著者の専門は文化人類学なので、レヴィ=ストロースを中心とした「構造主義」の話しかと思ったら、レヴィ=ストロースは最初の方で少し出てきたら、あとは結構、フーコーの話しが続く。そして、バルト、ラカンの話しを経由して、レヴィ=ストロースに戻ってくる。
非政治的で、静的にみえるレヴィ=ストロースとは、かな
...続きを読むり違うものにみえるフーコーの権力論なのだが、実は、かなりの共通点をもっているんだな〜。
というか、お互いを必要としあう対称的な存在。つまり、構造主義的な構造にこの2人はあるというわけ。
フーコーは、ポスト構造主義と位置付けられることもあるけど、構造主義としての側面もしっかりあるんだよね。というか、ポスト構造主義と呼ばれるものも、構造主義とかなり連続したもので、構造主義を単純に否定的に批判することはできないと思う。
前から思ってたのだけど、その辺のところが、すっきりと、そしてとてもスリリングに論じられていて、面白かったな〜。
個人的には、今、「関係性のなかの自己」みたいな概念を深めようとしているところで、いくつかの疑問点、たとえば身体とか、うちなる他者、複数性、言語みたいなのについて、手がかりがもらえた。
レヴィ=ストロース的な言い方だと「人を喰らう社会」と「人を吐き出す社会」があるということになる。レヴィ=ストロースもフーコーもともに「人を吐き出す社会」への批判として、「人を喰らう社会」というオルタナティヴをレヴィ=ストロースは「未開社会」に、フーコーは、西欧の古典主義社会だとか、キリスト教以前の社会とかに見出す可能性を探っていたということかな?
そうか〜、こうなるといよいよ「神話論理」に挑戦する日がやってきたということかな?