もしアインシュタインが現在も生きていたとして、講義で彼が数式を黒板の端から端まで細かい字でびっしりと一心不乱に書き切ったときの、その数式の内容もさることながら、黒板を占める数式の構成美に思わず“Vollkommenheit!”と言ってしまうような感じ-
-この本の口絵としてカラー印刷された田中一村(たなか・いっそん)の数枚の絵のもつ、まるでピカソのゲルニカのモチーフを奄美の自然に移し替えたかのような多感さと多弁さから成る完璧な構成美を私はこう例えたい。
そして、このような絵を描き、残した人物はどのような人生を送ったのか-
-画壇でも名を知られず、その完璧主義によって絵画も少ししか残していない一村の生涯が、この本では南日本新聞社の中野惇夫氏によって詳細に紡ぎ出されている。もとは新聞の連載記事だったので丹念な取材が裏付けになっていることが理由の一つ。それと、一村が数少ない知人にあてた手紙の文章のなかで、自分自身の身辺や絵に対する率直な思いなどを縷々と綴らずにはいられない性格であり、手紙を受け取った知人たちが、彼の人生観を切り取ったかのような熱量の大きい手紙の多くを保管していたことも大きい。
一村の生涯を一言で表すのは難しいし、不器用とか隠れた天才とか市井のありふれた言葉で言い表すのもはばかられるほど、絵に対する苛烈さはまるで火花が飛んでくるかのよう。
この生き方を何に例えたらいいのかと悩んでいたら、ある日偶然に美輪明宏さんのラジオ番組でまさにぴったりな歌が耳に入った。シャンソンの原曲に美輪さんが「人生の大根役者」というタイトルと歌詞をつけて、こう歌われる(要約しています。実物の歌詞はもっと素晴らしいです)。-
ある一人の役者のモノローグとして歌は進行する――
おせじは言わない、頭も下げない、うそもつけない。
正直に生きたいから世渡り下手で器用になれない。だから暮らしは貧しい。
だけど、もし自分にスポットライトを当ててくれれば、天才の仕事を舞台でお見せできる。自分の才能を光り輝かせてお見せできる。
でも本物の天才は恵まれていないのが世の常。
小手先の策を弄して上手くやっている偽物だけが世の中でもてはやされている。
だが自分は違う。自分をいつわって世に出るのはまっぴら。
そう、自分は人生の大根役者。たとえ飢えて死んでも心は売らない。
泥にまみれても輝き放つ天才の意気地をいつでも見せられる、そう、自分は人生の大根役者さ。-
美輪さんのこの歌にシンパシーを感じたのならば、一村の生涯についての描写から飛び散る火花にも火傷することなく、逆に自分の意に沿わない妥協的で安易な生き方を百万光年の彼方へ蹴り飛ばすモチベーションとできるに違いない。
また、孤独を自分で選んだにもかかわらず、それに負けそうになっている人にとっても、一村という人生の先輩が一身を賭して貫いた生涯から、まだまだ多くの事を学べるはずだ。