この本は、記者が、シンガポールに三年間滞在していた間に、東南アジアのプラナカンについての記録である。プラナカンの歴史、人、建築、文化、食、多岐にわたっての取材とリサーチによって、プラナカンの人々の全体像を知ることができた。マレーシアに住んできて、プラナカンの建築や服、工芸の美しさに魅了されて、この本を読んでみた。プラナカンは、マレーシアだけでなくシンガポール、インドネシア、タイのプーケットにもいるということを知って、東南アジアにはプラナカンの広いネットワークが存在していることも知った。
著者のプラナカンの人や文化に接した時の感想や印象も本文に含まれていて、臨場感がある内容だった。
メモ:
・プラナカンとは、マレー語で「その土地で生まれた子」という意味。
・プラナカンは普通の華人とは違い、東洋風でありながら、西洋風。プラナカンは華人の末裔でありながらも、普通イメージされるような華人ではなく、彼らは自分たちのことを「進化した中国人」というみたい。
・もともとは、15世紀16世紀、明から清に移り変わるときに、福建省や広東省などの中国南部から南下してきた人々。労働者として来た。19世紀には、オランダの東インド会社と手を組みスズ鉱山、ゴム農園に従事して、たくさんの富を得た。
リー・クワンユはプラナカンだが、本人は、それを公に表明することはなかった。なぜならば、民族は、シンガポールという国家をつくることには足かせになる。1965年の建国以来、シンガポール政府は、民族問題にとても敏感で、公営団地では、建物の棟ごとに、民族別の入居者の配分が決められている。異なる民族が生活の舞台で交じり合い、特定の民族を固まらせないための工夫である。例えば、一つの民族が固まって、不満を起こし、暴動などを起こさないようにするための策だという。
民族対立を煽るような言論も「扇動禁止法」「宗教調和法」などの法律のよって、厳しく取り締まられている。イスラム過激派が潜伏するのを防ぐためにも、公安警察が、公営団地やモスクの監視もしている。
英国支配下の19世紀後半から20世紀にかけて、インド、中国から、大量に労働者が流入した。英国に支配された側に、マレー人、新たに中国南部から渡ってきた移民は人権などなく、奴隷同然のように働かされ、彼らは苦力(くーりー)と呼ばれた。このような、華人の後から来た移民労働者は新家(しんけ)と呼ばれた。以前に渡来して、マラッカ海峡の一帯に定住していたプラナカンたちは老家(ろうけ)と呼ばれていた。彼らは富裕層で、支配する側だった。
メモ
・イスラム系インド人「ジャウィ jawi」、インド南東部コロマンデル海峡から来たヒンズー系タミル商人の末裔「Chitty Melaka」、キリスト教欧州人、ポルトガル人とマレー民族と華人が融合したEurasian。
・東洋のマルコポーロ、鄭和。
・ソチン虐殺事件:日本軍が多くの華人を粛清し、殺害した。1942年2月15日に日本軍がシンガポールに上陸してから「好ましくない華人」を見つけ出して殺していた。なぜならば、多くのプラナカンは親英的だったから。
・日本の占領軍当局は、地元民を統治するために、1942年3月に対華僑協会を発足、会長にリン・ブンケン。
・当時の英国統治下のマレーシアに5000万ドルを、軍資金にするために、日本に献金するように命じた。
・プラナカンの多くは実業家だったので、お金持ちだったが、お金を捻出するために、多くの美しい家財を手放さなければならなかった。それにより、彼らの家財は外国や骨とう品屋に消えて行ってしまい、プラナカンの伝統文化は消えて行ってしまった。
・ジャワ島のボゴールのプラナカンの祭り、チャプゴーメイ。月暦で数えた旧正月から15日目にあたる夜に開催。華人の信仰が土台だが、多宗教、多民族、多文化を象徴するお祭りになった。
・p.186「スピーチする宗教指導者が入れ替わるたびに、群集の別のグループが反応して、順番にそれぞれ真剣な表情になる光景が新鮮だった。警備にあたる制服に警官も同じだった。ムスリムの警官が頭を垂れている数分は、ヒンドゥー教徒の警官がせをただして目を光らせる。仏教のお坊さんが話し合始めると、後退してムスリムの警官がむっくりと頭をあげ、鋭い目を群集に向ける。異なる宗教の人たちが、お互いを守り合っているのだ。」
・p.228「プラナカンの伝統文化を残そうとみんな言うけれど、文化とは、人が生きる営みそのものでしょう?2008年にジョージタウンがユネスコの世界遺産に選ばれたのは、街の経済再生の後押しになったけれど、でもなぜ自分たちの文化を他人から鑑定されなければならないのか、という思いはある。伝統の在処は自分自身の暮らしの中からしかない。伝統を保存しようとして、ジョージタウン全体が博物館になってしまったら、それはプラナカン文化の死を意味すると思う。」
プラナカンたちは、現地に適応するために、土着の文化と言語を自分たちの文化と融合させ、新たな文化と言語、生き方をつくってきた。サバイバル、その土地で生き抜くために、自分自身の在り方を変え、新たな生き方をしていく、、変わり続けながら生きていく、、この在り方は、今の急速に変わり続ける今の社会に生きる私たちにとって、よいモデルとなる人々かもしれない。自文化をかたくなに守り続け、頑固でいるよりも、緩やかなスタンスを持つこと、それが生きる上で、よいバランスなのではないかと思う。
実際、変わることは苦しいけれど、それをものともせず、自分たちの美しい文化と生き方を作り出していくプラナカンの人たちは素敵だ。