ジョン・ロックのレビュー一覧
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課題読書なのでノートしながら読む。すごく体力をつかう。終わった時に感じる研究者って生き物のおぞましさ。ロックだぜ!
読んでて頭に浮かぶのはヒトラーとか大東亜共栄圏とか日米安保とか憲法九条とか2次大戦が起源の出来事。これら市民政府論以後の統治問題に対して、市民政府論はどう解釈されるのか、されるべきなのか。(おそらくこれらはゼミ合宿での議論になる。)
また、統治と言えば今我が国は人民信託が移行し、与党民主党の誕生を迎えた。世界混迷の今、慎重さと大胆さを兼ね備えた行政が求められることだろう。そんな時だからこそ、一度国造りの原点に立ち返ることには意味がある。慎重さと大胆さの両立を可能にするのは「ブレな -
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自然状態は平和であるが、たまに徳のない人間がいるため、人々がお互いの安全のために結び付き、国家を作る。その後、統治する者と統治される者の関係を決める。統治する者は人民の福祉を促進することを約束し、統治される者は服従を約束する。統治する者(主権者)は絶対ではなく、法によって拘束される。ザムエル・プーフェンドルフPufendorf『自然法と万民法』1672
神はアダムに一切の事物を支配する権限を与えた。アダムの権限はその子孫である各国の君主に代々受け継がれてきた。だから人間は生まれつき自由ではなく、人間はアダムの子孫である国王に服従すべきである。王はアダムに与えられた現世の支配権を継承しているた -
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前半がまるまるフィルマーの王権神授説を批判することにあてられています。明らかに論理的に破綻しているフィルマーの説を論破するわけですが、彼の根本の前提を否定してはい終わり、というわけにはいかないらしく、仮にそれが正しかったとしたら、と仮定を置いてその後の議論も全て論駁していくというスタイルです。とても長くて読みにくかったです。そうでもして徹底的に批判しておかないといけないほど、一般的にフィルマーの説が信じられていたということなのかもしれません。
後半はいよいよロックの社会契約説が展開され、面白くなります。論の展開は明確でわかりやすく、現代の視点で読んでもおおむね納得できる気がします。
ホッブ -
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アメリカ独立宣言の理論的基礎となったとされる本書(1690)については、同じ岩波文庫で『市民政府論』としてかなり若い頃に読んだのだが、これは原著の後編に当たる。
ということで、前編を読んだのは初めてだが、ロバート・フィルマーとかいう人の、王権神授説の流れを汲む著作に対する執拗な批判がもっぱら展開される。フィルマーの『パトリアーカ』はもちろん読んだことないが、本書を読む限り、かなり恣意的に聖書を曲解し、父権と王権を同一線上に置くなどと言うヤワなことが書いてあるらしい。ロックの批判はじゅうぶんに論理的である上に、ところどころユーモアさえ交えて、面白い。
さて後編はロック自身による統治論が展開される -
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彼の特徴は、
労働をもとにした所有権、
自己保存の目的を徹底した抵抗権の主張にある。
前者はどういう発想から来たのかいまいちわからないが、
後者について言えば、人民の抵抗権はホッブズが渋っていたように、平安を希求する目的が初発にあるにもかかわらず、統治に不満があれば騒乱となりうるため、容易に認めるべきではない、とこれまで見られてきたように思われる。
ロックは、そのことについて自覚的であるために、革命権を認めたところで、頻繁に革命が起るわけではないことを力説する。
ロックのその弁に説得力があるかどうかは別にして、
社会統治の方法やその都度の判断に関して、別の可能性を常に残しておくことは必要で -
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ジョン・ロックが、誤謬に陥らずに事象を理解し判断するための処方を書いた小著。
要するに論理的明晰さを維持するために排除しなければならないつまずきの石を指摘していく。その思考モデルの原型は数学である。ロックは思考の訓練のために数学を学ぶことを勧めている。
私たちは、知性(本書の現代ではUnderstandingとなっている)と呼ばれているものも、理性と呼ばれているものも、同じ脳の諸機能の特性ごく一部を、取り出したものにすぎないということを知っている。特にカント以降は知性・理性・悟性を諸感覚や感情と截然と区分し、それぞれがあたかも1個の実体であるかのように語られた。理性崇拝は西欧の文化を支えてきた -
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主張が項目ごとコンパクトにまとめられていて、ロックの政治思想の中心である社会契約論が分かりやすく述べられている。ロックの特徴的な思想として所有権と抵抗権があるが、それらが共に聖書的・キリスト教的に根拠づけられていることは興味深い。「天への訴え」に関連して述べている次の文章など、まさに終末論的である。
「地上に裁判官がいない場合は、訴えは天の神に通じている。だからその疑問は、他人が私と戦争の状態に立ちいったかどうか、またその場合に、私がエフタのように天に訴えてよいかどうか、果たしてだれが裁くのか、ということを意味するものではない。そのことについては、ひとり私だけが自分自身の良心において裁判官とな