あらすじ
「20世紀最大の哲学者」ハイデガーが生涯を賭けて問い続けた「存在への問い」とはどのような「問い」だったのか? 変容し続ける思索の跡を丹念にたどり、その最後にたどり着いた境地に迫る。また、近年「黒ノート事件」によってスキャンダルを巻き起こした悪名高い「ナチス加担」がいかなる哲学的見地からなされ、そしていかなる理由からナチス批判に転じたのかについても徹底的に解明する。「道であって作品ではない」――ハイデガー哲学の魅力と魔力を余すところなく捉えた力作。
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Posted by ブクログ
ハイデガーはナチスに加担した危険思想家として、日本以外ではアンタッチャブルな思想家となっている。
ドイツでは、ハイデガーについて触れること自体が政治的に「正しくない」こととして、哲学的ではなく、「政治的に」完全否定されていることを本書で知った。
天才哲学者も政治に関しては間違うことはあるさ、と彼のナチス加担について簡単に語る向きもある。
だが、ハイデガーこそ二十世紀最高の哲学者と呼ばれた、思想界の大巨人だ。
そう易々と一般人が、思想的巨人を判断して良いものか。そうではあるまい。
そこには、我々のなかなか思いもよらない深い思想的理由があると考えるべきだ。
これを「ハイデガー問題」という。
同じことは日本においても言える。
それは「三島由紀夫問題」だ。
三島は文学者としては優れていたが、政治的にはバカな死に方をした、と考えて安心するものが多い。
近代日本で最高の知性を持った三島を凡人がいくら批判しても、それは自分の身の丈で戦いを挑んでいるに過ぎない。
三島もハイデガーも、一般人には及びもつかない、巨人なのだ。
そうみなして「問題」(謎)に挑むのが、建設的だし、正しいアプローチだろう。
ハイデガーといえば『存在と時間』。
そう誰もが思っている。
ハイデガーの主著は『存在と時間』でしょ、と誰もが信じている。
それは大いなる誤解。
ハイデガー(1889-1976)は、86年の生涯において、『存在と時間』は1927年、31歳の時の教授審査論文で、未完。当初目的の半分で放擲されている。
その若書きの未完論文を「主著」と呼ぶのは、ハイデガーに失礼ではないか?
なぜなら、それから50年、ハイデガーは残された課題に取り組んだからだ。
それを全く無視したのが、現代のハイデガー理解だというのだ。
ハイデガーは、なぜ『存在と時間』を途中で放擲したのか?
過去の哲学(形而上学)の用語に基づいた記述では、「存在」の謎に迫ることは出来ないと悟ったからだ。
我々が、『存在と時間』に惹かれるのは、それが馴染みのある従来の哲学(形而上学)を使って記述されているからだ。ちょっと分かるぞと思わせてくれるのだ。
しかし、『存在と時間』をいくら詳細に読んでも、「存在」の謎に肉薄できる筈はないのだ。
それを知らずして、ハイデガーは『存在と時間』だよ、と語ることの不毛さを、本書は分からせてくれる。ハズカシ。。。
『存在と時間』後の55年にわたるハイデガーの哲学的営為こそが、真の二十世紀最大の哲学者の真骨頂であるにもかかわらず、誰もそれを無視する。
それには二つの理由がある。
一つは、ハイデガーがナチス加担という誤りを犯したからだ。
もうひとつは、ハイデガーが何を語っているか皆目分からないからだ。
だが、それを以て、二十世紀最高の頭脳の成果を無視してしまって良いのか?
本書は、ハイデガー理解を妨げるこの二つのハードルを取り除いてみせる。
ハイデガーは、ナチス加担について、何も語らなかった、というのが一般の理解だ。そんな哲学者を信じられるか、という反発と政治的な理由でハイデガーは「アンタッチャブル」となった。
しかし、実は、ハイデガーはなぜナチスに期待したのかを明快に語り、なぜナチスがダメだったかを哲学的に徹底的に語っているのだ。
その発言を完全に無視したところに、現在のハイデガー(へのネガティヴ)評価は成り立っている。
ハイデガーはなぜナチスに期待したのか?
それまでの形而上学を超える思想的可能性を見出したと思ったからだ。つまり、思想的運動と捉えていた訳だ。
ではなぜ、ナチス批判に転じたのか?
ナチスをハイデガーの目指す方向に導くことが出来ず、従来の形而上学を補強する機能しか果たさないことが判明したからだ。
だから、ハイデガーの後期思想は、ナチスに対する根底的な批判となっている。
そのナチズムを徹底的に批判したハイデガーの営為を無視することは、ナチズムを温存することにしかならない。
ナチズムを根底的に批判して、ナチスの再来を許さなくするためには、ハイデガーを無視するのではなく、ハイデガーの後期思想を引き受けることなのだ。
『存在と時間』以後のハイデガーの著作が読みにくいのはなぜなのか?
『存在と時間』も決して読み易いわけではない。
なぜなら、それまで問われたことのない「存在」の謎に取り組んでいるからだ。
だが、『存在と時間』は何となく読める気がするのはなぜなのか?
それは誰もが慣れ親しんだギリシア以来の哲学(形而上学)の延長線上にあるからだ。
それでも、当然、問われたことのない謎に迫るために、独自の用語を生み出さなくてはならなかった。
それが現在、ハイデガー名彙と呼ばれる用語だ。
だが、それは従来の哲学(形而上学)の発想を引きずっている。
それでは「存在の謎」に迫ることは出来ない、と判断したことから、『存在と時間』は中途で放擲された。
『存在と時間』以降のハイデガー55年の知的営為は、従来の哲学(形而上学)に縛られない思考枠組みを構成することに費やされた。
『存在と時間』では何となく分かったと思ったのに、それ以降は、皆目分からなくなったさ理由はそこにある。
その後解りづらい用語をハイデガーの問題意識に遡ることで、一歩一歩理解しようとする。
それが本書の眼目だ。
ハイデガーという巨人が何に格闘したのか、その姿が朧げながら分かったような気がした。
Posted by ブクログ
骨太な読書になりました。
ハイデガーの『存在と時間』については大体理解していたつもりだったが、著者の胆力ある丁寧な説明のおかげで理解がより深まった。人生論としての存在という表層的な思考に留まることなく、ハイデガーが追い求めた思索の過程とその結果生まれ得た多くの概念に肉薄していく。
存在という概念に取り憑かれたハイデガーおじさんは、その思考の果てに存在を超出していく。
ナチとの繋がりについてはフェアな立ち位置から出来るだけ冷静に分析していて興味深い。
ツェランとのエピソードはなぜか泣いてしまったた。
ただハイデガーの胡散臭さは免れ得ない印象。
Posted by ブクログ
ハイデガーって、『存在と時間』の解説はけっこうあるんだけど、後期の著作を含めて整合的に理解できる解説ってほとんどないんですよね。これはかなり理解しやすい形でまとめられている。ただ、ナチに関してはちょっとハイデガーに好意的すぎない?! というのと、最後半の「主体性」をめぐって「その"主体性"の"主体"は誰?」「ひとつに収斂しないのはなぜで、その違いは何?」という疑問がぬぐえなかった。またいつか読んでみての感想が自分でも楽しみ。
Posted by ブクログ
ハイデガーの思索をつらぬく「存在」をめぐる問いとはいったいなんだったのかということを、ていねいに解説している本です。
著者はすでに『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書)を刊行していますが、本書でもふたたび『存在と時間』におけるハイデガーの思索を振り返っています。とはいえ、前著とは異なる観点から検討がなされていることはいうまでもありません。本書では、『存在と時間』の既刊部分ではじゅうぶんに展開されることのなかった、「存在」をめぐる問いとのかかわりに焦点をあてて、ハイデガーの議論が見なおされます。
つづいて、中期および後期の思想の検討がおこなわれますが、ここで著者はハイデガーとナチズムの関係についてのくわしい考察を展開しています。ハイデガーの反ユダヤ主義的な言説がしるされた「黒いノート」の公刊以来、ハイデガーのナチズムへの加担は決定的になったとみなされていることに対し、著者は異議申し立てをおこないます。
ハイデガーの「存在」とは、さまざまな存在者がその真理をあらわにする場所であり、そこには和辻哲郎の主張する「風土」としての性格がふくまれていると著者は主張します。こうした発想にもとづいて、ハイデガーはドイツ民族が彼らの置かれている「風土」において「存在」を迎え入れることの意義を説きました。著者によれば、こうしたハイデガーの議論は「存在」の性格にそくした、どこまでも哲学的な思索なのであり、ナチズムの信奉者のあいだに見られた、生物学的な意味での民族を称揚する議論とは無縁のものです。
こうした立場にたって、ハイデガーはみずからの思想にもとづく大学改革を夢見たものの、そのくわだては失敗に終わります。その後ハイデガーは、ナチズムをふくめて近代的な発想そのものを根底から批判する思索をおこなっていたと著者は主張します。また、しばしばハイデガーの不誠実さを示すと見られてきた詩人のパウル・ツェランとのかかわりについても、通説の誤りを明らかにしています。