日本三大怨霊は菅原道真、平将門、崇徳院である。このうちの道真と崇徳院の二人が讃岐国の林田と縁がある。道真は讃岐守になり、林田湊で庶民の生活を見て漢詩を作った。崇徳院は保元の乱後に讃岐国に流されて林田郷で生活した。平将門は林田と無縁であるが、将門と同時期に反乱を起こした藤原純友が讃岐国府を攻撃した。讃岐国府の海の入口が林田湊であり、林田湊が先ず攻撃された。
道真や将門と比べると崇徳院の怨霊は皇国史観に利用された要素が強い。保元の乱から武士の世になり、天皇の政治的実権が失われた理由を崇徳院の怨霊とする説が明治時代に出た。
むしろ同時代人には承久の乱に敗北して隠岐島に流された後鳥羽院の怨霊の方が印象深い。三浦義村や北条時房の死を後鳥羽院の怨霊の祟りとする説が出た。逆に言えば後鳥羽院の怨霊イメージが崇徳院の怨霊イメージに転化した面がある。
それならば皇国史観の立場ならば鎌倉幕府と戦って敗れた後鳥羽院の無念こそ怨霊として重視しそうなものである。しかし、北畠親房『神皇正統記』など朝廷側の歴史観でも承久の乱を後鳥羽院の挙兵自体が失敗と見ており、評価が低い。
後鳥羽院は自身への権力集中を目指しており、公家の多くも後鳥羽院に冷ややかであった。逆に言えば鎌倉幕府が承久の乱に完全勝利したのに朝廷解体とならなかった理由は朝廷側が一丸となって幕府追討を目指した訳ではなかったためである。平家滅亡時は寺社勢力も平家に反発していた。これに対して後鳥羽上皇は寺社の権益も抑制しており、承久の乱の寺社勢力は後鳥羽院と距離を置いていた。
日本の怨霊信仰は虐めた側が自分達の保身のために虐めた相手を怨霊として勝手に祀るものである。鎌倉武士達が後鳥羽院の怨霊の祟りを恐れることは正しい。しかし、公家達にとっては自分達も後鳥羽院の専制の被害者意識を持っており、怨霊として恐れる理由はない。この点は崇徳院とは異なる。
また、後鳥羽院は敗北時の振る舞いが無責任であった。上皇方の武士の山田重忠らが最後の一戦をしようと御所に駆けつけるが、上皇は門を固く閉じて「武士達が勝手に挙兵し、自分の責任ではない」と言い放った。保身第一の無能公務員体質丸出しである。山田重忠は「大臆病の君に騙られた」と激怒した。
この無責任さは後白河法皇と重なる。後白河法皇は源義経に源頼朝追討の院宣を出しながら、義経が敗北すると取り消した。頼朝は後白河法皇の無責任さに対して日本一の大天狗とは誰のことかと憤慨した。後白河法皇の場合は腹黒さ、老獪さを評価することもできるが、後鳥羽院の場合はただただ無責任である。
後白河法皇は、まだ頼朝と政治的駆け引きが成立していた。頼朝は「日本一の大天狗」と激怒したが、逆に言えば後白河法皇を実力で排除できず、罵ることしかできなかった。義経は頼朝への謀反に失敗し、そのまま奥州平泉に落ち延びたと描かれることが多いが、すぐに平泉に行った訳ではなく、しばらく畿内に潜伏していた。
義経の謀反は文治元年(一一八五年)であり、平泉に身を寄せたことが確認できるのは文治三年(一一八七年)である。その間、義経が畿内に潜伏できた背景には反頼朝の公家や寺社勢力の援助があった。その背後に後白河法皇がいたことは容易に想像できることであり、頼朝も強く疑っていた。この後白河法皇に比べると後鳥羽院は自分の権力基盤になる武士達を切り捨てており、保身第一の無能公務員体質が濃厚である。
怨霊として祀る目的は最終的には神として味方にするという現世の人に都合の良い考えがある。とはいえ後鳥羽院は神としてあがめたいとも思わない。このような事情から皇国史観では後鳥羽院よりも崇徳院が怨霊として利用された。
承久の乱では後鳥羽院ら三人の上皇が流罪になった。厳密には土御門上皇は自主的な配流である。これは前代未聞のことである。そもそも天皇の地位にあった人物を流罪にすることがタブーである。保元の乱では、そのタブーを破って四百年ぶりに崇徳院を讃岐国に流罪にした。崇徳院の先例があるから、承久の乱も上皇の流罪になった。崇徳院の祟りを想起したくなり、この点でも崇徳院が怨霊として重視される。