菊谷和宏の作品一覧
「菊谷和宏」の「「社会」のない国、日本 ドレフュス事件・大逆事件と荷風の悲嘆」「社会学的方法の規準」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「菊谷和宏」の「「社会」のない国、日本 ドレフュス事件・大逆事件と荷風の悲嘆」「社会学的方法の規準」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
Posted by ブクログ
「社会的事実」とは、個人に外的拘束を及ぼしうる行為様式であり、それ個人から独立した存在性を持つ。
「社会的事実」は、物として扱わなければならない。つまり、観念や意識から独立した、科学の対象となる客観的な物として。
このように社会学固有の対象としての「社会的事実」の概念を打ち出した本書は、社会学確立の記念碑である。
社会的事実について、規範から外れるかもしれないことを企図すると個人は強い心理的抵抗を受け、それを実行に移すとしばしば現実的抵抗を受ける。個々人を超えた「かのような」社会的な拘束性はたしかに感じられる。
そのような個人に還元できない「社会的事実」の概念を打ち出した功績は大きいのだが
Posted by ブクログ
「社会はなぜ右と左に分かれるのか(ジョナサン・ハイト著)」で保守の道徳的源流として幾度となく引用されていたデュルケーム。そこでは、道徳がもたらす規制が人間をして協力的な社会の構築を可能にする、道徳の機能主義的な描写がなされていた。直後に読んだ「現代経済学の直感的方法(長沼伸一郎著)」ではデュルケームへの直接の言及こそないものの、現代資本主義の閉塞を打破する契機として、宗教や愛国心などの「大きな物語」による伝統的社会の保存の必要性が説かれており、デュルケームのいう紐帯としての宗教のアイディアとの共通点を感じた。こうして、永らく読もうと思いながら躊躇していた本書を読む機会がようやく到来したのだっ
Posted by ブクログ
なかなかの力作。ゾラと幸徳秋水のあいだに永井荷風を挟んだことで、著者の<日本には社会(コンヴィヴィアリテ)がない>という主張がより立体的に、説得力をもって展開されているように思う。
あえて蛇足を言わせてもらえば、福沢諭吉の<古来の因習に国家という文字あり。この家の字は人民の家を指すにあらず。執権者の家族または家名という義ならん。故に国は即ち家なり、家は即ち国なり。甚だしきは政府(幕府、明治政府‥)を富ますを以て御国益などゝ唱うるに至れり。‥‥古来、日本においては政府と国民とは唯に主客たるのみにあらず、あるいはこれを敵対と称するも可なり、‥‥これを同国人の所業というべからざるなり>(『文明論
Posted by ブクログ
断捨離前の再読
5年前、コロナで強制帰国となった後の隔離期間中に読んだ本。
p.237
『この方法は、社会学への入門の前提条件として、これまで習慣的に用いてきた物の見方を破棄し、新たに苦労して考え直すよう人々に要求するのだから、多数の顧客の獲得など期待すべくもない。しかし、われわれの企ての目的は、多数の顧客の獲得ではないのだ。むしろ、反対に、社会学がいわゆる世俗的な成功を放棄して、およそ科学というものにふさわしい秘数的な性格を獲得すべき時期が到来していると思われるのだ。こうして社会学は通俗的な人気においておそらく失うものを、威厳と権威において取り戻すであろう。』
Posted by ブクログ
お互いに似ているからという理由で連帯する社会がある。部族社会。村社会。個人は個性を持たず社会に埋没。全体の価値・信念に従う。分業はあまり進んでいない。ある無機物の固体はたくさんの分子から構成されるが、それぞれの分子は個性的な活動はしない。それに似ている▼一方、お互いに違うからという理由で連帯する社会もある。個人はそれぞれ個性があり、得意・不得意がある。それぞれの活動はお互いに依存している。分業が進んでいる。個人はそれぞれ、お互いに依存している生物の臓器たちのよう。このような社会では、それぞれの個人が違っているからこそ連帯が生まれる。個人の人格を尊重することが大切になる▼社会の側が、個人の人格尊