以下引用
山岳地帯では道は、天候や季節の変化に応じて常にその姿を変え、人々はそのつど道を見出しながら歩いてゆく
麓の車道から頂上のロープに至るまで、等しく「道」と呼ばれている
雪に閉ざされる冬の道は、常に現れたり消えたりする
われわれは以前に棲んでいた人々によって作られた歴史世界の物質的な写
...続きを読むしを見ることなくして、われわれが誰であるのか、またなにになるのかを知らない。世界は眼前に物質文化としてあり、われわれを通して変化し続けている
歩くとは、足を交互に踏み出すことである。だがそれは、前方にある空間から思考を通して足場を選択するということではない
歩行のリズムが不意にとぎれれば、転倒や道を見失うことにつながる。歩行と環境とが相互に浸透し合ってることを示す事例として、つまづくこと、滑ること、道に迷うことなどおがある
野生の空間には、そもそも道がない
歩くことは単に主体とそこにある道だけの関係ではない。雨に打たれれば地面はぬかるみ、濡れた衣服は歩行者の意気をくじく。積もった雪は地面を覆い隠し、歩行者の足取りを重くする
大地や人間を含めた界面は、多かれ少なかれ、媒質のたえざる運動の一時的な凝固に過ぎない。われわれ有機体は、媒質の流れに浸され、呼吸をして、物質を交換しながら、空と大地のなかで生きる
単一不変の自然あるいは現実世界を前提として、それを観察する複数の対等な文化、世界観が存在するという図式が相対主義。これは、不変な自然を暗黙の前提にしており、自然に対する「正しい」認識を序列化する危険がある
世界がたえざる媒質の流れであれば、前もってそこにあるただ認識されるのを待つ不変の自然は存在しない。同時に人間のまた予め主体として確立されて世界を認識する特権的な存在ではなく、あくまでも一時的な媒質の凝りとしての有機体にすぎない
森は母であるという言明はメタファではない。現地にはない概念を持ち込んだうえで、それが比ゆ的に投射されたという議論は批判されるべき
子どもが母親に食べ物をねだり、母親がそれを与えるとき、母子関係がその振る舞いに投影されているのではなく、そうした行動こそが母子関係なのだ。母と子という関係性があらかじめ抽象概念として頭の内にあり、すでにそこにある個物と個物のそれを当てはめるという操作は、観察者がつくりだした仮構
アフォーダンスは環境ん遍在し、身体によってその機能を直接知覚することで、われわれは対象の意味を獲得する。同じものを見ても、人によって異なるアフォーダンスが知覚される。したがって環境の中のすべてのものにアフォーダンスは無限ん存在する
同じ種でも個体差によりアフォーダンスが変わる、手の大きい個体にとっての把手は、手の小さい個体にとってのそれとはならないこともある
物理的環境中には無限のアフォーダンスが実在するが、個々の環境になにが存在するかは、アフォーダンスの近くに依存する。そしてアフォーダンスの知覚は身体に応じて異なる
身体の移動にともなって環境中の思いもかけない要素がそのつど道を構成してゆくという動態がアレンジメント
通念的な意味での個物に加えて、現象や観念の結びついたアレンジメントが一時的かつ偶然的に固体化され、情動を及ぼし、受け止める能力をもった様態が「此性」と呼ばれる(ドゥルーズ)アレンジメントが、備えた意味という点においてドゥルーズの「此性」は、本書の文脈ではアフォーダンスと同様のもの。ただしこれはモノだけではなく、「動物-狩り-五時」のような分に出会ったら、一気に読み通さなければならないのだ。動物が夕方になる、夜になる、五時はこの動物だ、この動物はこの場所だという
★「此性」には始まりも終わりもないし、起源も目的もない。「此性」は常に「ただなか」になるのだ。ある歩行者がそのときに持つ一回的なパースペクティブにとっては、「此の痩せ犬は街路」となりうる
→「此性」はアウラということだろうな。アレンジメントによる「此性」を顕現させるのがアートだともいえる
道とは過去からの継起にある現在においての選択可能な範囲の未来に立ち現れる。そして道は自己の身体と地面のみならず他者も含めた環境中の諸物のアレンジメントであり、道は移動する身体に応じてそのつど別様に立ち現れる
個々の主体の成立が二次的であることは、それが重要であることを意味しない
世界を深く経験するには、埋没すると同時に、再帰的に自己を差異化する、双方向の運動が不可欠。世界とは異なったものとしての「私」という再帰的な意識が大切
動物の観点と同一化するが、完全に獲物の観点に融合してもいけない
移動する視覚は環境を知覚すると同時に、自己を知覚することでもある
人はある文化に適切なやり方で知覚することを学ぶ。それはデータを組織化することではない。環境の特徴的な側面に気づき滑らかに反応する能力の修練が必要とされる日々の作業のなかで、現場の訓練により学ぶ。つまり学ぶことは情報の伝達ではなく、注意の教育である
→自分がやりたいのもこれだな。「注意」を喚起するフィールドというのか。
事物の立ち現れは個々の身体に応じて常に別様。人々は環境への類似した注意の向け方を学習することによって、事物の立ち現れをある程度まで共有する。
われわれがすまう開かれた世界とは、明確な境界を備えたそれ自体としてのモノは存在しない
★環境中でその都度取り結ばれる関係こそが存在であり、前もって頭の中で構成された先験的なカテゴリーがすでに世界のそこにある対象へと投影されるのではない
山中に固定的な道を存在しえず、同じ場所でも歩けるか
どうか、言い換えればそこが「道」であるかどうかは個々人によって異なる。道を示す手がかりを的確に把握し、身体や道具を運用する技術が大きくかかわる
技術を身に着けたシェルパの道も、一般人や観光客にとっての道とはならない。ただの壁にしかみえなかった
移動する身体とモノ、環境のアレンジメントとして「道」が立ち現れている
環境中に「住まう」視点にとって、学習とは世界を外部から俯瞰する何らかの心的表象を作り出すことではなく、環境中の手掛かりに対する注意の向け方を洗練させること
★ひどく霧がかって道がみえない、迷って疲れ切ったそのとき、大きなヤクが二頭現われて濃霧のなかで道を見せてくれた
ポータ同士や、観光客同士でも体格や健康状態、天候などにより、どこが身体を支える足場になるのか、つまり「道」は少しずつ異なる
★道の可能性は、環境のうちにスペクトル上に遍在しており、個々の身体や事物との関係に応じて「道」はそのつど別様に立ち現れる
道は立ち現れると同時に、確かに人の手によって作られる
★★登山ガイドは、環境中の諸要素を適切に把握して組み合わせ、そこに顧客とともに通れる「道」を作り出してゆくことが必要となる
→ここ、本来のツーリズムの「ホスト」の役割だなとおもう。メタファーとしても。
論理的な帰結として、歩く身体がなければ「道」はない。すなわち歩行する自己もまた未知のアレンジメント
一時的に自他の境界が融解して新たな存在へと生成変化する契機があった。自己と他者とものは、環境の中で、相互に浸透し、そのつどの道のアレンジメントを構成し、あるいは道そのものへと生成変化し移動を続ける
インフラは、人とモノと概念が混ざり合い「通常通り」を作り出すシステム。しかしインフラは想像力やイデオロギー、社会生活の物質化された発現であり、生政治が起動する場であると同時に、そのなかにおいてわれわれが生き、欲望し、夢見ることを可能にさせる物質的ネットワーク