あらすじ
【気高い美意識の謎に満ちた氏族】
プラナカンと呼ばれる異色の民が、東南アジアの国々にいる。 ある者は貿易で巨万の富をつかむ夢を抱いて。またある者は凶作と貧困から逃げ出すために。福建や広東の華人たちは、生死をかけてマラッカ海峡の新天地を目指した。男たちはマレー半島やスマトラ島、ジャワ島の妻と所帯を持った。熱帯の日差しを浴びて生まれ育った子孫が、やがて中国でもマレーでもない、万華鏡のように色鮮やかな独自の文化を開花させていった。彼らは、華僑とも異なる存在で、アジア経済界で隠然とした勢力を誇ち、その気高い美意識を誇る氏族の素顔は、いまなお謎に包まれている。19世紀には英国の東インド会社と手を組み、香辛料貿易、スズ鉱山、ゴム栽培で商才を奮った。あるいはアヘン取引、奴隷貿易によって無尽蔵の財をなした。富を現代に継ぐ末裔は、自らの歴史を封印したまま多くを語らない。
欧州の列強国とアジアの狭間で繁栄し、絢爛な文化を築き上げた彼らは、グローバリゼーションの波間を駆け抜ける「通商貴族」とも呼ぶべき存在だった。彼らは経済をどのように牛耳り、歴代の先人が残したその伝統を、誰が未来に渡すのか。栄華の痕跡を残すマラッカ、ペナン、シンガポールの街のほか、東南アジアの各地をめぐり、秘められたプラナカンの物語の扉を開く。
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Posted by ブクログ
この本は、記者が、シンガポールに三年間滞在していた間に、東南アジアのプラナカンについての記録である。プラナカンの歴史、人、建築、文化、食、多岐にわたっての取材とリサーチによって、プラナカンの人々の全体像を知ることができた。マレーシアに住んできて、プラナカンの建築や服、工芸の美しさに魅了されて、この本を読んでみた。プラナカンは、マレーシアだけでなくシンガポール、インドネシア、タイのプーケットにもいるということを知って、東南アジアにはプラナカンの広いネットワークが存在していることも知った。
著者のプラナカンの人や文化に接した時の感想や印象も本文に含まれていて、臨場感がある内容だった。
メモ:
・プラナカンとは、マレー語で「その土地で生まれた子」という意味。
・プラナカンは普通の華人とは違い、東洋風でありながら、西洋風。プラナカンは華人の末裔でありながらも、普通イメージされるような華人ではなく、彼らは自分たちのことを「進化した中国人」というみたい。
・もともとは、15世紀16世紀、明から清に移り変わるときに、福建省や広東省などの中国南部から南下してきた人々。労働者として来た。19世紀には、オランダの東インド会社と手を組みスズ鉱山、ゴム農園に従事して、たくさんの富を得た。
リー・クワンユはプラナカンだが、本人は、それを公に表明することはなかった。なぜならば、民族は、シンガポールという国家をつくることには足かせになる。1965年の建国以来、シンガポール政府は、民族問題にとても敏感で、公営団地では、建物の棟ごとに、民族別の入居者の配分が決められている。異なる民族が生活の舞台で交じり合い、特定の民族を固まらせないための工夫である。例えば、一つの民族が固まって、不満を起こし、暴動などを起こさないようにするための策だという。
民族対立を煽るような言論も「扇動禁止法」「宗教調和法」などの法律のよって、厳しく取り締まられている。イスラム過激派が潜伏するのを防ぐためにも、公安警察が、公営団地やモスクの監視もしている。
英国支配下の19世紀後半から20世紀にかけて、インド、中国から、大量に労働者が流入した。英国に支配された側に、マレー人、新たに中国南部から渡ってきた移民は人権などなく、奴隷同然のように働かされ、彼らは苦力(くーりー)と呼ばれた。このような、華人の後から来た移民労働者は新家(しんけ)と呼ばれた。以前に渡来して、マラッカ海峡の一帯に定住していたプラナカンたちは老家(ろうけ)と呼ばれていた。彼らは富裕層で、支配する側だった。
メモ
・イスラム系インド人「ジャウィ jawi」、インド南東部コロマンデル海峡から来たヒンズー系タミル商人の末裔「Chitty Melaka」、キリスト教欧州人、ポルトガル人とマレー民族と華人が融合したEurasian。
・東洋のマルコポーロ、鄭和。
・ソチン虐殺事件:日本軍が多くの華人を粛清し、殺害した。1942年2月15日に日本軍がシンガポールに上陸してから「好ましくない華人」を見つけ出して殺していた。なぜならば、多くのプラナカンは親英的だったから。
・日本の占領軍当局は、地元民を統治するために、1942年3月に対華僑協会を発足、会長にリン・ブンケン。
・当時の英国統治下のマレーシアに5000万ドルを、軍資金にするために、日本に献金するように命じた。
・プラナカンの多くは実業家だったので、お金持ちだったが、お金を捻出するために、多くの美しい家財を手放さなければならなかった。それにより、彼らの家財は外国や骨とう品屋に消えて行ってしまい、プラナカンの伝統文化は消えて行ってしまった。
・ジャワ島のボゴールのプラナカンの祭り、チャプゴーメイ。月暦で数えた旧正月から15日目にあたる夜に開催。華人の信仰が土台だが、多宗教、多民族、多文化を象徴するお祭りになった。
・p.186「スピーチする宗教指導者が入れ替わるたびに、群集の別のグループが反応して、順番にそれぞれ真剣な表情になる光景が新鮮だった。警備にあたる制服に警官も同じだった。ムスリムの警官が頭を垂れている数分は、ヒンドゥー教徒の警官がせをただして目を光らせる。仏教のお坊さんが話し合始めると、後退してムスリムの警官がむっくりと頭をあげ、鋭い目を群集に向ける。異なる宗教の人たちが、お互いを守り合っているのだ。」
・p.228「プラナカンの伝統文化を残そうとみんな言うけれど、文化とは、人が生きる営みそのものでしょう?2008年にジョージタウンがユネスコの世界遺産に選ばれたのは、街の経済再生の後押しになったけれど、でもなぜ自分たちの文化を他人から鑑定されなければならないのか、という思いはある。伝統の在処は自分自身の暮らしの中からしかない。伝統を保存しようとして、ジョージタウン全体が博物館になってしまったら、それはプラナカン文化の死を意味すると思う。」
プラナカンたちは、現地に適応するために、土着の文化と言語を自分たちの文化と融合させ、新たな文化と言語、生き方をつくってきた。サバイバル、その土地で生き抜くために、自分自身の在り方を変え、新たな生き方をしていく、、変わり続けながら生きていく、、この在り方は、今の急速に変わり続ける今の社会に生きる私たちにとって、よいモデルとなる人々かもしれない。自文化をかたくなに守り続け、頑固でいるよりも、緩やかなスタンスを持つこと、それが生きる上で、よいバランスなのではないかと思う。
実際、変わることは苦しいけれど、それをものともせず、自分たちの美しい文化と生き方を作り出していくプラナカンの人たちは素敵だ。
Posted by ブクログ
プラナカンについて狭義に広義に捉えて取材されて、その本当の姿を追っていく。プラナカンの作り上げた文化は日本もその一端を担っていたようだけど、戦争によってプラナカンの財を奪いその文化の継承を妨げたのもまた日本というあたり…現存されるプラナカンの方々にとって私たち日本人はどう見えているのかしら⁇と思い居た堪れない気持ちになりました。
これからもありがたくシンガポールやプラナカンの文化を楽しみたいと思います。
Posted by ブクログ
16世紀に中国大陸から東南アジアへ渡ってきた漢民族の人々。彼らはマレー半島、スマトラ島、ジャワ島など、マラッカ海峡の各地域に住み、地元の人々や東インド会社と協力して事業を運営したり、貿易を営むようになりました。それがプラナカンと呼ばれる人々なんですね。東南アジアの遊牧民とも呼べる存在で、地域発展の原動力になった人々だそうです。シンガポール建国の父、リークワンユー氏もプラナカンだったそうですね。
プラナカン文化は、色鮮やかなパステルカラーの陶磁器、刺繍、独特のニョニャ料理などで有名で、シンガポールでもカトン地区を中心にいろいろなところで見ることができます。きれいな色彩だなと思ってましたが、背景にはこのような複雑な歴史があったとは知りませんでした。東南アジアに関わる以上、プラナカンについて無知ではいられませんね。
プーケット、ペナン、マラッカといった地域がプラナカンな地区として有名です。以前、ペナンには旅行で行ったので、プーケット、マラッカにも行きたいと思ったいたのですが(ちょうど両地区ともにマラソン大会もある)、このコロナ禍で計画も台無しに。。まずはシンガポール内のプラナカンを巡りつつ、再び海外へ出られるようになる日を待つことにします。
Posted by ブクログ
ペナンにもプーケットにも行ったことがあり、マレーシア、シンガポールにはよく行く。先月もシンガポールに行った。行く前に読んでおけばと後悔。ニョニャ料理も好きだし、プラナカンの住宅もいいと思っていたが、ここまで深い知識はなかった。本書は、プラナカンのことをただ説明するのではなく、筆者の行動や気持ちが入っていて興味深い。この本を読んでからシンガポールに行くとみる場所、食べる場所が変わっていたかなと。
Posted by ブクログ
ペナン旅行に行く際に購入。ペナンを始めとした、東南アジア諸国の成り立ちがよく理解できる。また、現代のプラナカンのあり方についての記述やインタビューは本書ならではで、貴重。
Posted by ブクログ
【流転の記録】マレーシア、インドネシア、タイ、そしてシンガポールなどで生活する独特の文化を築くプラナカンと呼ばれる民。移り住んできた華人と現地の人々との子孫として、それぞれに激動の時代を生き抜いてきた様子を収めた作品です。著者は、日本経済新聞の記者としてシンガポールに駐在もしていた太田泰彦。
映画『クレイジー・リッチ』を観賞した後に本作品を読んだのですが、土地ごとに定義の異なるプラナカンと呼ばれる人々が、その土地ごとに独自の文化を発展・展開している様に驚きを覚えました。東南アジアの懐の深さ(と同時に底知れなさ)が感じられる一冊です。
〜新しい経済の価値を創造するプラナカンの「イノベーション」は、先端技術など供給サイドの力ではなく、消費が生み出すエネルギーがエンジンでした。〜
シンガポール行きたい☆5つ
Posted by ブクログ
【少し内容から逸れる感想】
シンガポール生活開始から1年が過ぎ、シンガポリアンの優しさに何度も救われる日々。
この本を通して、学校では学ばない歴史ー太平洋戦争で日本兵が東南アジアの人々にした残虐行為ーを知り、私がプラナカンの立場だったら日本の過ちは到底許せるものではないと感じた。シンガポリアンの多くが反日感情を露わにしないのが不思議なほど…。それは歴史にとらわれ過ぎず、感情的にならずに前を向いているからなのか。未来へ突き進む姿勢にプラナカンの強さを垣間見る。
※日本人として、太平洋戦争の過ちを「隠す」のではなく、現実を「知る」ということ、知りたくない暗い過去から目を逸らさない大切さも知った。
土産物店に並ぶプラナカンタイルをただ「可愛い!」と思っていたが、プラナカンの伝統を知れば、人々が大切にする文化に対して手に取る重みも変わりそう。
【心に残った言葉】
「伝統文化を残そうと皆いうけれど、文化とは人が生きる営みそのもの」
「なぜ自分たちの伝統や文化を他人から鑑定(judge)されなければならないのか」
「伝統の在処は、自分自身の暮らしの中しかない」
Posted by ブクログ
こういう人たちがいるとは、思ったが、やはりという感じ。これからのアジアを考えた時に大事な人たちだろう。それにしても山下奉文はひどかったようだ。
Posted by ブクログ
先日、ワン・アジサの件でメンション頂いたので、彼女がプラナカンがどうかまた疑問が湧いたのだが、ウィキにはシンガポール生まれで祖父がプラナカンであると出ているな。自分の乏しい知識だとプラナカンはエスニックはマラヤ華人という認識だったのだが、この本によると、華人に限定されないし、マラヤにも限定されないらしい。プーケットの人口の7割がプラナカンというのはびっくり仰天だが、それが判明したのは2004年というのとは何とも。自分が知らんはずではあるが、別に7割がプラナカン意識を持っているということではなかろう。生前のリー・クワンユーのインタビューから始まるので、嫌な感じはしたのだが、プラナカンを俯瞰した本としてはおそらく本邦初。リー・クワンユーの家も元々はマラヤではなくジャワだそうだが、そうした分類だとマハティールもインド系プラナカンになるんじゃないかな。宗教についてもっと掘り下げてほしかったのだが、昔読んだ本にマレーシアでインド人が死んだ時に遺族が遺体を見て初めて父親がムスリムではなかった事が判明したという話があったのだが、マレー人も結婚するに当たりその辺はツッコまないという事情はあったのだろう。
Posted by ブクログ
マレー語で「この地で生まれた者」を意味する「プラナカン」は、15~16世紀に中国からマレー半島にやってきた男たちと現地の女性の間に生まれた子ども達の子孫。
リー・クァンユーしかり。
父親のルーツである中華系の文化を、自分たちの住まう土地にうまく馴染ませ育んできた。
ルーツやコミュニティにより定義される彼らは、国境に縛られることなく、東南アジアを中心に、果てはオーストラリアにまで根を張り暮らしている。
ASEAN各国にいる華僑で現地に深く溶け込みつつ、それぞれの國でそのアイデンティティをたもっている。
ニョニャ料理、インテリアなどに独自文化。
「プラナカン」と言う看板を、日本人の我々が目にすることはほとんどない。
驚く事に、プラナカンの家庭に育ちながら、自身がプラナカンであると知らずに過ごす人もいるらしい。
「友達の家庭と何かが違う」そんな違和感が、自分の中のプラナカンを発見する糸口になるそうだ。