1375
448p
岩﨑周一
一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程総合社会科学研究専攻修了。博士(社会学)。京都産業大学外国語学部ヨーロッパ言語学科ドイツ語専攻教授。出生地は東京(中野)ですが、千葉、山梨、東京(国立)と移り住み、2012年4月から京都で暮らしています。まだ冷戦期の1984年に西ドイツで一年間生活したことは、ひろく世界に目を向け、ヨーロッパの歴史と文化に興味を抱く重要な契機となりました。院生時代にオーストリアの首都ウィーンで二年の留学生活を送ったことも、忘れがたい思い出です。このように複数の国・地域で暮らした経験は、今の私のパーソナリティにも影響しているように思います。
...続きを読む
担当科目
専攻ドイツ語(構造)Ⅰ・Ⅱ
ドイツ語エキスパートⅠ・Ⅱ
ヨーロッパ言語研究演習Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ
ヨーロッパの歴史(近・現代史)
ドイツ文化概論(歴史)Ⅰ・Ⅱ
ドイツ文化論B(哲学・思想)Ⅱ
ドイツ学入門Ⅱ
ハプスブルク帝国 (講談社現代新書)
by 岩崎周一
そのため夫婦間においても、恋愛感情より、ある種の同志的な意識に基づく友愛・敬愛感情が重視された。この時代を代表する知識人だったモンテーニュいわく、「結婚では当然のことながら、姻戚関係や財力などが、本人の魅力と美貌と同じか、あるいはそれ以上に重んじられる。何といっても、人は自分だけのために結婚するのではない。それと同じくらい、あるいはそれ以上に、人は自分の子孫や、自分の一族のために結婚するのである」(荒木昭太郎訳)。社会学者ピエール・ブルデューによれば、ヨーロッパにおいて恋愛結婚が珍しいことでなくなるのは、一九世紀後半以降のことであった。
スペイン国内では、セビーリャは大西洋交易の拠点として一五万の人口を擁する大都市に発展し、「世界の十字路」と呼ばれた。ジャガイモ、トマト、トウモロコシ、カカオ、ゴム、タバコなど、これまでヨーロッパに存在しなかった作物の流入は商業を活性化し、ヨーロッパの(食) 文化を大きく変えた。たとえばココアを飲む習慣は、スペイン宮廷からヨーロッパに広まったという。また、交易の発展によって富裕化した平民が社会的ステータスの上昇をめざして貴族化したことで、一五九一年には人口の約一〇パーセントが貴族となった。これはポーランドと並び、ヨーロッパで最も高い割合である(一般には一~三パーセント)。人口も大きく増加し、耕地面積の拡大によって、農業生産高も向上した。
一方、夫のフランツ一世は、皇帝ではあるもののハプスブルク家領の継承者ではないこと、そしてマリア・テレジアが君主としての力量を十分に備えていたことで、補佐的な役割にとどまった。しかし彼は実業家として多大な成功を収めるのみならず、啓蒙思想の 伝播 に貢献し、国政においても財務を中心に有用な助言をなすなど、「内助の功」をよく果たした。近年では、自らの領地であったトスカーナ大公国(イタリア中部) における統治者としての事績にも注目が集まっており、その功績は時を追うごとに高く評価される傾向にある。
マリア・テレジアは、真に人を律し善へと導くのは正しいカトリック信仰であり、無制限の自由と他宗派への寛容は堕落につながると考えていたため、個人的には啓蒙主義を嫌っていた。しかし、登用した優秀な人材の大半が啓蒙主義者であったため、彼女はこれを不本意ながらも功利的に受け入れていくこととなる。こうしてこの「啓蒙改革期」において、法治、人権の尊重、宗教的寛容、思想の自由など、啓蒙主義に端を発し近代化の軸となる諸理念が、ハプスブルク君主国に浸透するようになった。
一七八〇年一一月二九日、マリア・テレジアは六三歳で没した。彼女は一貫してハプスブルク君主国の強国化をめざし、改革に取り組み続けたが、本質的には保守的で、物事にはつねに慎重であった。その意味で彼女の改革は、「防衛的近代化」(ハンス゠ウルリヒ・ヴェーラー、ヘルムート・ラインアルター) という性格の強いものであった。彼女が冷徹に現実を見据え、人情の機微と関係諸勢力との合意形成を重んじつつ、さまざまな意見を柔軟に採り入れるボトムアップ型の統治を行ったことは、国内諸勢力の 糾合 をもたらし、改革にともなう 軋轢 を軽減した。洞察力、決断力、行動力、人物眼、人心掌握に優れていた彼女の治世は、後世において範と仰がれ、ハンガリーや南ネーデルラントなどの「反抗的」な諸地域においても、今日に至るまで良き時代として記憶されている。
一方でマリア・テレジアは、神権的君主理念(「ピエタース・アウストリアカ」) の信奉者であり続けた。「神の恩寵により」君主の座にあるという意識から発する義務感は家族愛より強く、その意識の低い者には容赦がなかった。不勉強で軽率な言動の目立った末娘のフランス王妃マリ・アントワネットに宛てた手紙には、彼女のそうした峻厳な面が、優れた洞察力と共によく現れている。 「あなたの美しさ、それは実際にはさほどのものではありません、それにあなたの才能や知識(そんなものが存在しないことはご存じでしょう)、これらによってあなたはみんなの敬愛を得てきたわけではありません。それはひとえにあなたのやさしさと率直さと心遣いによるものであり、しかもあなたがたいそう健全な感覚でもってそうした持ち味を発揮してきたからなのです」 「あなたの幸せは一変するかもしれず、あなたは自分のいたらなさのためにこのうえない不幸に陥るかもしれないのです。それはこれまで恐るべき享楽欲に身をまかせ、王妃として身を入れてするべきことに時間を割かなかった結果です」(藤川芳朗訳)
一方、この時期にはドイツでも、ハプスブルク家に指導的な役回りを期待する声が高まった。シレジア出身の文人フリードリヒ・ゲンツはその好例である。彼は哲学者イマヌエル・カントの高弟で、フランス革命に当初熱狂したが、その急進化に幻滅して反革命派に転じ、イギリスの保守政治家エドマンド・バークが著した『フランス革命の省察』の独訳で一躍名を成したという人物である。のちにゲンツはメッテルニヒの秘書官となり、ウィーン会議などで活動することとなる。
また国内でも、「王朝敬愛心」の発揚がみられた。その表れの一つが、ハイドンが詩人ハシュカの詞につけて作曲した皇帝賛歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」(一七九七年) である。今日では詩人ファラースレーベンの詞によりドイツ国歌となっているこの曲は、ハイドンがロンドン滞在中に聴いた英国国歌に感銘を受けたことから誕生したもので、以後何度か歌詞を変えつつ、ハプスブルク君主国において事実上の国歌として愛唱された。
政治の停滞には、君主の力量の乏しさも影響していた。オーストリア皇帝フランツ一世は無能ではなかったが、父レーオポルト二世の立憲自由主義志向とは無縁の反動的な王朝主義者であった。職務に精励し簡素に暮らす、実直な人柄の「善き皇帝」として一般には敬愛されたが、政軍両面で傑出した才を示したカール、学芸・地域振興に努めて市民・農民から愛された「アルプス王」ヨハンといった進取の気性ある弟たちに見劣りしたことは否めない。さらにこのフランツの没後、病気や障害のために統治能力を欠いていた長男のフェルディナントが後を継いだ(フェルディナント一世) ことは、帝室および重臣の間で政争が頻発する要因となった。
このような内憂を抱えつつ、国政(とりわけ外政) を主導したのが、宰相のメッテルニヒである。彼は 傲岸 不遜 だが博識多才、洗練された物腰の容姿端麗な社交家で、 漁色 家 でありまた美食家でもあった(かのザッハートルテは、 賓客 に供する新しい菓子をというメッテルニヒの求めに応じ、当時その厨房にいた下働きの料理人フランツ・ザッハーが考案したものである)。彼のこのような貴族的特質は、ウィーン会議をはじめとする「会議外交」を差配する上で、存分に発揮された。
アメリカの元国務長官で国際政治学者のヘンリー・キッシンジャーが評したように、メッテルニヒは漸進的な改革を善しとする「理性的保守主義者」で、自由主義にも無理解ではなかった。しかし彼は、自由主義とナショナリズムの共振がもたらす災厄を予見していた。また彼はエリート主義者であり、政治に携わるように生まれついていない人民が自由や参政権を求めることは、秩序を乱す「 僭越」な「悪魔」の所業だと考えていた。これこそ、彼が自由主義者とナショナリストを無思慮で傲慢な「デマゴーグ」とみなし、諸国と連携して手厳しく弾圧した理由である。彼は革命とそれがもたらすカオスを何よりも恐れ、秩序なくして自由なしと考えたのだった。
市民階級は近世末から持続的に力を増し、ハイカルチャーにも参入していった。ビーダーマイアー文化の発展は、これと軌を一にしている。その基盤をなしていたのは、貴族文化に憧れてそれを模倣しつつ、教養と趣味の良さで対抗しようとする市民の心性である。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの言動は、市民のこうした複雑な心情を物語るものとして興味深い。ベートーヴェンは、交響曲第三番(『英雄』) をナポレオンに献呈するつもりだったというエピソードや、交響曲第九番第四楽章(「歓喜の歌」) のメッセージ性などから、近代市民社会の申し子と長くみなされてきた。しかしその行動は、近世と近代の端境期を生きた人物のそれとして見る方が、より適切だろう(もちろんこれは、彼の音楽家としての偉大さとは別の話である)。彼は若き日から啓蒙主義に接し、自由主義を奉じていたが、王侯貴族に対する憧れを心中深く抱いてもいて、「同胞」であるはずの市民階級をあまり好まなかった(「市民は高級な人たちから除外されなければならない。そして、私もここではその高級な人たちの仲間です」)。人類愛を高らかに 謳ったかの「第九」にしても、彼はこれを「偉大な君主に捧げられるべき」作品と考えて、ヨーロッパ諸国の王侯からプロイセン王を選んで献呈し、それが 嘉納 されたとの知らせに歓喜したのだった。
この時期、音楽はさらに深く人々の間に浸透した。地位と教養を兼備した人々は皆たいてい何らかの楽器をたしなんでおり、その子女たちはこぞってピアノの練習に励んだ。フランツ・シューベルトはこうした貴族や市民の家庭で友人たちとサロンコンサート「シューベルティアーデ」を繰り返し催し、作品の多くを発表している。ザルツブルク近郊の小村オーベルンドルフで一八一八年に開かれたクリスマスの集いの場においてクリスマス・キャロル「きよしこの夜」が即興的に誕生したのも、こうした環境と無縁ではないだろう。ウィーン楽友協会は一八一二年、ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院は一八四一年、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は一八四二年の創設であり、世界的なピアノ製造会社ベーゼンドルファーは一八二八年に創業している。また、ドイツ南部の民衆舞踊からワルツ、チェコのそれからポルカがそれぞれ成立し、さまざまな社交の場で開かれた舞踏会では、「ワルツの父」ヨハン・シュトラウス一世が、ヨーゼフ・ランナーと競い合って次々に作品を披露した。
秩序と体制を維持するため、ハプスブルク政府は自由主義の抑圧に努めた。『赤と黒』などで知られるフランスの作家スタンダールがトリエステ駐在領事に任じられた際、その自由思想が原因でハプスブルク政府に拒絶されたのは、その一例である。また、一七八七年に廃止された死刑は、国事犯を対象として一七九五年に再導入された(一八〇三年以降、他の重罪に対しても適用)。
しかし、「万里の長城」などと形容された検閲も実際にはさして機能せず、自由主義の思潮は徐々に浸透していった。その主な担い手は、開明的な一部の貴族と聖職者、そして官僚・自由業者・知識人を主体とする「教養市民」である。彼らは啓蒙改革期の遺風を継いでおり、自己 陶冶 と自助自立をモットーとし、「公民(市民)」という意識を強く持って、領邦議会や各種の協会・結社、あるいは学芸・教育機関で活動した。また政府に 睨まれながらも、進歩主義的・合理主義的な立場から、人権の尊重、立憲主義、代議制、法的平等、言論・結社の自由などを主張して、政治・経済・社会の広範な自由化を求めた。
ハプスブルク君主国におけるナショナリズムは、ヨーゼフ期の集権化政策への反発から高揚した「愛邦主義」にその端を発する。これは当初は郷土愛の域に留まり、具体的な政治的要求をともなうものではなかったため、君主国全体の発展にも資する地域振興運動として体制側にも許容され、ヨハン大公やメッテルニヒはその熱心な後援者となった。ハンガリーの肉料理グヤーシュ(ドイツ語読みではグーラシュ) が世に知られるようになったのは、この運動の成果の一つである。もともと大平原の羊飼い、そして農民が食していたこの肉料理は、ハンガリー独自の文化を探していた愛邦主義者の貴族によってこの時期に「発見」され、「国民食」へと変わっていったのだった。
しかし、社会的エリートは徐々に「 国民/民族」を意識するようになっていく。一八三八年三月、ハンガリーで大洪水が発生した際に音楽家フランツ・リストが発した公開書簡は、このような「覚醒」の例として興味深い。
運動の挫折が最初に生じたのはプラハである。ここではスラヴ系諸民族の大同団結を目指すスラヴ民族会議が開催され、あらゆる民族の同権などが謳われたが、その裏では民族間、そして市民と学生・労働者間の対立が深まっていた。六月に学生と労働者がヴィンディッシュグレーツ率いる政府軍と衝突した時、市民は傍観し、プラハはそのまま軍政下に入って、革命運動は抑えられた。ヴィンディッシュグレーツはこの後ウィーンでもペシュトでも政府軍の指揮をとり、「反革命」の権化として後世に名を残すこととなる。
次いでイタリアでは、ラデツキー率いるハプスブルク軍が七月末にクストーザの会戦で勝利し、独立派の動きを 挫 いた。以後各地の革命勢力は、ハプスブルク側に立って介入してきた列強を相手に敗北を重ね、鎮圧されていく。サルディーニャは一八四九年三月に再度挙兵したが、ノバラの会戦でまたもラデツキーに敗れ、独立戦争は失敗に終わった。
ウィーンでも市民は徐々に保守化し、さらなる変革を求める学生・労働者から離反し始めた。ヴィンディッシュグレーツやラデツキーの勝報に市民は歓喜し、クストーザの戦勝祝賀会では、ヨハン・シュトラウス一世が『ラデツキー行進曲』を披露して花を添えた。またグラーツとリンツの一部市民を除き、急進派に同調する動きはオーストリアには現れなかった。事態の急進化に当惑する市民の心情は、作家シュティフターの次の言葉にみてとることができるだろう。
九月に入り、間接選挙を経て七月から開かれていた帝国議会が農民解放関連の諸法案を可決したことも、革命の帰趨に大きく影響した。農民にとって、この革命は自由よりもまず第一に、封建的諸負担や領主制をめぐる諸問題を解決する好機であった。そのため、有償とする条件が多く課されたとはいえ、世襲領民制と封建的諸負担の廃止が決定されたことは農民に満足感を与え、革命に対する関心を大幅に減退させた。この成果を守るため、農民は以後保守化する。自由主義ナショナリストは、農民解放を通じてまず身分差を解消し、次いで自由主義を浸透させることで農民を自らの側にとりこみ、「国民化」を進展させるつもりであったが、その目論見は外れた。
しかしフランツ・ヨーゼフは、ヨーゼフ二世より、フランツ一世にはるかに近かった。彼は神権的君主理念(「ピエタース・アウストリアカ」) の信奉者で、自由主義、立憲主義、民主主義といった近代の諸理念に背を向ける、反動的な権威主義者だったのである。 このような新帝の姿勢は、帝国議会が避難先のクロムニェジーシにおいて作成した憲法草案への対応にまず現れた。この草案は、君民共治、権力分立、市民権の広範な保障、民族的平等を意識しての連邦主義を基調とし、人民主権や身分制(貴族制) の廃止まで視野に入れた、きわめて先進的な協約憲法だった。しかし新政府はこれを認めず、軍を動員して議会を強制解散させたのである。
またこの時期には、ドイツ・ナショナリズムが前面に押し出された。ドイツ語が公用語とされてその教育の充実が図られ、他の言語は軽視された。外政では、ハプスブルク君主国全域とドイツ諸邦によって構成される「七〇〇〇万人の帝国」構想が打ち出され、ドイツ連邦を再興してドイツにおける主導権を回復し、大ドイツ主義の立場からプロイセンに対抗する姿勢が鮮明となった。
皇帝フランツ・ヨーゼフとバイエルン公女エリーザベトの婚姻(一八五四年) も、こうした動きと無縁ではない。ドイツ屈指の雄邦でカトリック圏でもあるバイエルンとの結びつきは、政略上きわめて重要と見なされたのである。婚儀は「ウィーン会議以来」と評されたほど盛大に挙行され、エリーザベトには、「王侯と人民との和解を成就させ、この引き裂かれた恋人同士を永遠に結び合わせる」ことが期待された。
フランツ・ヨーゼフは、私生活にも問題を多く抱えていた。妻子とはほとんど心が通い合わず、思想信条も異なっていた。妻のエリーザベトはこの冷えた家族関係をしばしば詩の材料としたため、末娘のマリー・ヴァレリーは、「後世の人が、私たちを滑稽な家族と呼ぶのは間違いない」と漏らしている。学芸にも関心がなく、その心が安らぐのは、狩猟に興じているときか、女優カタリーナ・シュラットと過ごす時間のどちらかであった。
「シシィ」の愛称で知られる皇妃エリーザベトは、ミュージカルや映画などにより、ある意味では今日もっともハプスブルク家の中でポピュラーな存在だろう。彼女は結婚後間もなく、今日ならば適応障害と診断されるであろう状態に陥って、公務を 厭うようになった。やがて彼女は各地を放浪し、美に執着し、奇行を繰り返すようになる。そのため、初めはその美貌とも相まって集めることのできた声望も、後年には大きく減退した。彼女について優れた伝記を著したブリギッテ・ハーマンは、「私生活に引きこもり、詩作にふけり、ついには孤独に逃げ込む──それがエリーザベトの出した答えだった」と結論づけている。
エリーザベトは自由主義に共鳴して共和制を君主制より評価し、ハプスブルク君主国を「過去の栄光の骸骨」と 蔑んでいた。しかし、地位にともなう特権や富力は存分に享受し、奇行の費用を夫に賄わせる一方、国の崩壊に備えて私財をひそかにスイスに備蓄し、投資で利益を上げていた(彼女の死後、家族は遺産の額の大きさに驚くことになる)。彼女が旅先で暴漢に刺され横死を遂げたとき(…
皇太子ルードルフは初め父帝の方針で厳しく軍隊式に養育されたが、母の介入で自由主義的な教育を受けるようになり、その熱烈な支持者に育った。しかし政見の相違、父帝との折り合いの悪…
今日、フランツ・フェルディナントについては、強力な中央集権体制の確立を望む「大オーストリア」主義者であったとする見方が有力である。しかし当時は二重制に反対で、オーストリア・ハンガリー・南スラヴ諸民族による三重制に基づく国家再編を支持する、好戦的な帝国主義者と見なされていた。この三重制構想では、南スラヴ民族に含まれるセルビア人の地位が向上するため、ハプスブルク領在住のセルビア人を取り込んで勢力を拡大しようと図るセルビア王国の大セルビア主義者たちは、彼を民族分断を図る危険人物だと考えるようになる。このような事情が、彼が一九一四年六月二八日、「サライェヴォの銃声」に 斃 れる伏線となった。
さらに、ユダヤ人を本来的に劣った存在とみなし、差別を正当化する動きも現れた。こうして反ユダヤ主義は人種主義を採り込み(「反セム主義」)、ユダヤ人たちを一段と追い込むことになる。一八八七年、ドイツ・ナショナリストが主導権を握ったウィーンのある体操協会は、会員資格に関する規定に「アーリア条項」を設け、およそ四割を占めていたユダヤ人会員を追放した。文筆家ヒューストン・チェンバレン──音楽家リヒャルト・ヴァーグナーの熱烈な讃美者でその娘婿──は、反セム主義を大々的に展開した著書『一九世紀の基礎』(一八九九年) を発表して多くの読者を獲得し、のちにナチから「第三帝国の先駆者、予言者」と称えられることとなる。皇帝フランツ・ヨーゼフは「余は余の帝国内でいかなるユダヤ人排斥も容認できない」として反ユダヤ主義を拒絶したが、この「最上流階層にまで異常なほど広がった病」を抑えることはできなかった。
その岩倉使節団はイタリアを出立後、ゼンメリング鉄道を利用してアルプスを越え、ウィーンに入った(大久保利通は途中帰国のため同行せず)。皇帝フランツ・ヨーゼフに謁見した後の宮中晩餐会には、当時すでに公務を避けることの多かった皇妃エリーザベトも出席し、隣には 岩倉具視 が座った。彼女は最初「異教徒」に対しよそよそしかったが、ウィーンの教会が一行に深い印象を与えたと聞いてからは打ち解けたという。二週間におよぶ滞在の間、使節団は万博のほか、練兵や各種工場を見学した。
一方、ウィーン万博は日本の文化をひろく知らしめる機会となった。クリムトをはじめとするウィーン分離派、そしてユーゲントシュティール(いわゆるアール・ヌーヴォー) への影響の大きさは、よく知られているところである(なお、日本館の隣ではヨハン・シュトラウス二世の楽団が活動しており、伊藤博文は彼らの日本招請を考えたという)。また、ブラームスは日本の音楽に関心を寄せ、ウィーンに公使として赴任した 戸田 氏 共・極 子 夫妻と交流を持った。ブダペシュトでは芸術家が集う場として、カフェ「ヤパーン」(日本) がにぎわいを見せた。
もっとも、文明的優越感や人種的偏見は根強かった。ミツコ・クーデンホーフ゠カレルギー(クーデンホーフ光子) は、「こちらに来たとき、私が鼻に金の輪をしているかもしれないと思っていた人がいたそうです。時々破裂しないように心の中で戦いをしなければいけません」と述べている。彼女によれば、日本が知られるようになるのは、日清・日露両戦争の後のことであった。
この他に特筆すべき交流としては、皇位継承者フランツ・フェルディナントが一八九二年から翌年にかけて世界周遊を行った際、日本を訪れたことが挙げられる。彼は日本で急速に進行する近代化を驚嘆と当惑の目をもって眺め、詳細な記録を残した。彼が日本滞在中に手に入れた文物の数々もまた、ウィーン民族学博物館の日本部門において重要な位置を占めている。ハプスブルク君主国側から日本に与えた学術的影響については後述するので、ここでは陸軍少佐テオドール・レルヒによる、スキーの伝来を挙げるのみとしておこう。
諸邦の中心都市、とりわけプラハとブダペシュトの発展は、そこでの活動で音楽家たちが生計を立てること、さらには国際的な評価を得ることを可能にした。ベドジフ・スメタナは一八六〇年代からプラハで活動を開始し、失聴や精神錯乱、そして「ドイツかぶれ」「ヴァーグナーの亜流」といったチェコ・ナショナリスト──彼自身も人後に落ちないその一員であったのだが──からの批判に悩まされながら、連作交響詩『わが祖国』などの傑作を残した。アントニーン・ドヴォルザークは、親族、ブラームス、そしてハプスブルク政府の後援によって才能を開花させ、ナショナリズムに過度に傾倒することなく伸びやかな作風を確立し、英米を中心に国際的な成功を収めるにいたった。彼らの活動と業績は、「国民楽派」という分類だけでは捉え切れない 豊饒 さを有している。また、フランツ・リストは晩年にブダペシュトを主要な活動の場に加え、作曲・演奏活動に留まらず、ハンガリーにおける音楽教育の充実にも努めて、音楽院の創設(一八七五年) に尽力した。
ウィーン以外で活動した作家の中では、フランツ・カフカの存在が際立っている(ちなみに彼のファーストネームは、皇帝フランツ・ヨーゼフに由来する。これは当時のハプスブルク君主国のユダヤ人の間で珍しくなかった)。謎に満ちた不条理な世界を折り目正しい文体のドイツ語で描いた作品群は、没後にひろく世界に知られ、今日まで多くの人々を魅了している。ライナー・マリア・リルケは国外を転々としつつ活動したが、プラハで成育した体験は、初期の作品『二つのプラハの物語』などに現れている。ガリツィア出身のレーオポルト・ザッハー゠マゾッホは、被虐性のある性的倒錯「マゾヒズム」の語源としてもっぱら知られるが(同時代の精神病学者クラフト゠エービングによる命名)、歴史や民俗を扱った作品、そして親ユダヤ的姿勢にも注目すべきものがある。ザルツブルクに生まれ育った表現主義の詩人ゲオルク・トラークルは、薬物中毒に悩みつつ、破滅や死を見据えた作品を残した。
他に名を逸することができないのは、哲学者のルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン、そして平和活動家のベルタ・ズットナーだろう。ヴィトゲンシュタインは工学や数学を学んだ後、ケンブリッジ大学でバーナード・ラッセルに師事して哲学の道に入り、前線にあった第一次大戦の間に主著『論理哲学論考』を脱稿した。アルフレッド・ノーベルと交流があったズットナーは反戦小説『武器を捨てよ!』で一躍名を馳せ、夢想的と思われながらも「世界大戦回避のための闘い」に尽力し、女性で初めてノーベル平和賞を受賞した(一九〇五年)。その肖像は現在、オーストリアの二ユーロ硬貨に刻まれている。
「分離派」の創始者(ただしほどなく脱退)、そしてユーゲントシュティールの代表者グスタフ・クリムト(金細工師の息子だった) は、色彩豊かで絢爛な画風で官能的な主題を多く手掛け、人々を憤激させると同時に魅了した。オットー・ヴァーグナーは、彼を「かつて地上に現れた最大の芸術家」と称賛している。エゴン・シーレはクリムトや表現主義の影響をうけつつ、暗色を用いてまさしく赤裸々に性と死を扱った。
世紀転換期になると、チェコとハンガリーにおいてもアール・ヌーヴォー、そして分離派による建築が次々と出現した。チェコではプラハの中央駅(一九〇九年)、そして市民会館(「スメタナ・ホール」、一九一一年) が傑作として名高い。広島県産業奨励館(「原爆ドーム」) を設計したヤン・レツルも、この時代を生きたチェコの建築家の一人である。またモラヴィア出身のアルフォンス・ムハは、パリでのグラフィックデザイナーとしての成功でアール・ヌーヴォーの旗手となり、今日フランス語読みの「ミュシャ」で知られているが、一九一〇年に「残りの人生をただ我が民族に捧げる」と誓ってチェコに戻り、大作『スラヴ叙事詩』など、ナショナリズムを鼓舞する内容の仕事を多く残した。
最後に、この時期にハプスブルク君主国で成育し、後年の飛躍の基礎を築いた人物が音楽家以外にも多くいたことに触れておこう。作家のムージル、カレル・チャペック、イヴォ・アンドリッチ、パウル・ツェラン、経済人類学カールと物理学・社会学マイケルのポランニー兄弟、哲学のジェルジュ・ルカーチとカール・マンハイム、経済学のハイエク、経営学のドラッカー、法学のケルゼン、心理学のフランクル、動物学のローレンツ、物理学のテラー、数学のノイマンなどである。映画人はとくに多く、監督にジョゼフ・スタンバーグ、エーリヒ・フォン・シュトロハイム、フリッツ・ラング、マイケル・カーティス、フレッド・ジンネマン、ビリー・ワイルダー、オットー・プレミンジャー、作曲家にマックス・スタイナー、エーリヒ・コルンゴルトなどがいる。ハプスブルク君主国に対する彼らの思いや関わりはもとより一様ではなかったが、その多彩さと豊潤さは、やはり注目に値しよう。
四月三日には「ハプスブルク法」が制定され、一族の国外追放と財産の没収が決定された。ハプスブルク家の成員は、同家に由来する一切の権利を放棄し、共和国に忠誠を誓う一市民となる場合にのみ、オーストリア残留が許された。さらに同日には貴族特権を廃止する法律も制定され、オーストリアは共和国として歩む姿勢をより鮮明にした。ハイドン作曲の「皇帝賛歌」は国歌でなくなり、国旗も(ハプスブルク家以前にオーストリアを支配していた) バーベンベルク家に由来する「赤・白・赤」に代えられた。新政府は徹底してハプスブルク色の一掃に努めたのである。
この映画は、エリーザベトを一躍ハプスブルクを代表する存在に押し上げた。そのストーリーは史実とかけ離れ、人物造形にも問題が多い(主演したロミー・シュナイダーは、後年『ルートヴィヒ』〈一九七二年〉でこの人物をふたたび演じるにあたり、「私は初めてこの女性をきちんと演ずることができそうだ……」と日記に記している)。しかし、純真で自由を愛する伸びやかな魂の持ち主というエリーザベトのイメージは、ここに確立した。
「ハプスブルク史には、手頃な通史がない」。ハプスブルク史を専攻するようになって以来、幾度となく耳にし、自分でも口にしてきた言葉である。名こそ高いが、あまり知られていないこの国について、一般の人々に伝わる形でもっと紹介する必要があるのではないか。そうした思いは、常日頃から抱いていた。二〇一三年には、大津留厚、水野博子、河野淳の各氏との共編で『ハプスブルク史研究入門』(昭和堂) を上梓したが、当初は一般の人々にも手にとってもらえるようなものにという構想があったものの、最終的には研究者、およびそれを志す人向けという性格の強い本となった。一冊の本で多様な需要が満たせるはずもなく、仕方のないことだったが、日頃の思いを果たせなかったという気持ちは残った。