ユダヤ民族の解放者にして立法者であり、宗教創始者でもあったモーセ。
フロイトはそのモーセがユダヤ人ではなくエジプト人であったという仮説を立てます。
フロイトは、エジプトに一神教をもたらした古代エジプトのファラオ、イクナトンの業績に着目し、ユダヤ人のエジプト脱出はイクナトンの宗教改革が失敗に終わった
...続きを読む結果、行われたものだと考えます。
しかし、もしそうだすれば、モーセがセム人の神に対する信仰をユダヤ人にもたらしたという歴史家たちの研究と矛盾してしまいます。その矛盾を説明するために、フロイトは、モーセが実際には二人いたという大胆ですが単純な仮説を立てました。
一人目のモーセは、エジプトの神アトンに対する信仰を人々に教えたが、ユダヤ人たちに殺されてしまった。そのことを後悔したユダヤ人は、ヤーウェを崇拝するミディアンの祭司エトロを「二人目のモーセ」に担ぎあげたのだと。
ドイツの聖書学者ゼリンの主張の焼き直しであるこのモーセ殺害説を、フロイトはユダヤ教とキリスト教を特徴づけている「あやまち」や「罪」の観念と結び付けて展開しました。
宗教的な現象は、実は個人の神経症状に由来している。神経症状に似た結果こそ宗教という現象に他ならないとフロイトは考えます。
精神分析が本来、病める精神の来歴の分析から、個々の人間生活史の解釈から出発した学問であることを思うならば、フロイトがすべての事態について歴史性を問うのは必然的なのかもしれません。
過去と現在を心的因果性で結びつけて自論を展開するフロイトは、ユダヤ人はモーセの「作為・制作」の所産に他ならないと考えているふしがあります。
ユダヤの歴史は精神史であり、その歴史の根底にあって、歴史を開始させたのはモーセであると。
本書は冒頭から大胆な仮説によりいきなり引き込まれていきますが、歴史的事実に照らした説得力のある論証を見ていくと瞬く間に「常識とは何か」考えさせられます。
大胆な仮説と論理の展開は、知らず知らずのうちに常識に縛られている方にはぜひとも読んで頂きたいです。