マヤ文明の概略、特に最も興味のある文明の盛衰がコンパクトに整理されている。
マヤ地域では古期の紀元前1800年まで狩猟採集が主で、雨季と乾季に移住する生活を続けていた。先古典期中期の前1000年頃に大きな穂軸と穀粒のトウモロコシが生産され始め、トウモロコシ農耕を基盤とした定住生活が各地で定着した。
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マヤ文明は石器を使い続け、鉄器は用いなかった。車輪の原理は知られていたが、大型の家畜がいなかったために荷車や犂は発達しなかった。「ピラミッド」はウィツと呼ばれる山信仰と関連する宗教施設だった。後世の王は、神殿ピラミッドをより大きく更新することによって王権を強化した。支配層に仕えた書記兼工芸家は、天体観測、工芸品の製作、戦争、行政などの複数の社会的役割を果たした。法律文は見つかっていない。
ティカルでは乾季に水が不足するため、建築物や地面を漆喰で舗装して貯水池がつくられた。コパンでは、5世紀に大規模な建設が行われたために森林が破壊され、7世紀頃から建造物の外壁は漆喰彫刻に代わってモザイク石彫で装飾されるようになった。マヤ低地南部の都市が衰退した直接的な要因として最も重要視されているのは、人口過剰、環境破壊、戦争。8世紀に人口がピークに達し、宅地や農地の拡張、薪採集によって森林が減少し、農耕によって疲弊した土地が広がった。しかし、王たちは自らの権威を正当化するために神殿ピラミッドを更新続けた。戦争が激化して王朝の権威が弱体化・失墜した証拠がある。
一方、マヤ低地北部では、マヤ低地南部の多くの都市が衰退した古典期末期(800〜1000年)に全盛期に達した。後古典期(1000年〜16世紀)には海上遠距離交換が発達し、商業活動が盛んになった。芸術や建築に代わって大量生産が行われるようになり、マヤ文明は16世紀にスペイン人が侵略するまで発展し続けた。
内陸の芸術や建築を中心とした文明から北部海岸部の海運交易による経済へと移行したと説明している点が興味深い。人口増加による環境破壊は外部との交易によって解決されてきた歴史を物語っているように思える。