タイトルから、1990年代のヘアヌードブームを中心にした本だと思って読み始めたが、実際には古代から現代まで、陰毛や裸体が社会の中でどのように扱われてきたのかをたどる文化史だった。そして読みながらずっと考えさせられたのが、「そもそも何をもって猥褻というのだろう」ということだった。
第一章で特に印象に残ったのが、「性の行為や表現はそれ自体では別にエロティックではない。そのイメージを意識的に喚起したり暗示したりすることがエロティックなのである。」
アフロディテは、右手で股間を隠している。見せることではなく、隠すことによって、逆にそこを意識させる。すべてを露出することがエロティックなのではなく、「見えないから想像する」ことによってエロティシズムが生まれるという指摘は、その後の本書を読むうえで一つの軸になった。
一方、日本の歴史を見ると、裸体や陰毛を猥褻と考える感覚自体が、決して普遍的なものではなかったことにも驚いた。明治政府が開国後、海外からの批判を意識して混浴や春画を禁止し、裸体禁止令を出したことが紹介される。日本人自身の感覚だけから生まれた規制ではなく、「海外からどう見られるか」が出発点の一つだったという。
さらに1957年の最高裁判決では、猥褻を「普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」などと定義した。しかし、「正常」や「善良な性的道義観念」とは何なのか。それは時代によって変わる。実際、1970年代にはテレビ番組やドラマで女性の乳首が普通に映っていた。猥褻の境界線は、時代が進めば一方向に緩くなっていくものでもないようだ。
その中で、日本ではいつしか「陰毛が見えるかどうか」が、猥褻か否かを分ける象徴的な境界になっていく。本書の中には、陰毛のない少女の性器なら無修正でもよいとされた時代や、海外映画の陰毛表現をめぐる攻防など、今から考えると不思議な事例が次々と登場する。
そして1991年、樋口可南子の写真集を契機に、その境界が大きく動く。
篠山紀信の言葉では、自分の作品が樋口可南子の写真集でも篠山紀信の写真集でもなく、「ヘアヌード写真集」と呼ばれたことに強い嫌悪感を示している。そして「体に自然にあるんだから自然に表現していいんじゃないかっていう考えだった」と語っている。
ここには、「ヘアを見せてやろう」という発想とはまったく違うものがある。陰毛も人間の身体に自然に存在するものなのだから、身体を表現すれば自然にそこにある。それを社会やマスコミの側が「ヘアヌード」という新しい言葉で括り、陰毛が見えること自体を事件にしてしまったのである。
一方で、当時の取締当局の判断も興味深い。ポーズが挑発的か、小道具が猥褻か、カラー写真か、ストーリー性があるか、価格が安く入手しやすいか、といった要素を総合して猥褻性を判断していたことが紹介される。「モノクロよりカラーの方が猥褻」という感覚には驚かされるが、逆に考えれば、陰毛そのものが猥褻なのではなく、その見せ方や文脈によって猥褻性が判断されていたということでもある。
だからこそ、当時の『SPA!』の問題提起も面白い。書店では樋口可南子の陰毛が見える写真集を堂々と買えるのに、ポルノショップの写真には修整が入っている。「芸術なら無修正でもよく、ポルノなら駄目なのか」という疑問である。
私自身、この本を読みながらずっとここが気になった。
同じ裸体なのに、ある写真を見れば「いやらしい」と感じ、別の写真を見れば「美しい」と感じる。では、芸術と猥褻の境界はどこにあるのか。写っている身体そのものではなく、構図や光、ポーズ、撮影者の意図、掲載される媒体、価格、そして見る側がどのようなものとして受け取るのか。そうした周囲の文脈によって、同じ身体が芸術にもポルノにもなるのではないかと思った。
その点で、加納典明の「俺は劣情そのものを撮る」との言葉も強烈だった。芸術だから許されるという方向へ逃げるのではなく、人間の欲望そのものを撮ることも表現だと言い切る。篠山紀信の「自然な身体を自然に表現する」という考え方とは異なるが、どちらも単純な「ヘアが見える写真」という括りには収まらない。
そして、もう一つ面白かったのが、エロティシズムと「隠すこと」の関係である。
「もしかしたら陰毛が写っているかもしれないという幻想で読者に買わせる。これはエロの本質でもある」とある。
これは澁澤龍彦の言葉とつながっているように感じた。古代ギリシャの彫刻が股間を隠すことでそこを意識させたことと、1990年代の雑誌が「無修正」という言葉で読者に「もしかしたら見えるかもしれない」と期待させたことは、時代も表現方法もまったく違うが、人間の欲望という点では同じ構造なのかもしれない。
そして、隠されていたものが実際に見えるようになると、その価値も変わってしまう。
かつてはパンティ越しに毛がうっすら見えただけで感激したのに、一般誌にも陰毛が掲載されるようになった、という当時の文章が紹介され、「こうしてエロの基準はどんどん変化していく」と書かれている。
隠される。だから見たい。見えるかもしれないと想像する。そして解禁される。最初は大きな衝撃を受けるが、やがて見慣れて当たり前になる。すると、それだけではエロティックではなくなる。
そう考えると、「ヘアヌードの誕生」は同時に「ヘアヌードの終焉」へ向かう始まりでもあったのだと思う。
終章の「結局、陰毛は猥褻なのか」という問いに対して、この本を読み終えた今なら、陰毛そのものが猥褻なのではない、と答えたい。
人間の身体には昔から陰毛がある。それに「見せてはいけない」「見えたら猥褻」という意味を与えたのは社会である。そして隠したことによって、逆にそこに「見たい」という欲望が生まれた。やがて見えることが当たり前になると、今度はその性的な意味も薄れていった。
この本は陰毛やヘアヌードの歴史を扱った本ではあるが、読み終えて残ったのは、もっと普遍的な問いだった。
何が猥褻で、何が芸術なのか。 なぜ人は隠されると見たくなるのか。 そして、私たちが「当然」と思っている感覚は、本当に当然なのか。
人間の身体そのものは大きく変わっていない。それをどう見るかが、時代と社会によって変わり続けている。
陰毛という題材から、社会の常識、規制、芸術、メディア、そして人間の欲望まで考えさせられた。タイトルから想像していた以上に、「自分が当たり前だと思っている感覚は、どこから来たのか」を考えさせられる一冊だった。