アメリカ独立宣言の理論的基礎となったとされる本書(1690)については、同じ岩波文庫で『市民政府論』としてかなり若い頃に読んだのだが、これは原著の後編に当たる。
ということで、前編を読んだのは初めてだが、ロバート・フィルマーとかいう人の、王権神授説の流れを汲む著作に対する執拗な批判がもっぱら展開され
...続きを読むる。フィルマーの『パトリアーカ』はもちろん読んだことないが、本書を読む限り、かなり恣意的に聖書を曲解し、父権と王権を同一線上に置くなどと言うヤワなことが書いてあるらしい。ロックの批判はじゅうぶんに論理的である上に、ところどころユーモアさえ交えて、面白い。
さて後編はロック自身による統治論が展開される。これは「社会契約説」の嚆矢となったものなのだろうか。彼は、なんびとも政治統治体と「合意」によって結合するのだと説く。
人は生まれついての「自然状態」の自由をむざむざ放棄して、権力的統治のもとに入るわけだから、そこには「同意」がなければならない。
生まれついた統治体が不服であれば、これに同意せず、別の統治体を探すか、もしくは自ら新たな統治体を作れば良い(そう簡単に言うけれども、現代においてはそれはかなり難しい)。
そのかわり、統治体の権力は、共同体の成員の「合意」(それは多数決により決まる)に沿って行使されなければならない。従ってロックは絶対王制のような体制を否定している。それは合意に基づかない、単に暴力的な、服従の強制である。
統治体が構成される目的は、諸個人の固有権(プロパティ)の保全にある。権力(政府)側がこれを逸脱することは許されない。もし本来の目的を離れて権力が人々を強制するならば、住民は「抵抗」することが許される。この辺は、事実上主権在民の原理を示しており、ロックはそうと明言はしないものの、民主主義の基礎となるような考え方である。
ロックはまた、立法府を最高権力としながら、行政府との分立を提言している。当時としてはかなり先進的な考え方と言えるだろう。
ただし難点は、「多数決」がすべてを決めてしまい、それに全員が服従しなければならないため、マイノリティの立場がこれだけでは保障されない点である。
さらに、たとえば一国が他国に侵略戦争をしかけたとき、敗者の国民は「抵抗しなかった場合は」服従を強制されないが、抵抗し、「交戦状態」となった上で敗北した場合は、略奪されて良い、という、なんともドライな、西洋植民地主義のエゴのような考え方も示している。
さてこのような契約説の「同意」なるものは果たして本当に存在するのだろうか? 若い頃これを読んだときと同様の疑問が残る。だがたぶんそれは、「権利」という用語と同様、自然界に実在するわけではないが、理論体系構築のためにあえて定義された概念なのだろう。
それでも疑問が残るのは、現代の複雑きわまりない多義的な社会にあって、「国家」の意向にそうそう「同意」などできはしないということだ。
さて、ルソーの契約説はロックと対比してどのような様態を示すのか。次はルソーに取りかかる。