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マックス・ウェーバーと並ぶ社会学の祖エミール・デュルケーム(1858-1917年)が1895年に世に問うたマニフェストの書、待望の新訳。『社会分業論』(1893年)で名を馳せたデュルケームは、その2年後、社会学に固有の対象である「社会的事実」の存在を宣言し、それを扱う方法を提示する。本書が与えた影響は計り知れない。この古典中の古典を第一級の専門家が明快な日本語にした決定版が完成!
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Posted by ブクログ
「社会的事実」とは、個人に外的拘束を及ぼしうる行為様式であり、それ個人から独立した存在性を持つ。 「社会的事実」は、物として扱わなければならない。つまり、観念や意識から独立した、科学の対象となる客観的な物として。 このように社会学固有の対象としての「社会的事実」の概念を打ち出した本書は、社会学確立...続きを読むの記念碑である。 社会的事実について、規範から外れるかもしれないことを企図すると個人は強い心理的抵抗を受け、それを実行に移すとしばしば現実的抵抗を受ける。個々人を超えた「かのような」社会的な拘束性はたしかに感じられる。 そのような個人に還元できない「社会的事実」の概念を打ち出した功績は大きいのだが、あくまでも「擬制」として有益なのであって、デュルケムのように「実在」としての側面を強調することにはためらいがある。 やはり実在するのはあくまでも個々人であり、社会的な現象はあくまでも個人と個人の関係性で理解を試みなければならないようにも思う。 もちろん、それには労力がかかりすぎるので、マクロな現象を永遠に論じれなくなる。それを乗り越えるための技術として社会的事実の概念は必要かもしれない。だけど、個人から説明できるものはそのようにすべきだろう。それではどうしても説明のつかない場合に社会的事実のような概念に頼る方がよい。 デュルケム自身も個々人の心理には還元できない現象を示した上で社会的事実の実在性を論じれば説得的だが、彼のわずかに示した実例では論拠が弱い。 あとがきを読むと、そもそも「個人」を観念しうるのは「社会」(2人以上の人の共在)があるからであり、その意味で個人の実在と同じレベルで社会も実在するというのも、観念的には理解できる(この「個人」は個体とは異なる)。ただし、それも言葉の問題であるし、デュルケムがそのような意図なのかは分からない。
「社会はなぜ右と左に分かれるのか(ジョナサン・ハイト著)」で保守の道徳的源流として幾度となく引用されていたデュルケーム。そこでは、道徳がもたらす規制が人間をして協力的な社会の構築を可能にする、道徳の機能主義的な描写がなされていた。直後に読んだ「現代経済学の直感的方法(長沼伸一郎著)」ではデュルケー...続きを読むムへの直接の言及こそないものの、現代資本主義の閉塞を打破する契機として、宗教や愛国心などの「大きな物語」による伝統的社会の保存の必要性が説かれており、デュルケームのいう紐帯としての宗教のアイディアとの共通点を感じた。こうして、永らく読もうと思いながら躊躇していた本書を読む機会がようやく到来したのだった。 まず本書を読み始めて最初に目につくのは、先行するオーギュスト・コントとハーバート・スペンサーの社会研究への辛辣な批判だ。社会をひたすら記述的・方法論的に扱うことを良しとしていたデュルケームは、コントらの観念的・規範的な物言いを「予断」だとして断罪している。急速に進む近代化と進化論を背景に、人間の精神がいかに近代へと進化してきたかを通時的に論じたコントらだが、デュルケームにしてみれば、社会を「物」として直接扱うのではなく主観的な「観念」を議論の対象とすることが、いかにも隔靴掻痒なものに思えてしかたなかったのだろう。なお「物として」の社会とは直観的にやや理解し難い概念だが、第二章の犯罪と刑罰のアナロジーにあるように、概念の外的な現れとしての可感的な客観を指すものであるらしい。 デュルケームの方法論の肝は、哲学がタイプとして、歴史学がトークンとして扱ってきた社会種を統合的に扱うことにあるようだ。まず最も単純な社会を基礎として、各社会の統合の度合いに応じて社会を分類する。そしてそれぞれの社会を科学的に説明する方法論として、予断に流されがちな目的論(「何のために」)ではなく、その機能(「何をしているか」)に基づいて社会現象を評価する機能主義が提唱されるのだ。個人的にはここでアリストテレスの始動因が持ち出されるのが興味深かった。 社会を個人の集積とみなすスペンサーへの反論の中で、個人意識への外部からの圧力こそが社会の本質であると喝破するデュルケームだが、ここに宗教(カトリック)という重しを失った当時の社会に対する危機感が見て取れると思う。デュルケームによれば、全体(全体)は単なる部分(個人)の総和ではない。個人を超えた結合・連帯が社会を形成しているのであり、このことを「拘束」という形で保証していたのが例えば宗教などの外部性であったのだ。訳者あとがきではこのことを裏返して、社会的結合を志向する不断の努力こそが個人を社会に統合づける力であるとされている。 デュルケームが活躍した19世期後半というのは、従来型のカトリックによる社会的統制が崩れ、資本主義経済によるコミュニティ解体が猛威を奮い始めた頃だった。そうすると、社会を統合する何ものかに対する希求の高まりという意味では、現在と当時は共通するところが多いのかもしれない。 なお本書の訳としては岩波文庫版が定番とされているようだが、この講談社学術文庫版はこの手の翻訳としては驚くほどこなれていて読みやすい。訳出者の相当な苦労の賜物なのかもしれないが、僕のような初学者にとっては誠にありがたい話だ。
断捨離前の再読 5年前、コロナで強制帰国となった後の隔離期間中に読んだ本。 p.237 『この方法は、社会学への入門の前提条件として、これまで習慣的に用いてきた物の見方を破棄し、新たに苦労して考え直すよう人々に要求するのだから、多数の顧客の獲得など期待すべくもない。しかし、われわれの企ての目的は、...続きを読む多数の顧客の獲得ではないのだ。むしろ、反対に、社会学がいわゆる世俗的な成功を放棄して、およそ科学というものにふさわしい秘数的な性格を獲得すべき時期が到来していると思われるのだ。こうして社会学は通俗的な人気においておそらく失うものを、威厳と権威において取り戻すであろう。』
お互いに似ているからという理由で連帯する社会がある。部族社会。村社会。個人は個性を持たず社会に埋没。全体の価値・信念に従う。分業はあまり進んでいない。ある無機物の固体はたくさんの分子から構成されるが、それぞれの分子は個性的な活動はしない。それに似ている▼一方、お互いに違うからという理由で連帯する社会...続きを読むもある。個人はそれぞれ個性があり、得意・不得意がある。それぞれの活動はお互いに依存している。分業が進んでいる。個人はそれぞれ、お互いに依存している生物の臓器たちのよう。このような社会では、それぞれの個人が違っているからこそ連帯が生まれる。個人の人格を尊重することが大切になる▼社会の側が、個人の人格尊重を求めている。まず社会ありき。エミール・デュルケームDurkheim『分業』1893 社会的なもの。個人にとって外在的で、個人の行為・思考・感覚を拘束・規定する。全体は部分の総和ではない。個人の意識を外から束縛する規範・思考・習慣・法則(社会的事実)。いかなる個人にも還元できない集合表象。まず社会ありき。※個が社会を作るという意味で人間は社会的存在であり(Weber)、社会が個を作るという意味で人間は社会的存在(Durkheim)。エミール・デュルケームDurkheim『規準』1895 自殺は個人だけの問題ではなく、規則性がある。戦争時は自殺が減る。カトリック・ユダヤの方がプロテスタントよりも自殺率が低い。既婚者は未婚よりも自殺率が低い。仲間意識・結びつき・連帯は自殺を防ぐ。自分の居場所を失う、アイデンティティを喪失すると自殺につながる。自殺は個人の病だけでなく、社会の病。自殺はプライベートな現象だけでなく社会現象。自殺は社会状態の反映として、個人に現れたもの。自殺・犯罪・非行▼集団(軍隊)への忠誠心・連帯が強すぎると、個よりも集団が優先され、個の価値が低く感じられるようになり、自殺する。一方、友達いない。家族いない。つながりがない。連帯が弱い孤独な個人は自殺する。生の目標をもたらす社会から切り離され、個人は自分自身の運命の支配者となる。集団とのつながりが濃密すぎても自殺が起きるし、集団とのつながりが希薄すぎても自殺が起きる▼昔は階級ごとに追求できる欲求が制限されていたが、徐々に平等になってくると「これやりたい。あれやりたい」と欲求が大きくなる。欲望が過度に肥大化。「お前は農民の子なんだから諦めろ」では納得できない。しかし欲求は実現するとは限らない。焦燥感がつのり、欲求不満・挫折感を感じる。自分は価値のない人間だ。社会に幻滅。目標を喪失。虚無感。自殺する▼社会的規律の働きが衰退・崩壊した状態。無規制。法がないこと(アノミー)。急的な社会変化によって生じる欲求・価値の攪乱(混乱)状態。アノミー尺度(L.スロール)。社会の指導者は個人の欲求に関心を持ってないと思う。この社会は予測できない無秩序な世界だと思う。生活の目標が後退している。無力感を感じる。仲間からサポートを期待できない▼国家とバラバラの個人の間の中間団体(職業団体など)が人々に道徳的な連帯感をもたらす。エミール・デュルケームDurkheim『自殺』1897
どういった観点で「社会」を見なければならないか、どの様は基準を設けるべきか、あるいは設けてはいけないかを論じている。西洋的価値観に基づく観点を捨て、その事象を一つの事実として認めるよう訴えている。ある社会では悪徳とされることであっても、別の社会においては称賛される行為があるとき、称賛される社会を...続きを読む異常や例外とするのではなく、その事実を受け止め、なぜそのような違いが生じたのかを検証することこそが「社会学」となる、ということである。これを主軸として、通俗的な物の見方を改めることを勧め、暗黙の了解で使っていた様々な言葉に対してきちんとした定義を与えることを求めている。また、思い込み、決めつけ。そうでなければならないという態度を戒めている。哲学の延長線上、あるいは哲学の一部であった「社会」の研究を、「社会学」という学問へと昇華させたきっかけとなった著作であるが、事実を事実として受け止めることの難しさも見て取ることができる。
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社会学的方法の規準
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エミール・デュルケーム
菊谷和宏
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