869
288p
植村 和秀
京都市生まれ。京都大学法学部卒業。京都大学法学部助手を経て、現在、京都産業大学法学部教授。国際日本文化研究センター共同研究員、奈良県立大学ユーラシア研究センター客員研究員を兼任。研究分野は、日本政治思想史、比較ナショナリズム論。
ナショナリズム入門 (講談社現代新書)
by 植村和秀
ナショナリズムを理解するために、まずはネイションの作り方を考えてみます。ネイションがなければ、ナショナリズムもないからです。そこで最初に、さまざまな事例に共通する一般的な作り方を検討してみましょう。
竹島問題や尖閣諸島問題であれば、その争いがさらに、対馬や沖縄へのこだわりに広...続きを読む がっていくのではないか。このような深刻な懸念が日本側にありますし、これはもっともな懸念です。国家の境界線は力関係で変わります。そしてネイションの境界線は、意識の持ち方で変わります。そのため世界各地で土地争いは絶えませんし、その争いによってネイションが活力を得るのも、よくあることです。だからこそ、ネイションとネイションの争いは、先手を打って暴発を予防することが何よりも重要となるのです。
なお、ネイションが歴史的に形成されるということは、ネイションが変わりうるということであって、ネイションが虚偽であるということではありません。歴史は、水に流せるものではありません。ネイションが歴史的に形成されたというのは、その歴史を踏まえなければ新しい歴史は作れない、ということです。批判なしに新しいものは作れませんが、いくら批判しても、ネイションの歴史をなかったことにはできません。本書は、そのような立場で分析しています。
例えば台湾は、ネイションでしょうか。台湾というまとまりは、歴史的に形成され、その存在はそれなりに認められています。日本から台湾に観光に行けば、韓国やタイに行くのと同じ感覚で楽しめます。しかし中国側からすれば、台湾はあくまでも中国ネイションの一部である、となっています。中国はしっかりと認められたネイションですが、台湾はまだ未定形です。台湾がネイションであるかどうかは、今後の歴史の中で、はるかに多くの認知を内外で獲得できるかどうかにかかっています。
例えばイスラームには、ネイションという狭い枠組みを乗り越えて、世界宗教として真に人類的なものであろうとする意欲があります。また、中世ヨーロッパで隆盛を誇ったブルゴーニュ公国は、歴史の影の中へ消えてしまってネイションになりませんでした。世界の歴史地図帳をながめてみれば、このような例は多くあります。
いずれにせよ、文化と国家がネイション作りの二本柱となってきたために、ネイションへのこだわりは、それらの優劣を他と競うことになりがちです。隣の家どうし、自分のところの柱を自慢しあうようなものです。そしてその競い合いが敵対となり、互いの文化や国家への批判、軽蔑、中傷となるにつれて、ネイションとネイションの対立は燃え上がっていきます。敵対するネイションを弱らせるには、柱に打撃を与えることが非常に有効だからです。
ネイションの作り方は、ネイションの壊し方でもあります。しかしまた、壊し方は守り方も教えてくれます。壊されて困るところを重点的に守ればいい、ということです。すなわち、ネイションの文化と国家を守ることが肝心ということなのですが、守りに入りすぎると、後ろ向きで内向きのナショナリズムとなる危険性が高まります。それでは結局、ネイションのエゴイズムを守るだけになってしまいかねません。ネイションの破壊は決して望ましいものではありませんが、ネイションのエゴイズムには、人間の創造性を枯渇させたり、世界を破壊したりする危険性があります。
しかも、「祖国」という日本語には、先祖への愛着も込められているように思います。そして、そこで想定される先祖は、自分の直系の先祖に限定されるわけでもないのです。もちろん、故郷の広さは感覚次第ですし、先祖の全員は誰にもわかりません。狭く限定すべき理由も実は薄弱なのであって、広く考えるのが不合理というわけではありません。その広がりが日本という単位で強く限定されるところに、日本というネイションへのこだわりが見出せる、ということです。中山が「祖国」と言うのは、日本ネイションと読み替え可能なのであり、ここにネイションへのさまざまな思いが込められているのです。
このような思いが寄せられる日本ネイションは、何によって形成されたのでしょうか。日本ネイションは、日本文化と日本国家によって歴史的に形成されてきました。文化的にはとりわけ、日本語の形成と普及、日本語を用いた日本文学の発達と普及が重要です。日本化された世界宗教、とりわけ仏教の展開もきわめて重要ですし、これはむしろ日本宗教という名称で把握した方がいいのかもしれません(久保田展弘『日本宗教とは何か』、二六二頁)。そして国家的にはとりわけ、皇室と日本国家の歴史が重要です。それはまた、日本国家の制度の普及と持続の歴史でもあります。これらの要因はすべて、日本ネイションを形成する働きをしていきます。
もちろん、これは結果論です。歴史には、異なる可能性もあったかもしれません。また、日本的と見るから日本的に見えるのであって、昔の人や出来事は、必ずしもそのような意識や意味を持たないこともあるでしょう。しかしいずれにせよ、日本ネイションは歴史的に形成された上で現在にまで至っています。…
さて、日本ネイションの形成は、文化的にも国家的にも非常にわかりやすい事例であると思います。そしてその結果、日本ネイションは安定性に強みを持ち、世界性に弱みを持つこととなりました。日本では国家と国民と民族が一致するという…
日本国家に日本国民が暮らし、日本国民は日本民族である。このような自己理解は正確ではありません。日本民族は日本国外にも多く暮らしています。それは今日のみならず、明治以降の昔にも意外なほど大規模でした。各地に暮らす移民や居留民の問題は、中華民国との戦争の原因の一つともなれば、アメリカとの戦争の原因の一つともなりました。満洲事変の推進力の一つは、現地に暮らす…
しかし昭和戦前期に入ると、明治の解放感がすっかり失われてしまいます。積み重なる閉塞感の中で、ネイションにこだわる人々は、ネイションの異物と感じる有力者への襲撃を頻発させていきます。それは、一体性へのこだわりのためです。五・一五事件の首謀者の一人である 三上 卓 は、決起の 檄文 に「日本国民よ! 刻下 の祖国日本を直視せよ」と記し、以下のように続けています。 「政治、外交、経済、教育、思想、軍事、何処に皇国日本の姿ありや。 政権党利に 盲 ひたる政党と之に結 して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧制日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育と腐敗せる軍部と悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と……
熱烈なナショナリストであった犬養は、それゆえ民権にも憲政にも熱心で、進取の気性を晩年まで持ち続けていました。婦人公民権運動に尽力した 塩原 静 によれば、犬養はこの運動に支援を約束し、若い塩原の素朴な問いに答えて、政治とは「貧乏人をなくすことだ」と、首相官邸の食堂で力強く語ったそうです(「翻刻 塩原静『犬養木堂先生』・『犬養千代子刀自』」)。
それでは日本へのこだわりは、どうなったのでしょうか。敗戦によって軍事的に弱体化した日本国家は、アメリカとの同盟による保護の下で、内向きになります。あるいはむしろ、内向きでいても安定していられる時代を迎えます。そして、そのような日本の官民に浸透したのが平和主義でした。 波多野 澄 雄 氏によれば、「平和憲法を遵守し、平和国家の道を歩むことが『過去の戦争』の清算につながるという論法は、一九五〇年代から続く政府の一貫した答弁パターン」であり、そのような考え方は日本国民にも広く浸透していったのです(『国家と歴史』、二五九頁)。
これはいわば、平和へのこだわりです。このこだわりのすべてを戦後日本のナショナリズムと呼ぶのは正確ではありません。しかし、平和そのものへの愛着よりも、平和な日本への愛着に重点が置かれる場合に限れば、わたしはあえてそう表現してみてもいいように思います。現在、中国や韓国による日本批判が日本国内で反発を高めていますが、それは軍国主義復活という非難によって、平和な日本へのこだわりが侮辱されたと感じられることも大きいのではないでしょうか。
もちろん、政治の中心地が文化や経済の中心地と別にあることは不思議ではありません。さらにまた、東西ドイツの分断がここでも影を落とし、自由に旅行できた旧西ドイツ地域が、ドイツの風景イメージとなっていることも否めません。ただ、それにもかかわらず、ベルリンはあえて言えば風変わりなドイツです。より正確には、ベルリンを首都としたプロイセン王国がドイツ・ネイションを国家的に形成したから、ベルリンがドイツの首都となったのです。そしてそれは、主に一九世紀以降のことになります。
なお、ドイツ文化を堪能したければ、オーストリアのウィーンを訪ねるという旅行もありえるでしょう。また、 鄙びたドイツの農村文化に接したければ、スイスのドイツ語地域を訪れることも考えられます。しかも、文学、芸術、学問の担い手として、あるいは出版や後援などを通じて、多くのユダヤ系の人たちがドイツ文化を支えてきました。ドイツ文化と言うべきか、ドイツ ユダヤ文化と言うべきか、考えてみる必要があるほどです。
まず国家の側から、ドイツ・ネイションを考えてみます。そこで直ちに問題となるのは、ドイツの国家はどれなのか、ということです。日本の事例と違って、ドイツの国家と呼びうるものはたくさんあります。そのため、国家にこだわりを持つ場合、どの国家を選ぶのかが最初の課題となります。そしてさらに、複数の国家が存在することこそドイツ的である、とのこだわりを持つ人もいましたし、個別国家の上位に国際的な帝国や連邦があり、こちらにこだわりを持つ人もいて、ドイツ・ネイションの国家的形成は、一八七一年の統一まで複雑な様相を呈していたのです。
そして文化的なものは、ドイツ・ネイション形成の足を引っ張りもしました。キリスト教の宗派対立です。宗教改革によってヨーロッパのキリスト教徒たちの間に分裂が生じ、カトリックとプロテスタントの信者たちが激しく対立していきます。この宗教改革の中心地となったのが現在のドイツですが、ここでの宗派的勝者はありませんでした。ちなみに現在のドイツ国家においても、カトリックとプロテスタントの信者数は拮抗しています。
ちなみにヒトラーは、この文化的不毛性をユダヤ人の責任に帰しましたが、ユダヤ人こそは、ドイツの創造的文化を担い、また助けてきた人々でした。そのユダヤ人たちを壊滅させたヒトラーこそが、実は、ドイツ文化を決定的に破壊した張本人だったのではないでしょうか。
さらに挙げておくべきは、宗教的・擬似宗教的と言うべき反発です。これは非常にカルト的で、宇宙論やゲルマン的キリスト教の教義、人種理論やオカルト信仰などがもつれ合い、さすがに当初は周縁的な人たちの風変わりな主張に過ぎませんでした。ところが、第一次世界大戦以降の混乱期には、異様な主張が政治的影響を発揮していきます。人心が動揺すると、極端な主張が多くの人たちの心の中に忍び込んでくるのです。
これらはまた、ヒトラーの異常な言動をそれほど異常に感じない、あるいは、それほど深刻に受け止めない素地を作り出しました。ヒトラーは、ユダヤ人にさまざまな不満や反発を集中させ、そこからヒトラー流のドイツ・ネイション再形成を実行しようとしたのです。その経緯はジョージ・モッセが、『フェルキッシュ革命』という本の中で見事に描き出しています。
そもそも、「ドイツ」という呼び名がネイションの名前となるためには、その自明性を高めねばなりませんでした。そうでないと多くの人たちに認知してもらえず、巨大な人間集団のまとまりがつかないからです。多すぎるドイツは一本化されねばならず、そのためにはドイツ帝国の国境線はわかりやすい指標でした。それは、ドイツの内容と輪郭を固めていく効果を発揮したのです。しかしそれはまた、ドイツの多様な豊かさを切り捨てるものでもありました。その名残りを思い切るほどの時を待たずに、ドイツ帝国は滅亡します。半世紀弱という時間はあまりに短く、ドイツの形は固まりきらなかったのです。
その再形成の主導権を握り、破滅をもたらしたのは、ハプスブルク帝国の一人の臣民でした。ドイツ帝国にとっては外国人であったアドルフ・ヒトラーは、多くのドイツ人の運命を自己の運命に巻き込みながら、破滅へと導いていきます。そしてその中で、ドイツ・ネイションは根本的に再構成され、ドイツの形は質的に変化させられるのです。
さて、ヨーロッパを語るときに、西の方を西欧、東の方を東欧とよく呼びます。ヨーロッパの西と東では歴史的な相違が多く、このような分け方にはそれなりの根拠があります。ただし、現在では西欧東欧ともに、その大半の国家がヨーロッパ連合に加入していて、西も東も自由に移動できるようになってきています。その結果、ヨーロッパ連合のヨーロッパ人にとって、西と東の相違は少なくなってきているかもしれません。
それでは、ネイションの東欧的特徴と西欧的特徴とは何でしょうか。一般的に、東欧のネイションは文化的、西欧のネイションは政治的な特徴を強く持つと理解されてきました。それは、近代国家の形成にナショナリズムの形成が先立つ東欧と、近代国家の形成後にナショナリズムが形成された西欧との歴史的な相違に関連する、とも理解されます。ネイションへのこだわりの中身が、東では主に文化によって形成され、西では主に国家によって形成された、という理解です。
地域単位のネイション形成では、そこに暮らす多様な人々が地域の色に染められていきます。これに対して人間集団単位のネイション形成では、人間集団が自分たちの暮らす地域を自らの色に染めようとしていきます。その染め方が平和的でも暴力的でもありえることは、両者共通です。また、東欧に地域単位の形成がないわけではなく、西欧に人間集団単位の形成がないわけではありません。ここで分けているのは、どちらの形成が主流となったかを示すためであり、実際のネイション形成では両者が複雑に関係していきます。
この相違の理由については、さまざまな事情を指摘することができるでしょう。ヨーロッパの西では島や半島が多く、海に囲まれた陸地がネイション形成に好適です。これに対して東では、陸地が大変分厚くなり、大陸的な広さを持っています。例えばポーランド南東部、ウクライナやスロヴァキアに近いガリツィア地方に行きますと、大地はうねりを持ってどこまでも続いていきます。しかもその東はロシアや中央アジアへと続き、果てしない遠さを実感できるのです。
つまり、人間集団単位でのネイション形成は、当該地域を支配する国家の性格に関連しているのです。しかも、巨大な帝国は移民を積極的に受け入れることもありました。土地が狭く人口の多い西欧から、土地は広いが人口の少ない東欧へと多くの人々が移住し、東欧各地の有力者も、さまざまな優遇条件を提示して移住を歓迎しました。宗教的理由により迫害を受けた人々も、往々にして東方に活路を見出していきます。そしてますます、東欧は多様な人間の暮らす地域となり、ヨーロッパの東は、いわば東方のアメリカのような地域となったのです。
しかし東欧は、アメリカのような合衆国にはなりませんでした。それどころか、二〇世紀前半には大規模な破局を迎え、それまでの歴史との断絶を経験することとなります。近代国家との相性が悪い人間集団単位のネイション形成が、近代国家なくしては集団としての存続が危機にさらされる事態に直面したとき、破局が到来したのです。
その結果、ポーランド国家はドイツ人とリトアニア人とウクライナ人、チェコスロヴァキア国家はドイツ人とハンガリー人(マジャール人)、ルーマニア国家はドイツ人とハンガリー人も支配することとなりました。諷刺作家のヤロスラフ・ハシェクは、ソ連からチェコスロヴァキアへと帰還する途中、一九一九年のエストニアで見た光景をこう描いています。 「私はロシアからの帰還者たちの一団に加わった。 旧オーストリーのびりびりに裂けた灰色の軍服、あの六年間に色あせてしまった『リュックサック』、かつての帝国を構成していたすべての民族の声と言語のアマルガム。(中略) 隔離収容所の──といっても古い城のことなのだが──門の上には、ハンガリー語とドイツ語の看板しか出ていない。 ありとあらゆる非スラヴ民族の国旗。(中略) 城内の大きな中庭で、民族ごとの選別がはじまる。どこかの紳士がドイツ語で叫ぶ。『ハンガリー共和国の市民のみなさんは、左へ、オーストリー共和国の市民のみなさんは、右へ、チェコスロヴァキア共和国の市民のみなさんは、中央へ、ルーマニアの市民のみなさんは、門のところへ!』
そして、その変化が人間の心に残した傷は、マルセル・ライヒラニツキという著名な文芸批評家の回想録にも現れています。ポーランドで生まれ、ドイツ国家にユダヤ人として殺害されかけ、共産主義体制のポーランドから西ドイツに脱出し、ドイツ文学の批評で活躍してきたライヒラニツキは、「あなたはいったい何者」と聞かれたり、「自国を語る」講演を頼まれると、深く深く考えこまざるをえなかったのです(『わがユダヤ・ドイツ・ポーランド』、九~一〇頁)。
この東欧においてネイションの一員の主たる指標となったのは、よく指摘されるように文化的なものでした。とりわけ言語と宗教です。ただし、複数の言語を話す人間は多くいましたし、何よりも、言語を区別し分類する基準そのものが必ずしも明瞭ではありません。例えば、チェコ語とスロヴァキア語が違う言語である根拠は、よくわかりません。他方、キリスト教の場合であれば、本来は特定の人間集団に限定される信仰ではないはずです。言語や宗教は人間を分類するために、形成されてきたものではないからです。
しかし、それにもかかわらず線引きの基準が必要となります。言語や宗教は、そのために転用されやすい、ということです。ちなみに、地域単位のネイション形成の場合には、近代国家の国境線がこの線引きに好適です。これに対して人間集団単位のネイション形成の場合には、この線引き自体がネイションの勝負所となります。例えば民族分布地図は、国境線とは異なる線をわかりやすく示してくれますが、実はその作成者は、往々にして熱烈なナショナリストなのです。
ラングハンスは優秀な地図製作者であり、そして熱烈なドイツ・ナショナリストでした。彼の同志たちもそうです。ちなみに、この雑誌の副題は、『全ての場所、全ての時代におけるドイツ 民族 を知るために』というものでした。その編集同人に共通するのは、ドイツ人に対する国境を超えたこだわりなのです。
とはいえ、ドイツ人の生活の危機は現実に存在していました。新設のポーランド国家の領土からは、ドイツ人が続々と脱出していましたし、オーストリア国家は、ドイツ国家との 合邦 を戦勝国によって禁止され、生活の目途が立たない苦境に陥っていました。チェコスロヴァキア国家やルーマニア国家の国民となったドイツ人は、かつてと異なり、あらゆる意味で脆弱な立場に置かれています。東欧各地で、国家を掌握した人間集団が、急速に他の人間集団を圧倒していったのです。
そしてこの政治的敗者という運命を共有することによって、「ドイツ人」へのこだわりは、政治的重要性を急速に増していきます。共通の政治的運命が、文化的な共通性を政治的なものに、ひいては運命共同体的なものに変化させていったのです。それは、ドイツ国家のドイツ人と東欧のドイツ人が、一つのネイションへと再形成される過程に他なりませんでした。ビスマルクによるドイツ帝国の建設によって、ひとまずは国家的にネイション形成していったドイツの事例は、ここに至って文化的な再形成へと進んでいきます。その進行の末に破局をもたらしたのが、東欧のドイツ人であるアドルフ・ヒトラーだったのです。
ヒトラーは一八八九年にハプスブルク帝国で生まれました。現在はオーストリア領であるブラウナウの出身です。ドイツ帝国国民ではなかったのですが、第一次世界大戦の際には、なぜかドイツ帝国の軍隊に志願して従軍しています。やがて一九三二年にドイツ国籍を取得して、まもなくドイツ国家の最高権力者となりました。…
ネイションの視点からしますと、ヒトラーは、戦間期のドイツ・ネイションの異議申し立てを象徴的に体現する人物でした。ヒトラーは国外ドイツ人として初めて、ドイツ本国の最高指導者となり、ドイツ人…
ヒトラーが行なったのは、ネイションの東欧的状況の暴力的再編でした。ヒトラーは、バルト海沿岸地域や黒海近辺に暮らすドイツ人たちに、自己の支配地域である「本国」への帰還を命令します。ドイツ人であるという理由によって、見たこともない「本国」へと人間を回収したのです。これによって、当該地域の散在と混住の状況には大…
また、国境線の変動がまったくなかったわけでもありません。ソ連と東ドイツの滅亡以外では、一九九一年以降のユーゴスラヴィア分裂、一九九三年のチェコスロヴァキア分裂がありました。ただ、わたしは一九九三年の八月に、チェコとスロヴァキアを旅行したのですが、道中は至って平穏でした。一月に独立したばかりのスロヴァキアで、チェコスロヴァキア時代の旧紙幣にスロヴァキアのシールを貼って流通させていたのが珍しかったくらいです。
ただし、同じキリスト教と言っても、ハプスブルク帝国がカトリックを奉じたのに対し、セルビア人の多くはセルビア正教の信者でした。セルビア正教会は東方キリスト教、あるいはギリシア正教と総称されるキリスト教の教会の一つです。セルビア・ネイションの形成にとって、このセルビア正教会は非常に重要な役割を果たしました。それは、信者たちの心の支えとなると同時に、カトリックやイスラームの信者たちとの相違を際立たせていったからです。
しかも教会は、往々にして文化の中心的な担い手となって、ネイションへのこだわりにその内容を供給する歴史的役割も果たしてきました。そしてセルビア正教会は、政治的に重要な役割も担いました。オスマン帝国領内のセルビア正教会が、「一定の自治権を認められる代償として、オスマン帝国に征服された地域のキリスト教住民とイスラームを奉じる帝国政府とのあいだの調停者の役割を担う」一方で、ハプスブルク帝国領内のセルビア正教会は、「民族解放運動の先頭に立ち、一八七八年の近代セルビア国家の建国に導いた」のです(同、七七~七八頁)。
そしてこの大同団結には、さまざまな事情がありました。ハプスブルク帝国とオスマン帝国への対抗、ハンガリーとブルガリア、イタリアへの対抗などです。しかしまた、この団結は根強いものではありませんでした。「一九世紀においても二〇世紀においても、ユーゴスラヴィア統一主義はクロアティア、セルビア、スロヴェニアのナショナリズムと緊密に結びついて」存在し、後者を消し去るほどにはならなかったのです(『東欧のナショナリズム』、三七一頁)。
そして米原も、友人がムスリム人だと言われて非常に戸惑います。記憶の中の彼女と、どうしてもイメージが結び付かないからです。その米原に、現地のジャーナリストはこう説明しています。 「米原さん、ご存じでしょう。ボスニア・ムスリムというのは、民族名ってこと。もちろん、イスラム教を信じている人が多いんだけどね。毎日、決まった時間にメッカの方に向かって拝んでるもの。でも、必ずしも、全員が信者とは限らない。日本人が全員神道を奉じているわけではないし、仏教徒ってわけでもない。だけど、生活習慣や儀式に染み込んでるでしょう。精神的なバックボーンになってる。そんなところかな……」(同、二五九頁)。
また、旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所の裁判官を務めた 多 谷 千 香子 氏は、「一部の政治家や軍人が、自己の権力拡大と蓄財のために、一般市民の恐怖を煽り拡大して『民族浄化』に利用したという構図であり、それは、どの民族でも驚くほど似ている」と指摘しています(『「民族浄化」を裁く』、一六七頁)。多くの人が恐怖や利害からネイションにしがみつき、ネイションへのこだわりは、力強さへと一気に傾斜したのです。
イグナティエフによれば、カナダ連邦の本質的問題は、「英語系カナダ人がカナダを『ネイション』であり 国家 であると考えているのに対し、フランス語系ケベック人が、ケベックを『ネイション』、カナダを国家と見なしていること」にあります(同、二一二頁)。そしてそれを、イグナティエフは大変悲しそうに、そして不満そうに語るのです。
現在のところ、ケベック側で最重要視されているのは、言語のように思われます。おおざっぱに言えば、英語の攻勢という危機感の中で、フランス語話者を増やすことが、フランス系入植者の血統よりも優先されたのです。しかもそれは、自由主義と民主主義と平和のために必要であると理論付けられています。自由で民主的な社会を平和的に作り続けていくためには、地域内に共通の言語が不可欠である、というのがケベック州政府の立場です(ガニョン他『マルチナショナリズム』、二二一頁)。
「社会のなかに様々なカウンター・ディスコース(対抗言説) を擁していること。そうしたディスコースが絶えず生み出されては、せめぎ合っていること。そして、それが許される〈自由〉。そうした〈自由〉を自己理解ないし運動律の核としている社会。それは、安易な烙印や批判を拒むと同時に、自らに足払いをかけながら、永遠に革命を続ける手強い社会でもある」(同、三四頁)。
アメリカのこのような特徴は、ナショナリズムの動き方としては、豊かさや多様性へのこだわりが特に強い事例として理解できるでしょう。もちろん、アメリカにおいても力強さや一体性へのこだわりが強烈にあることは、住民の選別の歴史でも明らかです。ただ、それでも繰り返し、アメリカでは前者への揺り戻しが生じ、ネイションとしての活力を失わずに持続してきました。アメリカだからそうなのだ、というのは、その内外で多くの人が認めることでしょう。
オスマン帝国の巨大さを背景に持つ二人は、トルコを小さく、しかし強いものに形成しようとしました。 粕 谷 元 氏によれば、アタテュルクは一九二〇年の大国民議会で、この議会を構成するのは、「トルコ人だけでもなく、チェルケス人だけでもなく、クルド人だけでもなく、ラズ人だけでもない。それらすべてから構成されるムスリム諸民族( islâmiye)」である、と語っています(酒井啓子編『民族主義とイスラーム』、一一九頁)。
アラブ人という人間集団単位でネイション形成が行なわれているのであれば、アラブ・ネイションは多くの国を持つ、と言えるでしょう。しかし、それぞれの国家が支配地域単位でネイションを形成しているのならば、エジプト・ネイションやイラク・ネイションなどがアラブの名で緩やかにつながっている、ということになるでしょう。これに対して、ネイションへのこだわりよりもイスラームへのこだわりが強いのであれば、ナショナリズムよりもイスラーム主義の方が重要である、ということになります。
それでは、アラブ人とはどのような人々でしょうか。 小杉 泰 氏は、イスラームの成立以前にはアラブ人の統一も統一国家もなかったが、共通の文化は持っていた、と指摘しています。それは、「アラビア語とアラブ人としての共通の系譜意識」です(『イスラームとは何か』、一七頁)。そしてイスラームという宗教がアラビア語に基づいて成立し、アラビア語は特別の言語となりました。ギリシア語でもパフラヴィー語(中世ペルシア語) でもなく、アラビア語にこだわらねばならない絶対的な理由が、七世紀に生じたのです。小杉氏は、アラビア語の変容を以下のように要約しています。 「しかし、イスラームはクルアーンを絶対的な唯一神からの啓示とし、それがアラビア語でアラブ人の預言者に下ったものとして、聖典はアラビア語でなければならないとした。アラビア語は、いわば聖なる言語となった。そして、これによって逆に、アラビア語はアラブ人の独占物ではなくなった。支配下の非アラブ人たちは、アラビア語を身につけることによってアラブ化し、自分たちがイスラーム帝国の主人公として参加するのみならず、アラビア語を文明語にすることに貢献することができたのである」(『イスラーム』、六四頁)。
さて、このようなネイションの作られ方はネイションへのこだわりと連動し、政治的な安定と不安定のダイナミズムを生じさせていきます。ここまでネイション形成の内部に注目し、そのせめぎ合いを見てきました。最後に次章では、ネイション形成の外部に目を向けて、ナショナリズムとナショナリズムのせめぎ合いについて検討してみましょう。
例えば、エストニアの事例を見てみましょう。エストニアはバルト海に面し、海の北側にフィンランド、東に陸続きでロシアが位置する小さな国家です。ロシア革命の混乱の中で独立を達成し、一九四〇年にソ連に滅ぼされましたが、一九九一年に独立を回復し、二〇〇四年にはヨーロッパ連合に加盟しています。首都タリンの街並みは美しく、落ち着いた北欧の風情があります。しかし、その最初の独立の際には、エストニアというネイションを認知してもらうことが大変難しかったのです。
王 柯 氏は、和製漢語の「民族」という日本語が、日本ネイションの事例に即した色合いを帯びていると指摘しています。王氏は、 志賀重昂 や 陸羯南 といった明治期の日本ナショナリストが、日本における民族と国民と国家の一致を高く評価した上で、民族という日本語を流通させたことに注意を促します。ちなみに志賀は、nationalityを国粋と呼び、その重要性を力説していました(『 20 世紀中国の国家建設と「民族」』、五八~六〇頁)。当時の日本は、満洲人が支配者である清帝国とは非常に異なる状況にあり、その中で「民族」という言葉は形成されていったのです。
しかしこのバランスは、欧米列強の本格的な東アジア進出の衝撃によって崩れることとなります。そして、朝鮮は独立した主権国家であるのかどうかが、政治的重要性を増していきました。平野氏によれば、明治維新以降の日本が朝鮮の自主性を主張して攻めるのに対し、清側は朝鮮の属国性を強調して守ろうとしました(『清帝国とチベット問題』、二四二~二四三頁)。朝鮮をめぐって、日本帝国と清帝国の国際政治上の駆け引きが繰り広げられるようになったのです。なお、国号にはさまざまな経緯とこだわりがありますが、ここでは大まかに使用しています。
「領土や領海をめぐる紛争は、当事者同士が自国は防衛的で正当であり、相手が間違っているとする。軍事力も、近代化と拡大の違いはきわめて曖昧であり、自分では防衛的と思っていても他国からは拡張的な意図があると見られてしまう。自国が指導的であれば地域秩序は安定すると考えていても、他国からはそうは思えない。米中、日中、日米間でもそれぞれ現状の定義は異なり、脅威感も異なる」(『歴史の桎梏を越えて』、二八八~二八九頁)。
このような日本の政治状況は、現在の中国の政治状況とは大きく異なっています。現在の中国には中国共産党があり、すべての政治勢力を横につなげて、共産党主導の政治を行なっているからです。ただ、上からの統制を強化すれば経済発展の前途が危うく、民主化を促進すれば下の不満の暴発が危うい状況ではあります。すでに共産党への信頼は根本的に揺らいでおり、国民の不満は膨大に蓄積してしまいました。共産党主導の政治を今後も進めていくのは、きわめて困難な道筋となります。
いずれにせよ、昭和戦前期の日本と現在の中国に共通して見えるのは、ナショナリズムの盛り上がりということです。第一章で紹介したフリードリヒ・マイネッケは、一九二四年に『近代史における国家理性の理念』という大著を刊行し、軍国主義とナショナリズムと資本主義の三つの力が合成されると、政治指導は翻弄されて国家は危機に陥ると指摘しました。それはヨーロッパ諸国と日本で二〇世紀前半に生じた現象だったのですが、現在の中国にも生じているように思います(植村和秀「昭和史の教訓と現在の中国」、七三頁)。
しかし短期的には、民主化はナショナリズムを燃え上がらせる危険性を持ちます。普通の人が政治に参加するということは、賢明な判断を何ら保証するものではないからです。そしてナショナリズムもまた、問題をてきぱき片付けていくようなものではありません。民主主義とは、自分たちのことは自分たちで決める、というだけのことですし、ナショナリズムとは、ネイションに肯定的にこだわる、というだけのことです。課題を解決する保証はどちらにもないのです。
そこで重要なのは、後ろ向き、内向きにならない、ということです。それでは結局、ネイションのエゴイズムを守るだけになってしまいかねません。ネイションの破壊は決して望ましいものではありませんが、ネイションのエゴイズムには、人間の創造性を枯渇させたり、世界を破壊したりする危険性があります。ネイションにしがみついたり、力強さや一体性にこだわりすぎると、未来を切り開くことができなくなる、ということです。
いずれにせよ、近代国家として今日理解されているものは、基本的に、主権国家であり国民国家であると思います。逆に言えば、そのどちらかに欠けるものがあると感じられる国家は、典型的な近代国家とは理解されにくい、ということです。
他方、個々人が自分のことは自分で決める、という自由主義の考え方からすれば、民主主義やナショナリズムとは緊張関係が生じやすいはずです。自由主義は個人の自由を好みますが、民主主義やナショナリズムは集団を尊重するからです。もとより、個人の自由が尊重されるという条件が認められれば、自由主義は民主主義やナショナリズムと手を組むことも可能です。ただしそれは、この条件が認められるかぎりは、という制限付きになります。
つまり、自由主義とはブレーキ役なのです。それは基本的には、個人の自由を守ろうとします。これに対してナショナリズムや民主主義は人間集団を動かそうとするアクセル役です。そして近代国家は、支配のための仕組みであり、いわば車体です。これらは、すべてうまく連動すれば、最も高速かつ安全に走っていける組み合わせであり、現代世界の先進国は、それぞれの流儀でこの組み合わせを実現しています。
しかし自由主義がなくなれば、ブレーキの利かない車となり、ついには自滅する、というのが二〇世紀の教訓だと思います。そしてその教訓を踏まえた上で、先進国に今暮らしている人間は、さらなる問いを発することができるでしょう。
しかし問題は、ここでの対立が無事に協調して落着できるものなのかどうか、ということです。主張の 百家争鳴 はネイションを豊かにする可能性を持ちますが、その一方で、まとまりを崩す危険性も持っています。まして、ネイションに接合する近代国家の権力が巨大化するとともに、その主導権争いは、現実の利害の争いとなります。また、そこまで行かなくとも、主張する人の数が増えるとともに、まとまりはつかなくなるでしょう。それを抑えたいのであれば、近代国家の権力を利用して強制的に一元化したり、共通の敵を作って何かを否定したりすることに意識の重点を移す、といった方策が考えられます。
「当初、近代的ナショナリズムの始まりから一九世紀の終わりに至るまで、優勢の傾向にあったのは、政治的な自己決定の追求であった。そこではナショナリズムは、多様な政治的、社会的、宗教的な態度を包含する柔軟性を保持していたのである。しかし、多くの人々が、ネイションを一個の市民宗教として認知し、世界をどう見るか、その中の自分たちの位置をどう見るかを定めるものとするようになるにつれて、一九世紀の終わり近くには、ネイションのいわゆる優越性と文化的自律性とがこの柔軟性に挑戦することとなった。こうして、例えばフランスの『統合的ナショナリズム』やドイツのフェルキッシュ・ナショナリズムは重要な足場を獲得し、それを踏み台にして、第一次世界大戦後に、それらは自己の権力の追求を加速化させえたのである」(Mosse, Confronting the Nation, p.1.)。
ネイションは、ターミナルのような機能を果たします。近代国家と民主主義、個人と近代国家はここで出会うことが多く、個人と民主主義もここでよく出会います。そして、ここでの人の動き方によって、ネイションへのこだわり方はずいぶん違ってきます。どれだけの人数が、豊かさや多様性へのこだわりに向かうか、それとも、力強さや一体性へのこだわりに向かうのかによって、ネイションの色合いが変わってくるのです。ナショナリズムは、こだわる人たちの流れによってその動きを変えていきます。
しかしまた、ネルーが述べたように、「ナショナリズムの要望が何であるか」を認識する必要がたしかにあります。例えばインドは、現在もインドとして存続し、発展しています。インドの形は基本的にはイギリス国家が作り出したものであり、現地の人が作ったものではありません。それにもかかわらず、インド・ネイションの歴史的形成は半世紀以上も進行し、インド・ナショナリズムは歴史の動力となっています。
ここには、ネイションの一員というこだわりが、人間を見失わせる危険を持つことへの警告が発せられているように感じます。もとより、この映画が映し出したアーレント解釈、あるいはアーレント本人の主張が、歴史的に見てどの程度妥当であったのかは丁寧に検討すべき課題でしょう。しかし、それはそれとして、ナショナリズムの眼鏡ですべてを見てしまうことの弊害は、たしかに存在しています。
未来は過去に縛られません。縛られるべきではありません。ただ、過去があっての未来です。過去を活かしてこそ、未来は開かれると思います。そして現在にできることは、過去を選択し、選択した過去を活かして未来へのプロジェクトを立ち上げること、さまざまな人と一緒に仕事をすることなのではないでしょうか。
ところで、わたしの専門はドイツと日本、多少の東欧が正直なところです。今回、あえて専門ではない事例にも踏み込みましたが、冒険的すぎたかもしれません。しかし、どうしても紹介したい本がたくさんあって、あちこちに踏み込みました。本書では引用文献として、一二〇冊ほどを挙げています。
最近、教養教育の再建が大学の課題であるとよく言われます。ただ、わたしが思うのは、しっかりした新書と選書を一〇〇冊読めば、それだけで十分、教養が身に付くのではないか、ということです。ここで紹介した中には専門書も多く入っていますが、ご一読をおすすめします。ナショナリズムについての教養を高めることが、本当に、今の東アジアには必要です。