【感想・ネタバレ】「社会」のない国、日本 ドレフュス事件・大逆事件と荷風の悲嘆のレビュー

あらすじ

20世紀初頭に日仏両国に勃発した二つの事件。冤罪被害者は、なぜフランスでは救われるのに、日本では救われないのか? 二大事件とそこに関わった人々のドラマを比較し、日本に潜む深刻な問題が白日の下にさらされる。「日本」という国家はなくても、日本という「社会」は存在できる。永井荷風の悲嘆を受けて、「共に生きること(コンヴィヴィアリテ)」を実現するための処方箋を示す、日本の未来に向けられた希望の書。(講談社選書メチエ)

...続きを読む
\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ

 なかなかの力作。ゾラと幸徳秋水のあいだに永井荷風を挟んだことで、著者の<日本には社会(コンヴィヴィアリテ)がない>という主張がより立体的に、説得力をもって展開されているように思う。
 あえて蛇足を言わせてもらえば、福沢諭吉の<古来の因習に国家という文字あり。この家の字は人民の家を指すにあらず。執権者の家族または家名という義ならん。故に国は即ち家なり、家は即ち国なり。甚だしきは政府(幕府、明治政府‥)を富ますを以て御国益などゝ唱うるに至れり。‥‥古来、日本においては政府と国民とは唯に主客たるのみにあらず、あるいはこれを敵対と称するも可なり、‥‥これを同国人の所業というべからざるなり>(『文明論の概略』巻之五 第九章)という一文を頭に入れて読むと、著者の言わんとするところがより鮮明に理解できるように思う。
 福沢に言わせれば、本来<知>と<理>の領域である<国>と、<情>の領域である<家>という本来両立しえない語をあえて混同するところに、日本の政治や社会の特徴、性格が凝集されているというのである。
 本文中に山縣有朋の密奏が紹介され、そのなかで<国家>ではなく<家国>という穂積八束のゴマスリ的な語が使われているが、これも国家という言葉のもつ曖昧性、功利性を逆用したもので、大逆事件もこのような政治風土が生み出したものなのである。
 フランス革命後のフランス社会は少なくとも<朕は国家なり>というような国家ではなく、<国>と<家>を分離するという共通理解がある程度までは浸透しており、そこからドレフェス事件と大逆事件に対するそれぞれの社会の対応の差が生じてきたといえよう。

0
2015年10月11日

「社会・政治」ランキング