謀略に走るようになあったのか
(1) 陸軍の規律として軍事行動中は一々伺いを立てず自らの判断で臨機応変に行動すべしという原則があった。
(2) 関東軍司令官は天皇直隷であり、正式な命令が出せるのは天皇しかいなかった。長州閥の時代は山県有朋等の権威が絶大だったのそれでも統制できたが、陸軍大臣や参謀本部長が「同じ陸軍の将官同士」という関係になると陸軍中央の指示は軽視されがちになった。
(3) 満州国設立にかかわった石原たちが出世したことで、独断でことを起こしても成功さえすれば問題ないと思うようになった。
(4) 軍の統制において天皇、総理大臣、陸軍大臣、参謀本部ともに一貫性に欠け、最初は反対しても事が起き、世論がそれを支持すれば追認してしまうという弱さがあった。