福沢は一生を通じて一つのことしか考えなかった。日本の独立!彼は、そのために西洋崇拝者のそしりを受けて身辺に危険をもっていた。それでも彼はそういう危険を冒して西洋の文明を吸収することにつとめた。これをもって彼は愛国の方法としたのである。
何か議論を始めて、ひどく相手の者が躍起となってくれば、こちらはスラリと流してしまう。「あのばかは何をいっているのだ」とこう思って、とんと深く立入るということはけっしてやらなかった。ソレでモウ自分の一身はどこに行ってもどんな辛苦もいとわぬ、ただこの中津にいないでどうかして出て行きたいものだと、ひとりそればかり祈っていたところが、とうとう長崎に行くことができました。
その時には昼は写本を休み、夜になればそっと写し物を持ち出して、朝、城門のあくまで写して、一目も眠らないのは毎度のことだが、またこのとおり勉強しても、人間世界は壁に耳あり目もあり、すでに人に悟られて今に原書を返せとかなんとかいって来はしないだろうか、いよいよ露顕すればただ原書を返したばかりではすまぬ、御家老様のけんまくでなかなかむずかしくなるだろうと思えば、その心配はたまらない。
これまで倉屋敷に一年ばかりいたがついぞ枕をしたことがない、というのは時は何時でもかまわぬ、ほとんど昼夜の区別はない、日が暮れたからといって寝ようとも思わずしきりに書を読んでいる。読書にくたびれ眠くなってくれば、机の上に突っ伏して眠るか、あるいは床の間の床側を枕にして眠るか、ついぞほんとうに蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどということはただの一度もしたことがない。その時に初めて自分で気がついて「なるほど枕はないはずだ、これまで枕をして寝たことがなかったから」と初めて気がつきました。これでもたいてい趣がわかりましょう。これは私ひとりがべつだんに勉強生でもなんでもない。同窓生はたいていみなそんなもので、およそ勉強ということについてはじつにこの上はしようはないというほどに勉強していました。
けれども緒方の書生は原書の写本に慣れて妙を得ているから、ひとりが原書を読むとひとりはこれを耳に聞いて写すことができる。そこでひとりは読む、ひとりは写すとして、写す者が少し疲れて筆が鈍ってくるとただちにほかの者が交代して、その疲れたものは朝でも昼でもじきに寝るとこういうしくみにして、昼夜の別なく、飯を食う間も煙草をのむ間も休まず、ちょっとのひまなしに、およそ二夜三日の間に、エレキトルのところは申すにおよばず、図も写して読み合せまでできてしまって、紙数はおよそ百五、六十枚もあったと思う。
今まで数年の間死にもの狂いになってオランダの書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今はなんにもならない、商売人の看板を見ても読むことができない、さりとはまことにつまらぬことをしたわいと、じつに落胆してしまった。けれどもけっして落胆しておられる場合でない。あすこに行われている言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。
すでに心に決定しておれば、藩にいて功名心というものはさらにない、立身出世して高い身分になって錦を故郷に着て人を驚かすというような野心は少しもないのみか、私にはその錦がかえって恥ずかしくて着ることができない。グズグズいえばただこの藩から出てしまうだけのことだというのが若い時からの考えで、人のこそいわぬ、私の心では眼中藩なしとこう安心をきめていましたので、それから長崎に行き大坂に出て修行しているそのうちに、藩の御用で江戸に呼ばれて藩中の子弟を教うるということをしていながらも、藩の政庁に対してはまことに淡泊で、長い歳月の間ただの一度も建白なんということをしたことはない。
厚かましく深切を尽くして、厚かましく泣きつくということは、自分の性質においてできない。これで悪いというならば追い出すよりほかにしかたはあるまい。追い出せば謹んで命を奉じて出て行くだけの話だ。
これを要するにどうしても青雲の雲の上には向きの悪い男であるから、維新前後にもひとり別物になっていたことと、自分で自分のことを推察します。ソレはソレとして、
すべてこういう塩梅式で、私の流儀は仕事をするにも、朋友に交わるにも最初から捨身になってとりかかり、たとい失敗しても苦しからずと、浮世のことを軽く見ると同時に一身の独立を重んじ、人間万事、停滞せぬようにと心の養生をして参れば、世を渡るにさまでの困難もなく、安危に今日まで消光してきました。