日本が特殊な国家だと認識しているつもりだった。しかし、改めてこう説明されると景色が全く違って見える。
「国土」が特徴的なのは頭では理解している。
「島国」というだけでも日本は特徴的だが、それを「周囲が海で囲まれている」程度にしか理解していないとすれば「本質が見えていない」と言われても仕方がない。
本
...続きを読む書では「日本」という国の特殊性について、極めて論理的に説明してくれている。
それは「海外との比較」を行うことでしか気付けない。
普段「周囲が海」を認識していても、それが他国とどう違うのか。何が本質的に異なるのか。そこまで踏み込んで考えない。
だからこそ、久しぶりに読み応えのある書籍だった。
日本は自然災害の前ですべてがリセットされてしまう「災害死史観」だという。
つまり自然災害によってもたらされる「死」を、日本人はそれこそ「自然」と受け入れている。
本書では「方丈記」が例として出てくるが「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という感覚は、日本人なら誰でも理解できる感覚ではないだろうか。
人間は自然の前では明らかに無力。
あくまでも自然があり、そこに共生する人間が存在する。
どんなに大きな災害が起こり、一瞬で世界を一変させたとしても、それでも生き残った人々はその状況を受け入れ、そして未来を力強く生きていく。
長い歴史の中でこれらは何度も繰り返され、そうして日本人というものが出来上がっていったのである。
一方で、日本以外の国は基本的に「人間同士の殺戮の歴史」である。
これを「紛争死史観」と本書では呼んでいる。
海外の特に人間が住んでいる土地は、大災害がほとんど起きてないのである。
大きな災害によって、一瞬にして愛する家族を奪われる経験がまずない。
それでは命の危険は何によってもたらされるのかというと、他者からの侵略だ。
つまり、命は自然災害によって奪われるのでのはなく、他人から奪われるものだったのだ。
自分の身を守らなければ財産の全てを収奪される。
さらに、自分一人が死ぬだけに限らず、村町都市レベルで殲滅される。
万が一生き残ったとしても奴隷として生きていくだけであり、それは一生を地獄で暮らすようなものだ。
奴隷として生きれば、平穏な暮らしに戻ることは二度とあり得ない。
だからこそ、日本人と海外の人々は、死生観が全く違うという。
日本でも確かに内乱はあったが、あくまでも軍人(武士)同士の争いである。
一般の村民を巻き込んで、村全部が壊滅させられることはない。
数万人の住人が一人残らず殺されて、全く違う人たちが移り住む。
これをまさに侵略というが、こんなことは日本の歴史上一度も起きていない。
しかし海外では国家の歴史は、イコール侵略を繰り返した歴史そのものだ。
「城」に対する考え方も日本と海外とでは全く異なる。
日本は「城下町」という位だから、城の下(外)に町がある。
あくまでも城は城、町は町なのである。
かたや海外では、城壁に囲まれた城が確かに存在するが、その城壁は住民を含めた町そのものを囲っている。
これら「壁が相対しているもの」の認識の違いは、大きな差だと思う。
日本は自然と相対している一方で、他国はあくまで人間(他人)と相対している。
日本は、地形的にも広大な平野がない。
狭い扇状地形で暮らすために、そもそも大きな都市は築けなかった。
(現代の都市は全て人工的に埋め立てたりして、土木工事の上で成り立っている)
そんな狭い扇状地も、台風で川が氾濫すれば全てを流してしまう。
だから余計に小さな単位で暮らすことになる。一ヶ所に大人数で暮らしていれば、それこそ大災害で全滅する可能性が高くなってしまう。
リスクヘッジの意味でも、小規模で暮らすことは必然的に近親者ばかりとなり、濃い人間関係となる。
明文化された規則はほとんど必要がなく、調和を重んじる文化が出来上がるのも納得がいく。
気配り、阿吽の呼吸、忖度、空気を読む。
外国人からしたら理解できない感覚だろう。
城壁で囲まれた海外の暮らしは、日本とは様相が異なる。
城壁内の町と言っても、数十人の近親者だけではない。
少なくとも数百人数千人が暮らす規模となっているから、城壁内と言えども、お互いの人間同士をよく知らない。
そういう極めて限られた社会の中で、他人同士が協力して暮らしていくためには、明文化された明確なルールが大事だということだ。
昨今のコロナ禍で「都市封鎖」があったが、海外では元々「城壁の中での暮らし」は慣れていると言ってもいい。
戦時中の捕虜のエピソードも非常に印象的だ。
日本軍に捕まった外国人捕虜は、その生活の中で自分たちだけでルールとそれぞれの役割を作り上げ、自治を築いていったという。
米軍に捕まった日本人捕虜は逆に、自治が機能しなかったという。
こういう行動の違いも非常に合点がいく。
ルールを決めるためには、極めて論理的に話を積み重ねる必要がある。
古代ギリシャでは哲学が発展したが、これらはそれこそ「論理」の世界。
日本では「論理」「対話」が発展せず、むしろ「情緒」「感情」が極端に育ってしまった。
そちらの方が日本の暮らしでは重要だったからだ。
哲学書は生まれずに、万葉集・竹取物語・源氏物語が生まれたが、すべて論理的な話ではなく、あくまでも情緒的な物語でしかない。
比較すれば比較するほど日本と海外の考え方は根本的に全く異なるのだ。
だからこそ、先ずは「日本が世界と違う」ということを受け入れ、「世界でのスタンダードは何なのか」を知ることが大切なのだと思う。
海外ではルールを決めるために議論することが普通のことなのだ。
そして、そこで自分の意見を明確に言わなければ、損をしてしまうし、逆に「お前は誰なんだ」と不気味がられてしまう。
自己主張するのが当たり前なのは、城壁内の赤の他人に理解してもらう必要があるからなのだ。
本書を読んで考えを巡らすと、日本と海外の違いがものすごく見えてくる。
日本以外の外国からすれば、攻めて来るのは他国であって、自然災害ではない。
しかしながら日本という国は、定期的に必ず訪れる自然災害が全てを無にしてしまう。
日本と言う国は本当に素晴らしい国だと思うが、きっと海外からは理解できない部分が多いのだろう。
そして日本も海外のことを理解できない部分があると思うが、ここはむしろ理解しなければ日本だけが損をする。
隣国である中国・韓国とも、なぜこんなに日本と考え方が異なるのか合点がいった。
日本は今後も日本であり続けられるであろうか。
国際化の波に飲み込まれずに、未来にも繫栄を続けたいものである。
(2022/9/28)