筆者は、世界金融危機を収拾した立役者の1人であり、「錬金術師」とも評された前イングランド銀行総裁。
安定した将来見通しが得られない不確実性と経済の不均衡が常に存在する現在、従来の金融の仕組みでは、必ず危機が再来すると警鐘を鳴らす。そこで、中央銀行の果たすべき新たな役割を提案。世界経済の不均衡を原
...続きを読む因とする迫り来る危機に対処するには、短期的な処方箋である金融の量的緩和政策では効果がなく、新たな思想にもとづく経済学と政策の仕組みが必要だと力説する。
私の言う「錬金術」とは、紙幣はすべて、金など、そのもの自体に価値がある商品にいつでも換えられる、銀行に預けているお金は、預金者が払い戻しを求めれば、いつでも引き出せるという確信を生み出すことを意味する。だが実際には、あらゆる形態の貨幣は、発行者に対する信頼に支えられている。紙幣に対する信認は、お金を刷る権力を濫用しない政府の能力と意思に左右される。銀行預金を裏付けているのは長期の融資であり、長期の融資にはすぐに換金できないというリスクがある。錬金術は、何世紀にもわたって貨幣・銀行システムの土台になってきた。それでも、…、貨幣と銀行業が資本主義経済に与える膨大な恩恵を損なわずに、錬金術を終わらせることは可能である。
本書を貫く重要な概念は四つある。「不均衡」「根源的不確実性」「囚人のジレンマ」「信頼」だ。…
不均衡とは、システム上で作用する力のつりあいが保たれてないことである。
経済学における不均衡とは、ある状態が持続不可能で、経済が新しい均衡に向かうと、どこかの時点で、支出と生産のパターンが大きく変化することを意味する。…
根源的な不確実性とは、あまりにも大きくて、既知の確率を使って表現することが不可能な不確実性をいう。…将来何が起こるかは誰にもわからない。それが資本主義経済を生きるすべての人が直面している本質的な課題である。…
囚人のジレンマとは協力するのを阻む障害があるときには、最良の結果を達成するのがむずかしくなることを示す概念と定義できるだろう。…
信頼とは、市場経済を機能させる要素である。…毎日の生活は、信頼を抜きにしては成り立たない。…信頼は、貨幣と銀行の役割を支える柱であり、経済を運営する制度の中核だ。
1970年代後半から、当時の西側世界で三つの流れが進んだ。それは後から考えると貨幣、為替レート、銀行システムをもっとうまく管理するための三つの大胆な実験と言えるものだった。
一つ目は、インフレを抑制し安定をはかるために中央銀行の独立性を大幅に高めることである。…二つ目は、資本が国境を越えて自由に移動できるようにして、ヨーロッパと、中国を筆頭に世界経済のなかでも急成長している地域の大部分で、為替レートの固定化を進めることだ。…そして三つ目は、銀行・金融システムの活動を制限する規制を撤廃して競争を促し、新しい商品・地域への多角化、規模の拡大を後押しすることである。過去に地域集中リスクや事業集中リスクによって銀行システムの安定が何度も脅かされており、そうした要因を排除するのが狙いだった。この実験の目標は、金融の安定である。
いま振り返ると、同時に進められたこの三つの実験は、「良い帰結」と「悪い帰結」と「危険な帰結」をもたらしたと言うのがいちばんふさわしいだろう。良い帰結は、1990年ごろから2007年にかけて、生産とインフレが過去に例を見ないほど安定した「グレートスタビリティ」期が実現されたことである。…
悪い帰結は、債務の増加である。…
そして、危険な帰結は、きわめて脆弱な銀行システムが発展したことである。
貨幣はなぜ、管理するのがこれほどむずかしいのだろう。一つには、貨幣を創造する誘惑を政治機関が断ち切れていないからである。貨幣の創造は、収入源であると同時に、経済を短期的に刺激し、その結果としてインフレが高進するまでのあいだ、国民の人気を獲得する手段でもある。
対処戦略は不確実な世界に適応するための自然な反応であり、遺伝子に組み込まれているものかもしれない。…対処戦略は「環境合理的」である。つまり、対象とする環境にぴったり合った意思決定のプロセスなのだ。その意味では、根源的な不確実性がある世界では、人は最適化行動をとるとする経済学者の前提よりも合理的である。
対処戦略を構成する要素は三つある。問題を最適化行動として扱えるものと扱えないものとに振り分ける「カテゴリー化」、後者の問題群(クラス)に対処するための経験則である「ヒューリスティクス」、そして「ナラティブ」だ。
インフレ目標とは、意志決定をして、それを広く伝えることである。貨幣と金利が経済にどう影響するかを示す新しい理論ではない。しかし、インフレ期待を目標水準にアンカーすることで、理論上では、変動を小さくし、インフレ圧力となるショックが持続する期間を短くできるし、実際にそうなっている。
過去15年ほどのヨーロッパの経験から、国家と通貨同盟の関係について、三つの大きな教訓が導かれる。第一に、通貨同盟のすべてのパートナー国は、加盟にあたっては賃金と物価の基調的な上昇率が十分に収斂しているようにすることが賢明である。…第二に、ひとたび同盟がつくられたら、賃金と物価の上昇率を監視し、格差が生まれて競争力が低下しないようにすることが重要になる。競争力が低下すると、大量失業を長期につづける以外に、競争力を取り戻すことはできない。…第三に、将来どんな経済ショックが起きるかはそもそも予測不可能であり、互いが深く信頼し合い、大きなショックに見舞われている国に財政移転するという考えがなければ、通貨同盟には強い重圧がかかる。
「最後の貸し手」を「どんなときも頼りになる質店」(PFAS:The Pawnbroker for All Seasons)に置き換えるときがやってきている。質店は、融資額を十分にカバーする担保を差し入れれば、ほぼすべての人にお金を貸す。
将来を正しく悲観して、思い切った手を打つ。そんな「大胆な悲観主義」に立てば、もっとうまくやれる。改革プログラムには、次の三つの要素を組み込むことを勧めたい。
第一に、生産性を押し上げる措置を段階的に実施する。…
第二に、貿易を促進する。…
第三に、変動為替相場制に戻る。
ここまで世界経済の不均衡を解決する方法について、述べてきたが、そのなかに新しいものはほとんどない。しかし、その背景にある思想は新しいものだ。過去半世紀のあいだ、主流派のマクロ経済学は、総需要と生産の振れを分析する見事なツールキットを開発してきた。ところが、行動を最適化するというアイデアに偏向しすぎて、それ以外の分析を一切認めなかったため、経済の風景の重要な部分に光を当てることができていない。最適化行動は、不確実性下での行動に関するより一般的な理論における特殊なケースである。そして根源的な不確実性が存在する状況では、行動を最適化することは不可能であり、新しいアプローチが必要になる。本書で提唱している「対処戦略」というアイデアは一つの出発点になる。きっとそこから誰かが根源的な不確実性下でのマクロ経済学の研究を前進させてくれるだろう。それは「モノ」の経済学ではなく、「何が起こるかわからない」世界の経済学である。
資本主義経済で貨幣と銀行が決定的に重要な役割を果たすのは、それらが現在と将来をつないでいるからである。しかし、貨幣と銀行は人間がつくり出した制度であり、そのときどきのテクノロジーに依存する。経済が成長するには資本の蓄積が不可欠であり、貨幣と銀行はそのために必要な手段を提供してきたが、流動性の低い実物資産を流動性の高い金融資産に変えることでそうしてきた。しかしいまや、錬金術のメッキははがれている。飛行機の衝突は減っているのに、金融危機が発生する頻度は低くなるどころか、むしろ高くなっている。貨幣と銀行は人間のつくり出した制度であり、まさにその理由から、繁栄をもたらし、より安定した資本主義の形態を支えるように改革し、再設計することができる。