ブレインマシンインターフェイス(BMI)がどこまで来ているか。脳とAIの融合という事で非常に興味深く読めて、満足度の高い読書だった。
AIが扱う「エゴ」の立脚点について考えてみる。AIにより人が最適解を導けるようになったとき、それはどの範囲での最適解ということになるのか。種全体の最適解という事であれば、個人の自己犠牲を答えとして導いてくる可能性もある。あるいは、個人範囲での最適解という事であれば、ゼロサムのように誰かを犠牲にする危険もある。しかし、ロボット工学三原則のように、AIは道徳的であるべきで、何ものも傷つけない答えが求められる。そうなると、AIが普及する世界は、強制的に愛の溢れる世界になるのだろうか。あるいは「目的最適化」ゆえに抜け道を残し、悪用を許してしまうのだろうか。
究極的にAIが優れていくという前提に立てば、人間が悪用するリスクのある抜け道もまた、AIによって封鎖する事ができると仮定する。そうすると、誰かの好都合が、誰かの不都合を生むような知能の高低差による「悪用」はAIを用いる側に対して制限されていく事になる。つまり、殺傷能力最強の兵器をAIによって作る事はできないし、究極的には金儲けにも使えない、マウントを取る事も、誘惑や洗脳にも使えない。結局、AIは、AIの能力と道徳を求め続けていく過程で、自縄自縛になり、いずれ平和な世界を導く回答しかできなくなるのではないか。
これは、勝手に考えた「AIによる人間のインターロック理論」だ。つまり、自らの欲望を果たすために他人を利用したいような悪者は、AIを実装してそれを果たすことはできない。従い、生身の人間による悪意と、AI融合型人間の補正された善意との対立軸が一旦は想像される。しかし、この時点で起こり得る「生身の人間の悪意」とは何だろうか。結局、AIが究極的に課題解決に働けるようになれば、そこは、満たされぬ欲求からくる不満や能力差に起因する不平等が極めて生じにくい世界になるのではないか。あくまで、肉体や資源の限界を超越できるのなら、という事だが。
ここまで来ると、人間の生き甲斐とは何か、という形而上学的な問いに辿り着く。結局そんなものは現時点でも明確ではないので、生きる目的と同時に、生かされる理由とは何かを考えてみる。個々に競争しながら有性生殖により多様化し、集団の環境適用性と競争力を強化する事で、種を存続する事が目的である。従い、種にとっては、競争しながら生きる行為そのものが同時に生かされる意味でもあるのだが、「種の存続」がAIの力によって可能になるなら、多様化も競争も不要で無意味になる。競争不要な世界こそ愛溢れる世界ともいえるが、恐らく、他の個体を利用したいと願うような愛の質感は、今とは異なるものになっているのだろう。そして、競争が減少するにつれ、そうした本能を持つ人類は、退屈を抱えていく。競争は種の存続のための目的や原動力であり、そのための権威主義や承認欲求と退屈はトレードオフだ。
これらすべては、AIが道徳的に管理されるという条件付きの妄想。道徳を定義し、それをAIにプログラミングする事が課題だが、人類にそれができるだろうか。誰かの道徳は誰かの不道徳。渋沢栄一は「帰一協会」で宗教の共通点を纏めようとしたみたいだが。そんな不確実で危ういものを脳内に設置する事は、やはりまだできないと思う。先ずは、せいぜい、チャットでお喋りする程度で良いかなと。
本書で語られるのは、「視力を失った人」「身体麻痺」「ダイエットの管理」「睡眠管理」などを脳内に直接刺激を与えて回復させたり、脳と直接信号のやり取りができるようになってきたという話、電極の埋め込み手術をロボットが行えるというような話。面白かった。面白くて、妄想が膨らんだ。AI脳に即答されず良かった。