「八本脚の蝶」読後、哲学的なテーマの本への興味が尽きない。たまたま手に取ったのだが、本書を読んでよかった。
ハイデガーの主著「存在と時間」についての入門書。入門書をいくら読んでも、原典を読んで自分自身のものとして吸収しないとそれは真の読書経験(理解)ではない。野矢先生もそのように書いていたが、本書で
...続きを読むもそのことに触れられていた。しかも、「入門書だけ読んで理解したつもりになる」は本書ではハイデガーの本来性・非本来性の議論の卑近的な例として挙げられていたのが面白かった。
本書はハイデガーが本書で示した思想的内容のみならず、それがなぜ当初の刊行予定の中途で途絶しているのかといった成立過程も含めて論じている。最初は刊行をめぐるドタバタ劇に面白みは感じていたが早く本論に向かってほしいな、と思っていたけれど、最後まで読むと、「なぜ未完なのか」を丁寧に追うことが内容の理解に寄与することがわかった。
「存在と時間」の思想的内容は、本書の「結語」に簡潔かつ分かりやすい形でまとめられている。後で思い出したい時には、この章を読めば最低限のことはわかるのではないかと感じた。
ハイデガーが存在と時間性の議論で、「脱自態の地平の統一」の箇所の理解が少し難しかった。簡単にいうと存在は単に現前しているだけではなくその将来の可能態としての在り方やこれまでに可能であったあり方を含意し、それが現存在(人間)から了解される形で存在している。そして、自己である現存在もまた、その他の周囲の存在者のうちに同様のあり方で「ある」もの、ということだろうか。
確かに、存在と時間についての議論をするといっておきながら、「不安」や「死への先駆」「良心の呼び声」などと術語が出てくれば、人間の良き存在の仕方=本来性なのだ、というような理解にしか到達できないかもしれない。しかしこの点、轟先生が未完の部分で書かれたはずの内容も補完していて、そうした内容は原著だけをがむしゃらに読んでいてもわからない内容ではないかと思った。
また、ハイデガーはキリスト教教義学に大きく影響を受けていること、さらに(意図せずに)大乗仏教的な発想に似通ったものがあると指摘されていた。仮に本来性の議論を、人間としてあるべき姿だと誤解して理解したとしても、全く理解できないどころかむしろ得心できる内容だったと感じた。轟先生が言われるように、存在を突き詰めることで実は存在の確固性が揺らぐような、仏教的な考え方は日本人にも受け止められやすいと思う。
本書の巻末に著者自身の執筆に至る経緯が書かれていた。学生時代から、それこそ一生をかけて「存在の問いとは何か」の答えを探り、専門の先生であってもようやくおぼろげにしか理解できないという内容に、千円少しのお金を払えば触れることができる。先生は科研費のおかげで研究ができたというが、もし人文系の学問が廃れてしまって、このような本を世に出す研究者がいなくなってしまったら、確かに誰も困らないかもしれないけど、何だかとてもつまらないことになるような気がする。