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  • ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み

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    さいきんまたフットサルをやりはじめて、そのなかでどうして部活動の練習・試合はあんなに苦痛だったのだろう、という問いが頭をもたげて、(部活動に限らないが)ボールを蹴ることの喜びを増幅させるはずの勝敗やルールという装置が目的化してそれにそぐわないプレーはそのひと自身を批判される対象に仕立てあげてしまうからではないか、ということを考えて、そのあたりを掘り下げるために遊びのことをもっと知らなければならないと思い、手にとった。遊びは利害とは無縁の、時間と場所が区切られたもので、そこには(それを遊びとして成立させるために決して無視されてはならない)規則があり、対立的な要素をもつことが多い。そして遊びには道徳的な価値判断が伴わない。さらに遊びは真面目に行なわれる。そうして文化は遊びのなかで遊びとして育ってきたということなのだけれども、ぼくの当初の疑問に照らし合わせると、対立的な要素を含むことが問題なのではなく、それが道徳的な判断にも繋がりえて、そしてこれは本書では注目されていない点と思うが、味方どうしでもその技量の巧拙がある程度そのまま(試合が終わっても)人間どうしの関係やその優劣ということに影響してしまうことが苦しかったのだと思った。しかしぼくが本書を読んでいて考えたのはスポーツのことよりもむしろ現代の労働のことだった。終盤でも多少触れられはするが、今日の「ビジネス」というものがいかに遊び的であるかを思い知らされた。社内のさまざまの制度やしきたりなどの、利潤拡大の目的を覆い隠すための偽りの遊びもありながら、そもそも会社の拡大を目指すこと自体が非常に遊び的だと思った。中盤以降は遊びの要素をもつさまざまな具体例の検証にうつるけれども、ポトラッチの考察によって示される名誉の獲得競争から、誇示された礼節に話が及ぶくだりでは、ワールドカップのゴミ拾いをする涙ぐましい日本サポーターのことを想起せざるを得ない。裁判が遊び的だというのも面白い。戦争でも名誉の理想が正義の理想にとってかわられると、まさに遊び的なルールともいえる国際法が効力を失い、完全な暴力がふたたび権利を握ることで、文化は失墜する。終盤ではスポーツも改めて扱われる、現代のスポーツは祭祀との結びつきを失い、一部のひとが職業として(そうでなく遊ぶひとより下位の存在として!)取り組んでおり、純粋な遊びの要素はかなり薄れている。部活動の苦しさはプロになりたいわけでもないのに(まるで就職予備校としての機能を果たそうとする昨今の大学のように)われわれを職業的スポーツマンに仕立てあげようとする精神にもあったのだと思った。

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    2026年07月21日
  • ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み

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    ネタバレ

    古典である。半世紀前に読んだ記憶はあるので再読である。裁判や戦争や国会での議論も遊びということでくくっている。日本の俳句も一部引用している。学生は読んでみてもいいだろう。

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    2026年03月31日
  • ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み

    Posted by ブクログ

    ネタバレ

    遊びから文化が生まれるならば、今の時代からは文化は生まれないな、と。
    面白い視点でした。読みにくかった。

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    2025年01月13日
  • ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み

    Posted by ブクログ

    すべての文化は遊びからはじまっているのではないか。
    ホイジンガの問いと解釈は非常におもしろい。

    日々の生活に照らしあわせると、会話や仕事、ファッションや散歩。乱雑に思い浮かべるだけでも遊びの要素はたくさんある。

    すべて、と言い切ってしまっていいものか。
    感覚的には、すべてのことに遊びが、と言いたいが、それは危険だろう。
    しかし、ものごとに遊びの要素を見出すのは大切だと思う。

    発展させれば、物事に遊びの要素を付け加えるということも、またいいのではないか。

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    2020年09月30日
  • ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み

    Posted by ブクログ

    ヨハン・ホイジンガ(1872~1945年)は、オランダのフローニンゲンに生まれ、ライデン大学の歴史学教授として、広く西欧にその名を知られた文化史家である。1938年に発表された本作品のほか、『中世の秋』(1919年)などの著作を残している。
    ホイジンガは、「遊びは真面目な機能を果たしていて、人間文化の本質的基盤と密接にかかわりあっている」として、人類は「ホモ・サピエンス(知恵ある人)」ならぬ「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」であるといい、本書の題名を付けたのである。そして、本書の中で、いったいどの程度まで文化は遊びの現象で説明されうるか、遊びと文化の関係はどのくらい密接かを明らかにしようとしている。
    その概要は、まず最初に、「遊び」の定義・形式的特徴が列挙される。①命令されることのない、自由な行為である。②本来の生活ではない、仮構の世界であり、その目的は物質的利益や個人の生活上の必要を満足させるような領域を超えている。③ありきたりの生活から継続的時間と場所が区別され、時間的・空間的に限定されている。④規則を持ち、それを守る点では真面目で真剣である。➄秘密を持ち、ありきたりの世界とは別物である。更に、機能の面から見れば、「遊び」は、何かのための戦い、または何かの演技である。
    次に、文化とは、遊び「として」始まったのでも、遊び「から」始まったのでもなく、遊びの「中で」始まったということが説かれ、競争、祭礼、詩文、音楽・舞踏、知恵・知識、法律、戦争、貴族生活の慣習などが、そうして発展したことが述べられている。
    そして、最後に、本書が書かれた19世紀の前半には、文化において真面目が支配的になり、遊ばれる度合いが大きく減少してきたことを指摘し、「真の文化はある程度、遊びの内容をもたなくては成り立ちえない。なぜなら、文化はなんらかの自己抑制と克己を前提とし、さらにその文化に特有の性向を絶対最高のものと思い込んだりしない能力をもち、しかも自由意志で受け入れたある限界の中で閉ざされた自己を見つめる能力を前提としている。文化はある意味ではいつの時代でもやはり一定の規律への相互の合意に基づいて遊ばれることを欲している。真の文明はいかなる見方に立とうと常にフェアプレーを要求する」と締めくくっている。
    最後の部分については、本書が書かれたのが、ヨーロッパで(真面目の権化である)ナチスを中心としたファシズムの勢力が拡大していく時代であり、その潮流に大きな警鐘を鳴らしていたことは間違いないが、80年を経た現代においても、偏狭なナショナリズムをはじめ、「遊び」を否定する主義・思想が世界を覆っており、ホイジンガの主張の重要性は何ひとつ変わってはいない。
    「人間・文化の本質は何か」を解き明かしつつ、我々人類の向かうべき方向を示唆してくれる古典といえる。
    (2019年11月了)

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    2019年11月23日

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