台湾は良かった、もう一度行きたくて夢に見るとまで書いている。
途中で持病が出て苦しかったはずだが・・・招待してくれた、お砂糖会社の重役さんへの気遣いか。
船で台湾の基隆(キールン)に着き、そこから鉄道で、明治精糖のある蕃仔田(ばんしでん)駅に着くのだが、特に用事もないのに、終点まで乗ってみて、海を
...続きを読む見て折り返してくる鉄オタ百閒先生である。
日本郵船の嘱託を務めていた関係か、何度も船旅をしている。
横浜、神戸間が多い。
豪華客船の旅である。
食事代は船賃の中に含まれているので、ご馳走を食べ放題なのだが、麦酒をお腹に入れたい百閒先生は、そのためにお腹を空けておく。(アルコールは有料らしい)
船旅の紀行文は、昭和41年頃の発表のものが多い。
日本が一番調子に乗っていた頃だ。良い意味でも悪い意味でも。
日本人は、最後のいい思いをしていた。
しかし、外食では麦酒は一人1本と制限されたとか、航路が変更になったり閉鎖されたりしたというちょっとした描写に、戦争に転がり落ちていく時代を感じる。
言及されていないが、文筆業の人たちは書く内容に頭を悩ませていたことだろう。
海に関しての発言で、「日本の海は広がった」と言っているのは、ご時世的に一般的な考え方だったのか、心からそう思っていたのかは、はかり難い。
船旅での、ちょっとした「こんなはずじゃなかった」エピソードがいくつかあって、ユーモラス。
船から見る、さまざまな波の観察と考察が興味深かった。
戦後の1963年発表のエッセイでも、同じ41年の船旅に関するものを収録している。
日本の客船の黄金時代だった。
これは、戦後だから書けたエピソードだと思うものもあり、政府がローマ字表記を変更したせいで、秩父丸が鎌倉丸と名前を変えなくてはいけなくなった話が面白かった。