内容は人口史にとどまらず、人類の進化と拡散、農耕や文明の歴史に及ぶ。
ハッサンは、バイオームごとに生息する有蹄類の重量から、更新世最終盤のヒトの人口支持力は1000万人だったと推測した。実際の人口は、その5〜8割と考えるのが妥当。狩猟採集社会か農耕社会かを問わず、多くの人々が密集して集住すると、社
...続きを読む会の階層化が始まった。
3200年前、フェニキア人が順風でなくとも航海できる帆船を建造し、地中海とアラビア海で活発な交易活動を開始した。インドでは紀元前1000年頃から鉄器が用いられるようになって農業生産が高まった。中国でも、周王朝が衰退しはじめた紀元前8世紀から鉄製の農具やウシに曳かせる犂が普及し、農業生産が急速に向上した。中国では220年に後漢が、ヨーロッパでは西ローマが476年に滅亡したため、世界人口は200年頃から500年頃まで停滞あるいはわずかに減少した(第一の人口循環終了)。
500年から1400年まで続いた中世の人口循環には、世界人口は1億9000万人から3億6600万人に増加した。人口増加は1000年頃に加速し、1200年代に減少が始まった。鉄製の斧や牛馬に引かせて深耕するための重輪犂、蹄の損耗を防ぐ蹄鉄が農民の間に広く普及したこと、ヨーロッパでは、11〜12世紀に三圃式農法が普及し、品種改良によって小麦の収穫率が3倍未満から5倍に増加したこと、中国南部でも11世紀初頭に、日照りや虫害に強くやせた土地でも生産性が高いベトナム原産の占城稲が導入され、二期作やムギとの二毛作が可能になったこと、中国北部でも、1〜2世紀にシルクロード経由で伝えられたコムギとアワの二毛作が行われるようになったことが人口増加の要因。13〜14世紀には、モンゴルの騎馬軍団が戦闘を続け、ヨーロッパでは14世紀にペストの流行で人口が減少した。
15世紀以降の現代の人口循環のうち、17世紀前半は長期にわたる戦争と社会的な混乱によって人口は伸びなかった。中東ではオスマン帝国が勢力を伸ばし、ヨーロッパでは宗教対立による30年戦争が起き、中国では明王朝が衰退して後金ののち清朝が成立した。ヨーロッパと中国ではペストも流行した。18世紀には、南北アメリカ大陸への移住と、アフリカ人の強制移住が本格化した。
一方で、イギリスでは18世紀に死亡率と出生率が変化する人口転換が始まった。四輪作(オオムギ、クローバー、コムギ、カブ)への転換、農具の改良、畑作と畜産の連携などが進み、コムギの収穫率も10倍を超えるようになった。18世紀半ばには産業革命が起こり、増加した農村人口を吸収していった。産業構造が農業から工業へ移ったため、子どもを多く持つ必要が減り、逆に子どもの教育に必要な費用が増加したことが、出生率が低下した要因としてあげられる。