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★再読
エル・グレコはゴッホにもピカソにも憧れられてる凄い画家だよな。
パリのジャポニズム時代、日本の美術沢山あるのに、中でも浮世絵だけが特に画家達を魅了したらしいんだけど、凄い分かるんだよね。パリで見る浮世絵は日本で見る浮世絵より謎に魅力的に見える。
ゴッホと言えば星とひまわり
ゴッホがミレーに憧れてたと言うのがミレーの絵を見てもピンと来ない。→ ストイックな牧師でしたから神の恩恵が描かれているミレーの作品世界に惹かれたのだと思います。
ゴッホは日本をユートピアだと思ってたということ?
ゴッホがエミール・ゾラが好きで『居酒屋』愛読してたのアツい
ドラク...続きを読む ロワ、ミレー、
モネは理論嫌いなの予想通りだった。あれは文系の絵だと思う。
ゴッホって知れば知る程人間的なものに惹かれるものがある。存在そのものが謎を感じさせて人を惹きつけるアートなんだと思う。
ゴッホって底辺を突き抜けててかっこいいんだよね。例えばダサすぎてかっこいい、馬鹿すぎてかっこいいみたいな
ゴッホってあの絵というか、存在そのものがアートなんだよ
ゴッホってどうしようもない人間過ぎてこっちもどうしていいか分からなくなる感じが逆に心惹かれる
圀府寺 司
(こうでら つかさ、1957年 - )は日本の西洋美術史学者、大阪大学名誉教授。専攻は西洋美術史/アート・メディア論[1]。大阪府生まれ。北野高校卒業。1980年大阪大学文学部美学科卒業、1981年から88年にアムステルダム大学美術史研究所留学、文学博士号を取得。1988年広島大学総合科学部講師、91年助教授、1997年大阪大学文学部助教授、2001年教授[2]。2004年度にワルシャワ、ユダヤ歴史研究所で活動。2023年定年退任、名誉教授。18歳のときに倉敷市の大原美術館にあった「アルピーユの道」の絵を見てゴッホに感銘を受けたが、それが後にオットー・ヴァッカーによる贋作であると判明したというエピソードがある[3]。
「ファン・ゴッホは生きることの難しい人間であった。その気難しさと真剣さとのゆえに妥協ができず、何をやっても人とぶつかり、何をやっても社会に適応できない。今日画家として世界的な名声を獲得したのは、生まれもった画才のゆえではなく、その生きる難しさのゆえであった。学校にも、画商にも、教会にもなじめず、万策尽き果てた時に残されていたのが「画家」という仕事だった。たったひとつ残された仕事に集中する以外、彼にはもはや生きる道がなかった。他に道がなかったからこそ、絵を描くことだけに懸けられたのである。もし、ファン・ゴッホに天才と呼ぶべきものがあったとすれば、それは決して画才ではなく、生きる難しさに耐え、生きる難しさから学び、極限にまで追い詰められながらも、残された道にすべての力を傾注できるだけの強靭な生命力だったとしか言いようがない。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「しかし、フィンセントはすでに少年時代から扱いにくい子だったようだ。小学校は途中でやめて自宅で家庭教師につき、その後は寄宿学校に入ることになった。中学校も中退している。伯父フィンセントの口ききでグーピル画廊で働かせてもらい、ロンドン支店にも、パリ支店にも勤務させてもらった。英語、フランス語をともに習得し、若い頃から英、独、仏語の文学作品に親しんでいる。学歴は中学中退だが高い教養を身につけ、後に大学の神学部入学を志した時には家庭教師からギリシャ語、ラテン語も習っている。 画廊での仕事は当初、まずまず順調に思えた。しかし、ロンドン勤務中に下宿の娘ウジェニーに失恋した頃から、仕事がうまく行かなくなる。この頃、父親は弟テオに宛てた手紙でフィンセントについてこう記している。「自分の過ちに眼を開かせようとはしてみた。効き目はあるだろうか。わたしたちはひどく悲しい思いでいる。本当に心労と悲しみとで疲れ果てている」「彼の中にはたくさん風変わりなところがあるが、でも、よいところもたくさんある。神に祈りつづけていよう」」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「ファン・ゴッホはどこにも受け入れてもらえなかった。その高い理想と、激しい気性と、有り余る宗教的情熱のやり場を、現実世界のどこにも見つけることができなかったのである。当時の手紙にはこう記されている。「僕の苦悩は以下のことにほかならない。僕は何をするのがいちばんいいのか、何かの役に立つことができないのだろうか、どうすれば何らかの問題をもっと詳しく、それを深く知ることができるのだろうか。僕がずっと頭を悩ませているのはこのことなのだ」( 155/ 133) しかし、長い失意の日々の末に、ファン・ゴッホは「自分に力がよみがえってくる」のを感じ、「大きな落胆の中で捨ててしまったクレヨンをもう一度取りあげよう。またデッサンを始めよう」と考える。二十七歳にしてはじめて画家になる決心をするのである。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「ファン・ゴッホは宗教を重く引きずったまま画家になった。聖職者になることを断念し、牧師も教会も嫌いになったとはいうものの、生まれて以来ずっと彼を育んできたキリスト教が彼の心から離れるはずもなかった。芸術家となったファン・ゴッホは、彼の内にも外にもある宗教との闘争を余儀なくされる。画家になったといっても今度は美術学校に行くわけでもない。まったくの独学である。オランダ時代は、画家としては基礎の修業時代、人間としては父親の宗教との葛藤の時代であった。 人間的に見れば、ファン・ゴッホはやや過保護なわがまま息子である。画家になる決心をしたといっても、自分で生計を立てながら苦学するわけでもない。寛容な両親はこの難しい子になんとか落ち着いてもらおうと、おろおろしながら、親戚などに手を回してきた。画家としての最初の年もファン・ゴッホは結局エッテンに住んでいた両親の家に転がり込んでいる。両親にしてみれば、自分たちの目の届くところにいればなんとか助力もできると考えていたのだろう。しかし、その目の届く範囲内でも、事件は起こった。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「田舎暮らしが多かったファン・ゴッホにとって、ハーグは二度にわたってもっとも長く住んだ都市である(オランダ語ではスフラーフェンハーへあるいはデン・ハーグと呼ぶ)。ファン・ゴッホはまず 1869年に伯父フィンセントが経営するグーピル画廊ハーグ支店に勤め始めてから 1873年にロンドンに転勤するまでの約四年間、この都市で画廊の店員として働いていた。次にこの町に戻ったのは 1881年である。エッテンの実家で父親とはげしい喧嘩をしてこの町にやってきた。以後、弟テオからの仕送りで生活と制作を続けていくことになり、 1883年までの二年間ここで画家としての修業時代を過ごすことになる。つまりファン・ゴッホはハーグで画廊店員として四年、画家として二年、計六年をすごしている。アムステルダムには牧師になる勉強をしていた一年、ロンドンに二年、パリにも計三年ほどしか住んでいないことを考えても、このハーグという都市がファン・ゴッホにとって大きな意味をもっていたことは想像に難くない。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「「この冬、ぼくはひとりの身ごもった女に出会った。男に捨てられ、その男の子供を宿していた。 身ごもった女が冬の通りに立たねばならなかった。パン代を稼がねばならなかった。どのようにしてか、分かるよね。 ぼくはこの女をモデルにして、冬の間ずっとこの女で制作した。十分なモデル代は払ってやれなかったが、それでも彼女分の家賃は払ってやったし、これまでのところ、自分のパンを分け合うことで、ありがたいことに、女とこの子供を飢えと寒さから守ってやれた。女と出会った時に目をとられたのは、女が病んでいることが分かったからだ。ぼくは女を風呂に入れてやり、できるだけ栄養のあるものをとらせたので、ずっと元気になってきた」 (224/ 192) ファン・ゴッホは惨めな境遇にあったシーンを見捨てておくことができなかった。そして、年上で、子連れで、身重の娼婦を自分の家に住まわせるという行動に出た。従姉ケーへのストーカー行為の次が娼婦との同棲である。この行動に弟のテオや、両親や知人達はどんなに驚き、眉をひそめたことだろう。もちろん、ファン・ゴッホの「扶養家族」たちの生活費もテオの仕送りの中からまかなわれることになった。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「 線の表現力《悲しみ》についてファン・ゴッホはこう手紙に記している。「去年の夏、君がミレーの大きな木版画《羊飼いの女》を持っていた時、ぼくは思った。たった一本の線でなんと多くのことができるものかと。もちろん、ぼくは一本の輪郭線だけでミレーと同じぐらい多くのことが表現できるなどと言うつもりはない。それでも、この人物像にぼくはいくばくかの情感を込めようと試みた。このデッサンが君の気に入るようだったらと願うばかりだ。(……) 同封のものはこれまでに描いたデッサンのなかで一番いい人物画だと思う。だから君に送りたいと思ったのだ。これはモデルを前にして描いたものではないが、それでもモデルをもとに描いたようなものなのだ。紙の下に二枚紙を敷いておいたことを知っておいてほしい。そうしてぼくは輪郭線を正確にとらえようと努めた。デッサンを画板からはずすと、輪郭は下の二枚の紙にきれいに型押しされていた。そこでぼくは最初の習作をもとに仕上げたのだ。後のデッサンは最初のデッサンよりもより生き生きしてさえいる」」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「オランダ時代、ファン・ゴッホの色彩は暗い。しかし、油絵を本格的に始めたニューネン時代には、自己流ながら理論書を読み、ドラクロワを研究し、色彩の研究に取り組んでいた。《ジャガイモを食べる人たち》においても、白いところにもほとんど白をそのまま使わずに中間色を使い、全体的に茶褐色や灰色系の暗い色が支配する中に、赤、青、黄などさまざまな色を混ぜ、微妙に色合いを変えて描きあげている。この色合いをファン・ゴッホは「皮をむいていない、まったく泥だらけのジャガイモの色」だといい、また、ミレーの言葉を引きながらこうも記述している。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「ともあれ、低い評価への怒りは、自信のあらわれにちがいない。そして同時に、自信のなさのあらわれでもある。事実、ファン・ゴッホの当時の作品はその程度の質しか持ち合わせていなかった。もし、この年 1885年でファン・ゴッホの生涯が終わっていたとすれば、画家フィンセント・ファン・ゴッホの名は、西洋近代美術史はおろか、オランダ近代美術史にすら残っていなかったであろう。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「ファン・ゴッホはなぜ「五十三章」の文字を読めるように書き込んだのだろうか。ファン・ゴッホと父親の関係、当時の状況などから推測すれば、ファン・ゴッホはこの「イザヤ書」の中の「彼」と父親を重ね合わせていたと考えられる。ファン・ゴッホは決して孝行息子とは言えなかった。さんざん父の世話になりながらも、父には反抗しつづけた。父の方はと言えば、学校でも職場でも問題を起こしつづける息子に対し、学校を変え、仕送りをし、親類や知人に頭を下げて息子の世話を頼むといった具合に、まさに、さまざまな「執り成し」をしつづけてきた人である。この「五十三章」の文字を書き込んだ時、ファン・ゴッホはおそらく父を「主の僕」と見なし、その死を悼むという意図を込めていたのだろう。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「「そこで善意をもってして、闇の中に光を投じると言われているような本を探してみても、こちらの志がどれほどまともでも、確実なものはほとんどなく、また必ずしも十分にわれわれに個人的慰めを与えてくれるものがあるわけではない。われわれ文明人を何よりも悩ませている病はメランコリーとペシミズムだ。 そこで、たとえばぼくのように、何年もの間、笑いが欠乏していた人間は──それがぼくのせいかどうかはともかく──そういう人間は心から笑いたい欲求を特に感じる。ぼくはそれをギ・ド・モーパッサンのなかに見つけた。(……)それとは反対に真実を、あるがままの人生を欲するなら、たとえばド・ゴンクールの『ジェルミニー・ラセルトゥー』や『娼婦エリザ』、ゾラの『生きる歓び』や『居酒屋』、その他多くの傑作がある。彼らは人生をありのままに描くから、人生の真実を語ってほしいというぼくらの欲求を満たしてくれる。 フランスの自然主義者、ゾラ、フロベール、ギ・ド・モーパッサン、ド・ゴンクール、リシュパン、ドーデやユイスマンスはすばらしい。もし彼らの作品を知らなければ、現代の人間であるとは言えない。(……) ぼくらには聖書だけで十分だろうか。 イエスが現代に生きていたら、メランコリーの状態にいつづける人たちにこう言うだろう。ここではない。立ちて行け。なにゆえ汝死せるもののなかに生けるものを求めるのか、と」 (574/ W 1)」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「ファン・ゴッホにとって父親は師であると同時に敵であり、理解者であると同時に無理解者であり、自分の心身の一部であると同時に、自分の中から排除すべき他者であった。父の死によって、日常生活でうさ晴らしのけんかをする相手を失った今、ファン・ゴッホは彼の心身の一部である「父」と闘うしかなくなった。自分の内部にいて、自分と不可分な敵と果てしない闘いをつづけるしかなくなったことは、ファン・ゴッホの「余生」にこれまで以上の緊張を与えつづけることになる。父の死に接してもあれほど冷徹、冷淡でいられたのは、誰よりもファン・ゴッホ自身がそのことを知っていたからにほかならない。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「この時期、印象派と並んでファン・ゴッホに大きな影響を与えたのが浮世絵である。ファン・ゴッホは画商ビングの屋根裏部屋で大量の浮世絵を研究し、浮世絵の展覧会も開いた。テオとともに浮世絵の委託販売もしていたらしい。ジークフリート・ビングはドイツ、ハンブルク出身のユダヤ系画商である。いち早く開国間もない日本にやって来て、大量の美術品を買い込んでパリで販売し、『藝術の日本』という雑誌を刊行し、「自然を唯一の師とする」日本人をモデルとして、ヨーロッパ工芸の刷新をはかり、やがてメゾン・ド・ラール・ヌヴォーという店を構えて、あのアール・ヌヴォー様式のプロデューサーとなった。 浮世絵は 19世紀末のヨーロッパの画家たちを魅了した。そのなかにあって、ファン・ゴッホは浮世絵に最も強い関心を示した画家のひとりである。浮世絵の模写をし、肖像画の背景にもいっぱいに浮世絵を描き込んだ。そして、彼の日本の夢はしだいに膨らんでいくことになる。鮮やかな色彩ゆえだろうか、ファン・ゴッホはある時期から南フランスと日本とをだぶらせて考えるようになっていった。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「もちろん、これはあくまで印象派がある程度よりどころにし、批評家が印象派を説明する際に引き合いに出してきた「理論」にすぎず、実際の印象派絵画では混色もされているし、原色ばかりを使うわけでもない。モネが理論嫌いだったこともよく知られている。また、同じような理論が背景にあっても、モネの絵画と、点描画法を用いた新印象派のスーラやシニャックの絵画との間には大きなちがいがある。モネはあくまでうつろいゆく光の戯れとしての視覚的な絵画を目指したが、スーラは、さながら色彩理論の実験のような理知的な方法を用いながら、同時に詩情を感じさせるような絵画を描いていた。同じような色彩理論への関心が背景にあったとしても、実践の仕方はそれぞれの画家で大きく異なったのである。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「どれほど想像力にあふれる芸術家でも、自由自在に新しい形や様式を生み出しつづけることなどできない。必ず自分の属する文化圏で教育を受け、通常はその文化環境の範囲内で進化する。しかし、そこに他の文化圏から「異物」が入り込むと面白い現象が起きる。それまで想像もしなかったような形態、色彩が画家を刺激する。 19世紀末にヨーロッパで日本美術が大流行し、ジャポニスムという現象が起こったのは、それまで鎖国で国外にほとんど出ていなかった日本の美術品が流出しはじめ、その価値と新鮮さを画家たちが発見したからである。この時、流行の主役になったのは浮世絵であった。屛風や掛け軸などの一点ものは数が限られ伝播範囲が限られるが、木版画である浮世絵は大量に同じものが出回り、輸送も簡単なので、伝播能力がきわめて高かった。それだけではない。浮世絵は鎖国下にすでに日本に流入していた西洋画の影響を直接、間接に受けていて、西洋人の受け入れやすいスタイルになっていたし、また、商業芸術としての浮世絵の主題は花魁(すなわち娼婦)、役者(俳優、芸人)、名所図(風景)などであり、 19世紀末西洋で取りあげられる主題にもよく似ていたため、西洋でも受け入れやすかっただろう。それにしても、浮世絵をはじめて目にした画家たちの感覚はどのようなものだっただろうか……。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「ベルナールによれば、タンギーは素朴なユートピア的「社会主義者」であり、ファン・ゴッホと共に「幸福の時代」を渇望していたのだという。ファン・ゴッホのアルル時代の手紙からは、彼の頭の中ではタンギーと日本人とが結びついていることがわかる。「ここでぼくはますます日本の画家のように、小市民として自然のただ中に生きていくことになるだろう。そのほうが頽廃的になって悲惨な思いをするよりはましだと君も思うだろう。もしぼくがかなり高齢になるまで生きのびられたら、タンギー爺さんのようになるだろう」 (685/ 540) つまり、「日本の画家のように自然のただ中に生きて」、齢を重ねればタンギー爺さんのようになれる、とファン・ゴッホは思っていたことになる。裏を返せば、ファン・ゴッホは日本人がタンギー爺さんのような人物だと想像していたということでもある。ファン・ゴッホとタンギーは素朴な空想的「社会主義者」であり、「幸福の時代」とベルナールが呼ぶユートピアを待ち望んでいた。そして彼らの理想としてのユートピアと日本とは、少なくともファン・ゴッホの中では重なっていたらしい。ファン・ゴッホはただの気まぐれからタンギー爺さんを浮世絵のただ中に描き込んだのではない。浮世絵によって象徴される「日本」は、タンギー爺さんとファン・ゴッホとが共有していたユートピアと重なっていたのである。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「タンギー爺さんのポーズについてもベルナールは興味深い記述を残している。「フィンセントは 1886年頃、タンギーの肖像を描いた。彼はタンギーを日本の浮世絵が壁に貼られた部屋に座らせ、植木屋の大きな帽子をかぶせ、仏陀のように左右対称の正面観で描いている」。このような正面観は西洋の肖像画では異例なので、あるいはファン・ゴッホは仏像のポーズを意識していたのかもしれない。また、ベルナールが描いたタンギーの肖像でも、ファン・ゴッホが描いた別のタンギーの肖像でも、タンギーは帽子などかぶっていないのに、ここではファン・ゴッホはわざわざ帽子をかぶらせている。ファン・ゴッホにとって日本はタンギー爺さんのユートピアと重なっていたと同時に、「陽光に満ちた」国としての南フランスとも重なっていたことがわかっている。つまり、南仏のように陽光に満ちた国「日本」にふさわしいものとして、この大きな日よけの帽子も描かれたのだろう。《タンギー爺さんの肖像》はただの肖像画ではない。それはタンギー爺さんとファン・ゴッホの共有するユートピアと日本と南仏とが三重に重なりあった肖像画であり、二人が思い描くユートピアと、そのユートピアの住人としての理想的人物像を描き出したものだったのである。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「ファン・ゴッホの《ひまわり》は、絵として上手いとか、美しいとか、そんな基準とは関係なく、何か特別に大きなオーラを発している。他のどの画家の絵とも異なり、ファン・ゴッホの他のどの作品とも異なる。役者にたとえれば、特に演技がうまいわけでも、二枚目でもないのに、主役をはれる何か、余人をもって代えがたい何かをもっている。だからこそ、《モナ・リザ》などと並んで、世界でもっとも有名な絵画のひとつになったのだろう。では、その「何か」とはいったい何なのだろうか。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「居酒屋の闇の力」(la puissance des ténèbres d'un assommoir)という言葉には意外な、そして豊かな含意がある。「居酒屋」(assommoir)という語は、ゾラの有名な小説のタイトルと同じである。ゾラはファン・ゴッホが愛読していた作家であり、もちろん『居酒屋』も読んでいた。手紙を受け取ったテオも、この言葉がゾラの小説のタイトルであることに気づいただろう。また、「闇の力」もある文学作品のタイトルと同じなのである。ゾラの『居酒屋』ほど有名ではないが、「闇の力」はトルストイの戯曲のフランス語訳のタイトルである。このフランス語訳はファン・ゴッホのパリ時代にあたる1887年に出版され、さらに、翌1888年2月10日と17日、ファン・ゴッホがアルルに発つすこし前に、パリのテアトル・リーブル(自由劇場)で上演されていた。ファン・ゴッホがこの上演を見たかどうかはわかっていないが、彼はシニャックらとともにこのテアトル・リーブルに作品を展示していたこともある。当時のフランスではロシア文学が流行していて、ファン・ゴッホもトルストイやドストエフスキーの作品をフランス語で読んでいたことがわかっている。また、ファン・ゴッホは後の手紙にテアトル・リーブルがロシアもので成功したことも記している。 このような状況を考えれば、ファン・ゴッホとテオが、このトルストイの戯曲の上演を一緒に見ていた可能性すらある。もしテオがこの戯曲または上演を知っていれば、手紙の記述を読んだテオは「居酒屋の闇の力」という言葉から、その豊かな文学的連想を読み取っていただろう。『居酒屋』で主人公ジェルヴェーズの堕落を象徴する場は「コロンブ親爺の居酒屋」であり、『闇の力』で、どろどろした親族間の争いの中で殺人に手を染めていくニキータが酔いつぶれるのは、やはり居酒屋なのだ。 ファン・ゴッホがこの絵を描いた時、彼の脳裏にはおそらくこれらの居酒屋のイメージがあったのだろう。そして、「居酒屋の闇の力」という言葉を読んだテオも、「人が身を持ち崩し、おかしくなり、罪を犯しかねない場所」がどのような場所なのかを、その文学的連想と記憶から、鮮明な具体的イメージとして思い描けたにちがいない。
「「日本美術を研究すると、明らかに賢く哲学的で、知的な人物に出会う。その人物は何をして時を過ごしているのだろうか。地球と月の距離を研究しているのか。違う。ビスマルクの政策を研究しているのか。いや、違う。その人はただ一本の草の芽を研究している。しかし、この草の芽がやがて彼にありとあらゆる植物を、ついで四季を、自然の大景観を、最後に動物、そして人物を描かせるようになる。彼はそのようにして生涯を過ごすが、人生はそれらすべてを描きつくすにはあまりに短い。 どうかね。まるで自分自身が花であるかのように自然の中に生きる。こんなに単純な日本人が教えてくれるものこそ、真の宗教ではないだろうか」 (686/ 542)「日本の芸術家たちがお互いに作品を交換していたことにぼくはずいぶん前から心を打たれてきた。これは彼らが愛し合い、支え合い、彼らの間はある種の調和が支配していたということの証拠だ。もちろん彼らはまさしく兄弟のような自然な生活をしていたのであり、陰謀の中で生きたのではない。その点、彼らを見習えば、それだけぼくらもよくなるのだ。また、これらの日本人はわずかな金しか稼がず、素朴な労働者として生活をしていたようだ」」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「12月 23日の夜、ファン・ゴッホは自分の左耳を剃刀で切り取って、その肉片をラシェルという娼婦のもとに持っていき「これを大事に持っておいてくれ」と手渡したという。翌朝、ファン・ゴッホは自宅で瀕死の状態でいるところを警察に発見された。この事件については異説もあり、真相は定かではないが精神疾患の発作を起こしていたのはまちがいない。発作の引き金になったのは、ゴーガンがアルルを去る意思を伝えたことか、あるいは、テオの結婚の知らせであったかもしれない。なぜこんなことをしたのかと医師に問われた時、ファン・ゴッホ自身は「それは個人的な事情だから」と言って明言を避けたという。身の危険を感じたゴーガンは事件後すぐにアルルを去っている。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「夢破れたあとの傷が癒えることはなかった。あのクリスマス前に襲って来た発作の悪魔は、その後も繰り返しファン・ゴッホを襲った。「耳切り事件」に怯えたアルルの住民は、この「危険」なオランダ人画家を隔離するよう市長に嘆願書を出していた。ファン・ゴッホはアルルの地を後にする決意をし、サン =レミの療養院に入ることになった。医師の監視下で治療をつづけるものの、発作は断続的に襲って来た。宗教的幻覚、幻聴をともない、時にはファン・ゴッホにチューブの絵具を喰わせることにもなったともいう。 しかし、発作の合間に絵を描く時のファン・ゴッホの頭脳は明晰で、作品の質も落ちない。落ちないどころか、さらに迫力を増してさえいった。そこにはあのアルル時代の静穏で瑞々しい色彩の美しさはない。画面からはひまわりも恋人達も姿を消し、浮世絵のような平坦で鮮やかな色面は、激しくうねるような筆触の海に変わった。しかし、激しい筆触といっても、感情にまかせて塗りたくったようなものではない。綿密に考え抜かれ、ていねいにカンヴァスの上に置かれた。手紙の文章にも乱れはなく、カンヴァスや絵具の選択も冷静に行われた。ただ、発作の悪魔は去ってくれなかった。ファン・ゴッホは約一年間このサン =レミの療養院にいたが、病気は完治しない。病名については、統合失調症、てんかん、性病、アルコール中毒から緑内障、メニエール病まで、さまざまな診断がこれまでされてきたが、今なお診断が分かれていて確定しない。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「 《星月夜》 星空「それでもやはり、ぼくには、なんというか、宗教とでも言うべきものがどうしても必要だと感じる。そんな時、ぼくは夜、星を描きに外に出る」 (691/ 543)《ローヌ河畔の星空》を描いた頃にアルルで書かれた手紙の一節である。「宗教」という言葉を使うのはためらっているが、ファン・ゴッホのユートピアの夢の最中、彼の心が「宗教」からいちばん遠いところにあったように思える時期にあっても、星空は宗教、神を思わせた。それは、アムステルダムで神学を志していた頃の次のような手紙と何も変わらない。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「サン =レミ時代のファン・ゴッホの特徴は、レプリカを多く制作したことと、版画や複製をもとに油彩で模写を描いたことである。頻繁に発作が襲ってくる状況で、ファン・ゴッホは戸外で制作することを制限された。室内で描くといっても療養院ではモデルの数にも限界がある。そこで、ファン・ゴッホはテオから版画や複製画を送ってもらい、それらを油彩で模写するという方法を思いついた。模写といっても、もとが白黒の版画や複製だから、もともと白黒である。色のない作品を、色彩を使って模写するのである。このような模写をファン・ゴッホは「翻訳」と呼んでいる。模写にはちがいないが、描き方を学ぶための模写ではなく、色彩による翻訳作品として、これら自体、十分に芸術的価値をそなえている。そのなかでも《ラザロの復活》は原作に色彩を加えただけでなく、構図自体も大きく変え、そこに個人的な意味も込めたという意味で、ほとんどオリジナルの作品だと言ってよいだろう。 このようにしてファン・ゴッホは、ミレー、ドーミエ、レンブラント、ドラクロワなどの版画や複製から油彩画を描いていった。世俗の主題のものもあるが、宗教的主題も少なくない。ファン・ゴッホは結局、自分自身で宗教的主題を描いた作品は一点も残さなかったが、模写という形では何点かの宗教的主題を描いている。「宗教」が頭をもたげ、幻覚にも現れるようになったサン =レミ時代、ファン・ゴッホは宗教的主題を描くためのいわば口実、あるいは唯一許せる手段として、「模写・翻訳」を選んだのかもしれない。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「 1890年7月 6日、日曜日、ファン・ゴッホはパリに住む弟一家を訪問した。生後まだ五ヶ月の赤ん坊はその前何日間か病気で苦しんでいたらしいが、テオは前日の手紙で、ロバの乳のおかげでずいぶんよくなったので、訪問は延期しなくてよいと兄に伝えている。ヨーの回想によれば、ファン・ゴッホはパリで自分について評論を書いてくれたアルベール・オーリエと会って、一緒に作品を見ながら話した。トゥールーズ =ロートレックも訪ねてきてくれて昼食を共にし、「階段のところで出くわした葬儀屋のことで大笑いをしていた」という。しかし、ヨーによると「わたしたちは子供の重い病気で疲れきっていた。テオはグーピルをやめて自分で商売を始めようというかつての計画を思案中だった。フィンセントは絵を掛けてある場所が不満だった。そして、わたしたちがもっと大きな家に引っ越すという話が持ち上がっていた。そういうわけで、いろいろと心配や苦労が重なっていた日々だった」。ロートレックとファン・ゴッホが馬鹿話で大笑いしたという場面だけはほほえましいが、それ以外は、ヨーは子供の看病疲れ、テオの独立の話は要するに家計が大変だからということ、引っ越しもファン・ゴッホが自分の絵をもっといい場所に掛けろと言ったからで、ファン・ゴッホは決して気持ちよくオーヴェールには帰れなかったのだろう。ファン・ゴッホが亡くなった頃、オランダにいたヨーがテオに宛てた手紙が残されている。テオはファン・ゴッホが銃弾を腹部に受けたことはヨーに伝えず、「ひどい病気」だと知らせていた。その「病気」がどうなったのか心配しているヨーは手紙にこう記している。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「ファン・ゴッホを他のどの画家とも違う特別な存在にしているのは、その才能でもなければ、「耳切り事件」や「自殺」でもない。彼以上に才能のある画家など山ほどいるし、自殺した画家も少なくはない。ファン・ゴッホを特別な存在にしているもの、それは彼の手紙である。 現存するファン・ゴッホの手紙は弟テオ宛が六百通以上、画家ファン・ラッパルト、ベルナール、妹ウィルなどに宛てたものも合わせると八百通近くになる。また、ファン・ゴッホに宛てた手紙で現存するものも合わせると全部で約九百通にのぼる。重要なのは数だけではない。ひとつひとつの手紙は長く、内容も濃密だ。人生に起こった出来事、作品についての考えなどが詳細に綴られている。 もしファン・ゴッホの手紙が一通も現存しなかったとしよう。わたしたちはこの画家が何を考えてひまわりや農民や星空を描き、日本について何を思い、家族や友人、知人たちとどう付き合ったかといったことについて何も知ることができない。ある自画像が日本の僧侶として描かれていることもまったく知られないまま、ただ奇妙な顔をした自画像として的外れな解釈をされていたかも知れない。 ただ、美術史家の扱う資料として重要だと言うのではない。およそ一人の画家、いや一人の人間についてこれほど濃密な情報がえられる資料が残っていること自体、ほとんど奇跡に近い。かりに数千年後、「芸術」などという言葉は消え、「絵画」でさえ完全に過去のものになっていても、ファン・ゴッホの手紙が残れば、数千年前に「芸術家」、「画家」という人種がいて、それがどのような人間だったのか、どのような「生き方」だったのかを未来の人間は実感することができるだろう。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著
「最初のファン・ゴッホ書簡全集はヨーが編纂して 1914年に刊行された。その後版を重ね、翻訳も数多くされてきた。日本語訳全集も 1969年から 70年にかけて刊行されている。ファン・ゴッホに関する伝記、小説、伝記映画など、あらゆる書物と映像作品はこの書簡集をベースに作られてきた。 2009年秋に、この書簡全集の改訂版が出た。改訂版というよりはもうほとんど決定版といってよい。ファン・ゴッホ美術館が十五年という気の遠くなるような歳月をかけて準備した決定版の書簡全集である。そのプロジェクトがスタートした時のことはよく覚えている。ファン・ゴッホ美術館が新書簡全集刊行のために専任のスタッフを二人雇ったと館員から聞いた。二人は書簡全集の仕事だけをする専任スタッフである。この二人を美術館は十五年間雇いつづけ、途中からはさらに一人加えて三人になった。刊行の前年、いよいよ来年辺りに刊行できそうだ、という話を聞いて、ファン・ゴッホ美術館に行ったおりに、編集者の一人ハンス・ライテンにその内容を見せてもらった。その完成度の高さに啞然とした。」
—『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家 (角川ソフィア文庫)』圀府寺 司著