米本浩二の作品一覧
「米本浩二」の「不知火のほとりで」「魂の邂逅―石牟礼道子と渡辺京二―」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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Posted by ブクログ
題名通り、水俣病に関しての闘争の歴史を通史的・俯瞰的に整理した書籍だ。「水俣病闘争に興味をもった人がすぐにアクセスできて、闘争を見渡すことができる簡便な一冊」をつくることが執筆動機であり、それは成功していると思う。
水俣湾周辺の漁村で水俣湾からとれた魚を食べた猫たちが多数死んでいっていることが分かったのが1953年のことである。後にチッソ水俣工場から排出される廃液に含まれる有機水銀が原因であると分かるが、当時は、原因不明の中枢神経系疾患とされた。そして、患者は猫だけではなく人間も含まれるようになる。この年の12月に、水俣病認定第一号患者の方の発症が記録されている。
その後、原因をめぐって、また、補償をめぐって闘争が繰り広げられていく。1968年になって政府が水俣病を公害病と認定し、この年に、水俣工場からの有機水銀の流出が止まる。法廷闘争の方は、初の判決が1973年に熊本地裁で下され原告・患者側が勝利する。
闘争は順調に進んだわけではもちろんない。会社側・国・行政との闘いに加え、市民からの差別や、市民の一部は、町唯一の大企業であるチッソがなくなると困るために患者側の闘争を支持せず、時に妨害をしようとした。また、患者側も一枚岩ではなく、6派に分かれており、患者を支援する団体の間でも対立があった。
そして、闘いは今も続いている。2021年8月末現在、認定患者は2283人(うち死亡1988人)。約1400人が認定申請中。また、約1700人による損害賠償訴訟なども各地で継続中である。
以上が、ごく簡単に整理した闘争の歴史である。
1973年の判決の骨子は下記の通りだ。
①水俣病の発症は、被告チッソ水俣工場から放流されたアセトアルデヒド製造設備排水中の有機水銀化合物の作用によるものである
②被告チッソ水俣工場では、この廃水を工場外に放流するにあたり、合成化学工場として要請される注意義務を怠ったから、被告に過失の責任がある
③よって、被告は原告らに対し、不法行為に基づく損害賠償の義務がある
私の理解では、争点となったのは「過失の有無」であった。
チッソ側は、水銀化合物の生成・流出と、それによる発症を予知・予見できなかった以上、過失はないと主張した。自分たちには工場操業により、有機水銀が発生し、それが水俣病を発症する等ということは、事前には分からなかったし、技術的にも分かりようがなかった、ということだ。
一方で、判決は、いやしくも化学工場を操業し、外部に何らかの廃水を流している者は、リスクを予知し、対策を講じるべき義務を負うという考え方に立っており、それは、今の公害防止の考え方と同じだと理解した。
このようなことが認められるために、1953年の最初の発症患者の発生から判決まで20年が必要であった。
それも、スムーズな道のりではなく、上記したような色々な対立や紛争、対立を経たうえのことであり、事件は未だに終わっていないということだ。
とても、重い本を読んだというのが感想だ。
Posted by ブクログ
水俣病闘争史を丁寧かつわかりやすく簡潔にまとめてくださった貴重な作品。ほとんど知識がなくても、石牟礼道子さんの本を読んだくらいでも、難しくなく、丹念に時系をたどり関係者の関わりを辿りその時々の患者さんのお気持ちをたどり世の中を辿ることができる。
石牟礼道子さんの苦悩、今時の流行りの言葉となってしまって居心地悪いが、端的に自分のこと、自分ごととして、自分自身との戦いとして水俣に捧げられたお時間生き様。闘争手段、型式の上最後はお金のことにしかならない終わって終わりきれない闘争。70年ごろの、チッソ本社立てこもりなどのはげしくも熱のこもった闘いぶりも余すことなくシッカリと書かれている。共闘する知識人として日高六郎さんや見田宗介さんのお名前も。
当時もひどい企業論理、行政の対応であったが、今まさに腐敗しきり嘘と言い逃れと証拠隠滅などなどを常套手段にダブルスタンダード政治を政権与党がやっている有様で今であればさらにひどい対応がなされるかもしれないと、
それは、73年の裁判における原告勝訴の判決文のなかで、
裁判には限界があるとした上で、
企業側とこれを指導監督すべき政治・行政の担当者による誠意ある努力なしに根本的な公害問題解決はあり得ない
という異例コメントがでたがそのようなことは企業政治行政未だにお構いなし努力なしな問題ばかりではないか、と思う。
水俣の海に生きた人たちの、お金をもらっても嬉しくもなんともない闘い、毎日食べていくことだけでも想像できないようなぎりぎりの闘い、水俣病になりおかげで人と出会えたという言葉、思いを苦しみやそれでも生きて笑える瞬間があることを言葉に紡いでいく様が本当に胸に迫る。
水俣病が発覚した頃の、新日窒、業界団体、行政の知らぬ存ぜぬ関わり無かったこと原因不究明を団結して決め込んだとき、
第二組合と第一組合になり、第一組合が同じように会社に搾取される者として、1人の人間、労働者として水俣病患者と共に闘わないできたことを恥じ反省する恥宣言のとき、
ハンストやテント村で闘いながら、弁護団や告発する会や市民会議、それぞれの立場に違いが顕著となってしまったとき、
裁判闘争に一定勝利しながらも誰もがまだまだ終わっていないという気持ちであったとき、それぞれの時それぞれの立場をほんとうに真摯に描き記されていて、
どの局面でも、全く2020年代ニッポン進歩してないのね、ヒューマンになれてないのね、石牟礼道子さんたちが人間はもうダメになってしまったけどいずれゴキブリやネズミが字を読むようになって理解いただけるかもしれないからとにかくしっかり記録していきましょうと始められた活動。なんとも肩身が狭く。本を読んでも読んでもなんの役にも立たない自分。水俣にもお伺いしたことがある、美しい海に驚き美味しいお刺身をいただきお話をお伺いしたことを記憶の彼方から引き出しながらなんの役にも立っていない自分を恥と思う。著者の米本浩二さんや河出書房新社さん、美しい装丁、感謝。
Posted by ブクログ
石牟礼道子は、多くの作品を残した作家であるが、私にとっては、「苦海浄土」の作者である。水俣病を扱ったこの作品は、多くの方が読んだ傑作であるが、私も、この「苦海浄土」を読んで、深く心を動かされた者の1人であった。
本書は、「苦海浄土」の作者の石牟礼道子の評伝。評伝の筆者は、米本浩二という方で、石牟礼道子や水俣病に関しての多くの著作を持たれている。私は、以前に「水俣病闘争史」という本を読んで、これもとても印象に残っている。
筆者、あるいは、解説者の方も述べているが、ここで取り上げられている石牟礼道子は、とらえどころがないというか、どんなに正確に精密に伝記を著したとしても、そこから「こぼれ落ちる」ところのあった人であったらしい。すなわち、言葉で表すことの出来ない部分を持った人物であったらしい。そういったことを、あらかじめ知った上で、それでも、米本浩二は石牟礼道子の評伝を書くことに挑戦している。ご本人は、それがもしかしたら(というか、おそらく)無謀なことだと知っていながら。そのあたりのことを、米本浩二は、下記の通り書いている。
【引用】
石牟礼道子の場合は底が見えない。全体像というより、輪郭があるのかないのかが、そもそも分からない。著作をはじめ資料は豊富にある。道子さん本人はいたってオープンな人だから、会う機会は簡単につくれる。読んだり会ったりするうちは、なるほど、と思うこともあるのだが、さて、全体像をイメージしようとすると、まぶしい砂漠で上映する映画のようになんとも茫漠としていて、私は途方に暮れてしまう。
【引用終わり】
本書の「文庫本のためのあとがき」の中で、米本浩二は、本書が読売文学賞を受賞したこと、それを、(結果的に)亡くなる直前であった石牟礼道子に伝えたところ、大変に喜んでもらえたことを、これも、はずむように書いている。
正直、この評伝は読みにくかったし、本書を通じて、石牟礼道子という人を理解することは難しかった。しかし、米本浩二が石牟礼道子を本当にレスペクトしていたということが、あとがきを含め伝わってきて、読後感は悪くなかった。
Posted by ブクログ
著者は、2014年から数年かけて石牟礼道子の評伝を書くために、石牟礼道子のもとへ何度も通った。新聞記者なので、評伝を書く前にも石牟礼道子にはあっていた。2017年3月に出版。2018年、読売文学賞評論・伝記賞を受賞。そのひと月後2018年2月に石牟礼道子は90歳で亡くなる。石牟礼道子の生きている間に、聞き取り、資料を調べ本となった。石牟礼道子の才能を発見した渡辺京二は、50年以上石牟礼道子の作家活動を支援してきた。本書を読むと渡辺京二が書くといいよと言ったようだ。石牟礼道子の作品は、たくさんある。本として40冊以上ある。
本書は、石牟礼道子、渡辺京二の両者が読んでいるということに、意味もある。ある意味では、オフィシャル評伝である。
1927(昭和2)年3月11日、現在の熊本県天草市で生まれた。私の父親が大正15年生まれなので、1歳年下なんだね。白石亀太郎と吉田ハルノの長女として生まれた。ハルノの父、吉田松太郎は石工の棟梁で、道路港湾建設業を営んでいた。白石亀太郎は、吉田松太郎の仕事を補佐し、帳簿付けをしていた。道子は、名前は白石でなく、吉田姓を名乗る。生後3け月で水俣に移住する。小学校の入学が役所の連絡ミスで一年遅れ、弟と一緒に水俣の小学校に入学する。道子8歳の時に、吉田松太郎の事業失敗で一家が没落し、自宅を差し押さえられる。小さな家に移転する。
この評伝では、8歳までの道子の生活が浮き彫りとなる。
石牟礼道子は「石」と縁が深いと書き始められる。教師石牟礼弘と結婚が決まった時に、「よかペンネームができた」と思ったという。石が牟礼(群れ)るという呪術師的なイメージが好ましかった。
祖父の出身地天草・上島・下浦は石工発祥の地として知られている。吉田松太郎と菅原モカと結婚した。おばあちゃんは、おモカさまと呼ばれる。ハルノが10歳頃におモカさまは精神的な異常が始まる。松太郎が妾を持ち、妾が子供を二人産んだことが遠因とも言われる。松太郎は、腕はよかったが贅沢好きで、生活は乱脈だった。総勢60名ほど働いていたという。ハルノは早くから家事の中心となり家を担った。亀太郎は、謹直で緻密だったが、真面目にすぎ、融通が聞かない実務派。松太郎は芸術家肌で、性格は合わないが、必要とされ、ハルノと結婚した。
幼い道子が住んでいたのは栄町で、米屋、花屋、たどん屋、タバコ屋などがあり、小学校そしてそのさきに日本窒素があった。日本窒素が急速に拡大していく時期だった。道子のいた家から先隣に、末広という女郎屋があった。天草から売られてきた10代の娘たちが日本髪などをゆっていた。その娘たちに道子は可愛がられていた。幼い頃に、道子は可愛がられていた末広の娘が刺殺される事件にも遭遇する。道子は、気狂いのばばしゃまのおモカさまのお守りをやっていた。盲目のおモカさまの膝に載せられて、おモカさまの「どまぐれマンジュにや泥かけろ、松太郎どんな地獄ばい、こっちも地獄、そっちも地獄」という呪文のような歌を聞いていた。気狂いのおモカさま、女郎屋、そして女郎の殺人事件、松太郎はおモカさまを蹴っ飛ばす。そんな環境の中で道子は育つのだった。
道子は「わかりえない人間の存在、徹底的な孤独な少女」であり、おモカさまの異界が隣にあった。
道子は、最初から地獄を見て、反抗し、世の中に反抗していたが、生活は従順で、日記を書いていた。「人類というより生類という言葉で表現したい。海から上がってきた生類が最初の姿をまだ保っている海。それが渚です。海の者が上がる時、ここが陸地だと思うでしょう。海と陸を行き来する。文明と非文明、生と死まで行き来する。人間が最初に境界というものを意識した。その原点が渚です」。海と陸、天と陸。道子は、渚に立つことで、二つの世界を常に行き来することになる。
「渚につづくトントン村の家、幼い道生をおぶって行商した薩摩の山中、筑豊のサークル村、東京の座り込みの現場、どこにいても、私は渚に立っていた」
学校では、優秀な成績で、卒業する。そして、1943年に代用教員をやる。その中で、1945年7月31日水俣の空襲にも会う。逃げ惑う時に浅ましい人間を見る。戦争が終わる。道子は戦争の持つ愚かさを強く心の中に沈めていく。道子は小説家になりたかったが、生活は生きるためにひきづられていく。「自分の天邪鬼を持て余していた」元来「気が強か」であり、激情にもかられていた。実際生きていることが嫌でたまらなかった。戦後に苦境の人を見過ごせない「もだえ神」が心の中に生まれる。それでも、教師の石牟礼弘と結婚するが、教師のルールに縛られている夫といかに生くべきかを悩み、夫に語ろうとしても拒絶される。夫という存在までも嫌になる。1946年1月4日に自殺未遂をする。4回目の自殺未遂は1947年7月。道子は新婚4ヶ月、20歳だった。結婚しても癒されることはなかった。渚に立つことよりも、あの世に行きたかったのだ。しかし、道生が生まれるとやっと自分の安定を取り戻す。ただ、それでも道子の体内にある「もだえ神」はむっくりと起き上がる。そして、水俣病に出会うことで、道子は、苦海浄土をつむぎ始める。子供と夫を捨てて、言葉を紡ぎ始め、行動を起こす。自然と近代、人間の非人間的行為、人間でありながら言葉が話せない。水俣に対する国のなさ。水俣病という被害者でありながら、差別される。石牟礼道子は、呪術師となって、語り始め、水俣病の先頭になって戦うのだ。訴訟することだけで勝つとは言えない。非条理に向き合い続けるのだ。石屋に生まれて、戦争が終わるまでに、道子は人間形成されて、彼岸の渚に立っていた。
この評伝は、実に石牟礼道子の精神の葛藤を描き出している。