菊谷和宏の作品一覧
「菊谷和宏」の「「社会」のない国、日本 ドレフュス事件・大逆事件と荷風の悲嘆」「社会学的方法の規準」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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「菊谷和宏」の「「社会」のない国、日本 ドレフュス事件・大逆事件と荷風の悲嘆」「社会学的方法の規準」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
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Posted by ブクログ
山口周がXdeおすすめしていて購入。久しぶりに社会論的な本を購入したが、今までなんとなくぼんやり考えていた「社会」という概念が、人類の文明化の歴史の中で、血と涙の過程で育まれていったことを始めて学び、自分のこれまでの知識のなかではまったく新しい発見・発想で、新鮮だった。
恥ずかしながらドレフュス事件も大逆事件も名前を聞いたことがあるというくらいで、内容をほとんど知っていなかったが、事件の全貌や、それを取り巻く主義主張、そしてそれがフランスと日本それぞれでいかに異なる過程・結果を迎えたのか、そしてそれを象徴事例として、社会とは、他者が他者であると認め、尊重し、愛する、意識的な個人の集まりである、ということが浮き彫りにされる。非常に面白い書籍だった。
Posted by ブクログ
「社会的事実」とは、個人に外的拘束を及ぼしうる行為様式であり、それ個人から独立した存在性を持つ。
「社会的事実」は、物として扱わなければならない。つまり、観念や意識から独立した、科学の対象となる客観的な物として。
このように社会学固有の対象としての「社会的事実」の概念を打ち出した本書は、社会学確立の記念碑である。
社会的事実について、規範から外れるかもしれないことを企図すると個人は強い心理的抵抗を受け、それを実行に移すとしばしば現実的抵抗を受ける。個々人を超えた「かのような」社会的な拘束性はたしかに感じられる。
そのような個人に還元できない「社会的事実」の概念を打ち出した功績は大きいのだが、あくまでも「擬制」として有益なのであって、デュルケムのように「実在」としての側面を強調することにはためらいがある。
やはり実在するのはあくまでも個々人であり、社会的な現象はあくまでも個人と個人の関係性で理解を試みなければならないようにも思う。
もちろん、それには労力がかかりすぎるので、マクロな現象を永遠に論じれなくなる。それを乗り越えるための技術として社会的事実の概念は必要かもしれない。だけど、個人から説明できるものはそのようにすべきだろう。それではどうしても説明のつかない場合に社会的事実のような概念に頼る方がよい。
デュルケム自身も個々人の心理には還元できない現象を示した上で社会的事実の実在性を論じれば説得的だが、彼のわずかに示した実例では論拠が弱い。
あとがきを読むと、そもそも「個人」を観念しうるのは「社会」(2人以上の人の共在)があるからであり、その意味で個人の実在と同じレベルで社会も実在するというのも、観念的には理解できる(この「個人」は個体とは異なる)。ただし、それも言葉の問題であるし、デュルケムがそのような意図なのかは分からない。
Posted by ブクログ
「社会はなぜ右と左に分かれるのか(ジョナサン・ハイト著)」で保守の道徳的源流として幾度となく引用されていたデュルケーム。そこでは、道徳がもたらす規制が人間をして協力的な社会の構築を可能にする、道徳の機能主義的な描写がなされていた。直後に読んだ「現代経済学の直感的方法(長沼伸一郎著)」ではデュルケームへの直接の言及こそないものの、現代資本主義の閉塞を打破する契機として、宗教や愛国心などの「大きな物語」による伝統的社会の保存の必要性が説かれており、デュルケームのいう紐帯としての宗教のアイディアとの共通点を感じた。こうして、永らく読もうと思いながら躊躇していた本書を読む機会がようやく到来したのだった。
まず本書を読み始めて最初に目につくのは、先行するオーギュスト・コントとハーバート・スペンサーの社会研究への辛辣な批判だ。社会をひたすら記述的・方法論的に扱うことを良しとしていたデュルケームは、コントらの観念的・規範的な物言いを「予断」だとして断罪している。急速に進む近代化と進化論を背景に、人間の精神がいかに近代へと進化してきたかを通時的に論じたコントらだが、デュルケームにしてみれば、社会を「物」として直接扱うのではなく主観的な「観念」を議論の対象とすることが、いかにも隔靴掻痒なものに思えてしかたなかったのだろう。なお「物として」の社会とは直観的にやや理解し難い概念だが、第二章の犯罪と刑罰のアナロジーにあるように、概念の外的な現れとしての可感的な客観を指すものであるらしい。
デュルケームの方法論の肝は、哲学がタイプとして、歴史学がトークンとして扱ってきた社会種を統合的に扱うことにあるようだ。まず最も単純な社会を基礎として、各社会の統合の度合いに応じて社会を分類する。そしてそれぞれの社会を科学的に説明する方法論として、予断に流されがちな目的論(「何のために」)ではなく、その機能(「何をしているか」)に基づいて社会現象を評価する機能主義が提唱されるのだ。個人的にはここでアリストテレスの始動因が持ち出されるのが興味深かった。
社会を個人の集積とみなすスペンサーへの反論の中で、個人意識への外部からの圧力こそが社会の本質であると喝破するデュルケームだが、ここに宗教(カトリック)という重しを失った当時の社会に対する危機感が見て取れると思う。デュルケームによれば、全体(全体)は単なる部分(個人)の総和ではない。個人を超えた結合・連帯が社会を形成しているのであり、このことを「拘束」という形で保証していたのが例えば宗教などの外部性であったのだ。訳者あとがきではこのことを裏返して、社会的結合を志向する不断の努力こそが個人を社会に統合づける力であるとされている。
デュルケームが活躍した19世期後半というのは、従来型のカトリックによる社会的統制が崩れ、資本主義経済によるコミュニティ解体が猛威を奮い始めた頃だった。そうすると、社会を統合する何ものかに対する希求の高まりという意味では、現在と当時は共通するところが多いのかもしれない。
なお本書の訳としては岩波文庫版が定番とされているようだが、この講談社学術文庫版はこの手の翻訳としては驚くほどこなれていて読みやすい。訳出者の相当な苦労の賜物なのかもしれないが、僕のような初学者にとっては誠にありがたい話だ。
Posted by ブクログ
なかなかの力作。ゾラと幸徳秋水のあいだに永井荷風を挟んだことで、著者の<日本には社会(コンヴィヴィアリテ)がない>という主張がより立体的に、説得力をもって展開されているように思う。
あえて蛇足を言わせてもらえば、福沢諭吉の<古来の因習に国家という文字あり。この家の字は人民の家を指すにあらず。執権者の家族または家名という義ならん。故に国は即ち家なり、家は即ち国なり。甚だしきは政府(幕府、明治政府‥)を富ますを以て御国益などゝ唱うるに至れり。‥‥古来、日本においては政府と国民とは唯に主客たるのみにあらず、あるいはこれを敵対と称するも可なり、‥‥これを同国人の所業というべからざるなり>(『文明論の概略』巻之五 第九章)という一文を頭に入れて読むと、著者の言わんとするところがより鮮明に理解できるように思う。
福沢に言わせれば、本来<知>と<理>の領域である<国>と、<情>の領域である<家>という本来両立しえない語をあえて混同するところに、日本の政治や社会の特徴、性格が凝集されているというのである。
本文中に山縣有朋の密奏が紹介され、そのなかで<国家>ではなく<家国>という穂積八束のゴマスリ的な語が使われているが、これも国家という言葉のもつ曖昧性、功利性を逆用したもので、大逆事件もこのような政治風土が生み出したものなのである。
フランス革命後のフランス社会は少なくとも<朕は国家なり>というような国家ではなく、<国>と<家>を分離するという共通理解がある程度までは浸透しており、そこからドレフェス事件と大逆事件に対するそれぞれの社会の対応の差が生じてきたといえよう。
Posted by ブクログ
断捨離前の再読
5年前、コロナで強制帰国となった後の隔離期間中に読んだ本。
p.237
『この方法は、社会学への入門の前提条件として、これまで習慣的に用いてきた物の見方を破棄し、新たに苦労して考え直すよう人々に要求するのだから、多数の顧客の獲得など期待すべくもない。しかし、われわれの企ての目的は、多数の顧客の獲得ではないのだ。むしろ、反対に、社会学がいわゆる世俗的な成功を放棄して、およそ科学というものにふさわしい秘数的な性格を獲得すべき時期が到来していると思われるのだ。こうして社会学は通俗的な人気においておそらく失うものを、威厳と権威において取り戻すであろう。』