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森嶋通夫
1923年大阪府生まれ。1946年京都大学経済学部卒業。大阪大学教授、エセックス大学教授、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)教授を歴任。1976年文化勲章受章。2004年7月逝去。大阪大学名誉教授。LSE名誉教授。イギリス学士院会員。著書に『イギリスと日本』 『続イギリスと日本』 『政治家の条件』 『思想としての近代経済学』(以上、岩波新書)ほか多数。
事実、英国は日光の非常に乏しい国でありまして、ビタミンDの不足のために、「くる病」が非常に多い。ですから、「くる病」をもって英国病というのは、きわめて穏当であるかと思います。しかし、ここで「くる病」の話をすることは、経済の話を期待して、せっかく来られた皆さんに失礼でございますから、何とか経済的なイギリス病とは何かというようなことについてお話して、ご満足いただければ、拍手喝采でお帰り願いたいと存じます。
日本の皆さんは「イギリスにはティー・タイムがある。午前にも午後にもティー・タイムがあるから、仕事の能率があがらない」とよく言いますが、イタリーやスペインのシエスタほどではないにしても、ティー・タイムは日本人にとっては、実にいらいらするものです。けれどもその間の時間的ロスは、大学の職員の場合、午前午後合せて長くて一時間、短ければ三、四〇分ですから、「よく遊び、よく働け」という原則をふみはずさない程度ならば、ティー・タイムの制度は生産性の向上にプラスするともマイナスであるとも決しかねます。
その後、そのレクチャラーは抜擢されまして三十二歳の若さでマンチェスター大学の教授になりました。イギリスの大学で、その年で教授になるというのは稀有のことです。炭坑夫の子が一転して、エリートになったのです。もう一人私が知っている若い教授は、フィッシュ・アンド・チップスの店の子どもでありますが、フィッシュ・アンド・チップスというのは日本でいえば、おそらくうどん屋に該当するでしょうか。本人にさえ力があれば、イギリスでは、うどん屋の子や炭坑夫の子が大学教授になるのに、何の障害もありません。
ところで通常の人間の場合、その人が感じる満足度は、その人の持っている物の数量だけでなく、他人(たとえばライバル)が持っている物の数量にも依存するものですが、イギリス人は特別で、彼らは他人が何を持っていようと動じません。ひたすら自分の感じる満足は自分の持っている物の数量だけに依存すると信じて、他人の持ち物には無関心であります。たとえば、偽物のワニ皮のハンドバッグをもってパーティに行ったら、友人が本物を持って来た場合、目がくらくらとする娘さんがいるでしょうが──そうして私はそういう娘を可愛いく思いますが──、イングリッシュ・ガール(とくにインテリ階級のイギリスの娘)は、そんな場合、すぐネバー・マインドとあきらめてしまうのです。したがって、よし他人の持ち物に影響されたとしても、その効果はすぐ消失してしまいます。そしてイギリス人は、自分がそうだから他人もそうだろうと思います。こうして全員がそれぞれの効用関数の独立性と、相互間の無影響性をみとめますと、お互いにお節介はしなくなります。
日本の最初の憲法である十七条憲法第一条において聖徳太子が、「和を以て貴しとなす」といわれたのは、このように考えれば、彼の単なる思いつきや、偶然ではありません。和は大和魂の根幹であります。ところで大切なのは、その次であります。和が一番貴い徳性であるといっても、和とは何であるかがはっきりしていなければ、「Xを以て貴しとなす」といったのと、何らかわりがありません。聖徳太子は大変賢明な人でしたから、その点をよく心得ていて、他の条文で和とは何であるかよく説明しています。すなわち「和」とは兄弟や友人と仲良くする、それから親や目上の人のいうことをよく聞く、さらに多数派(マジョリティ)の意見に従うことであると説いています。したがって、上の人の命令に服従し、多数派に対して従順なのが大和魂の持主であり、そうでない人は下船してもらう。このようにして日本は、国内の平和、治安を保とうとしたのです。
パブリック・スクールはアメリカでは公立校を意味しますが、イギリスでは逆に私立校のことをいいます。いかにイギリス人が天の邪鬼でも、パブリック・スクールを私立校と訳するのは、意訳がすぎますから、おそらく公衆学校と訳すべきでないかと思います。昔はお金持の子弟は学校などに行かずに、各家庭で個人教育を受けていましたが、それほど金持でない家庭の子どもは、そのような教育を受けることができませんので、集団教育で我慢しなければなりません。こうして集団教育すなわち公衆のための学校教育がはじまったのですが、このような教育は近代国家になるはるか以前のことですから、当然のこととして、公衆学校は公立でなく、私立でありました。このような公衆学校は時代がたつにしたがって、歴史のある立派な学校になりましたから、公衆学校すなわちパブリック・スクールと言えば、歴史のある立派な学校のことを意味するようになりました。これらの学校は、その財政的基礎もしっかりしていますから、国家の援助を受けなくても、独立(インデペンデント)に経営していくことができます。
当然のこととして、誰しも子どもをパブリック・スクールにやりたがりますが、経済的な理由その他で子どもを志望校にやれなくても、イギリス人は決して絶望したりしません。彼らは、ある意味では、学校など何処を卒業しても同じことだと思っています。どの学校を出ても大した違いはないと考えています。おそらくイギリス人は、日本人が有名私立高校や東大に固執しているのを理解することができないでしょう。「どの学校を出ても同じだ。学校はきめ手でも何でもない」という意味では、イギリスには学校差はありません。しかしながら、別の意味ではイギリスにも学校差があります。「学校差はなくて学校差がある」という矛盾した命題を後ほど説明したいと思いますが、それに先立って準備として、まず国家検定試験制度について説明しておきましょう。
このような大学は決して楽園ではありません。したがって若い人も勉強が好きでない限り、大学に行きたがりません。彼らはつまらない思いで三年間大学に行くよりも、その分だけ早く、職場に飛び出して、実績をつくっておいた方が、ずっとかしこい生き方だと考えます。その上に、イギリスでは十六歳で義務教育がおわれば、親も子どもも一人前になったと考えます。子どもはお金の上でも、親に頼らなくなり、大学へは親のお金でなく、奨学金で行こうとします。
私は昔、高木貞治(数学者)の随筆を読みましたとき、「遊びでも本気にならなければ面白くない」という言葉を読んで非常に感銘を受けました。駆け足の百メートル競走や、タックルのないラグビーが面白いはずがありません。同じように大学生活も本気で生活しなければ、面白くないにきまっています。いまの学生が大学生活が面白くないというのは、本気で勉強していないからだと思います。