田中圭一×すがやみつる先生インタビュー
手塚治虫タッチのパロディーマンガ『神罰』がヒット。著名作家の絵柄を真似た下ネタギャグを得意とする。また、デビュー当時からサラリーマンを兼業する「二足のわらじ漫画家」としても有名。現在は京都精華大学 マンガ学部 マンガ学科 ギャグマンガコースで専任准教授を務めながら、株式会社BookLiveにも勤務。
インタビューインデックス
- 松本零士先生の零戦に魅せられ…マンガとメカに没頭した青春時代
- ドラマに次ぐドラマ! オリジナルデビューまでの道のり
- 40℃の熱に浮かされながら、何度も描いた“一コマ”
- 『ゲームセンターあらし』でホビーマンガは始まった
- 企画書を持って出版社を巡る「先駆者・すがやみつる」
松本零士先生の零戦に魅せられ…マンガとメカに没頭した青春時代
――すがや先生とは、本日のインタビュー場所である京都精華大学で、教員としてご一緒させていただいています。すがや先生といえば「朝から晩まで、いつも忙しく働いてる」というイメージがあるんですが。
そうですね。朝6〜7時くらいに起きたら、自分の部屋でひと仕事してから朝食を食べに起きてくるような感じですね。ちょっと前に体を壊しちゃったりもしたから、少し控えようと思ってるんですけどね(笑)。
――すがや先生は、お仕事を楽しんで生きているみたいなところがあるのかなと、拝見しながら感じています。
普通の人がいう「仕事」って感覚が、あまりないのかもしれないね。
――そんなすがや先生が、“マンガ道”に足を踏み入れるきっかけになったのは、松本零士先生の初期作品だそうですね。
小学生6年生の時にたまたま見た、母親向けの教育雑誌に『燃えろ南十字星(※1)』の1ページが挿入されていたんです。あまりのかっこよさにクラクラきて、その漫画が掲載されていた『日の丸(※2)』を同級生から借りて、夢中で読みました。
――松本先生が描く零戦って、ほかの人とは頭2つ分くらい抜けてレベルが高い感じがしますよね!
本当にそうですよね。この頃は、いろいろな零戦ものがあったんですけど、やっぱり松本先生の零戦が一番リアルだった。リアルなだけじゃなくて、プロペラのスピナー(※3)が大きく描かれていたり、マンガ的にデフォルメがきいているのもかっこいいんですよ。
高校1年生で初めてお会いした時には「零戦の絵を描いてください!」とお願いしたんです。
――広角レンズで見たようなデフォルメがされているんですけど、ちゃんと本物に見えるように描かれていますよね。僕が気になるのは、レシプロ機のプロペラの軌道が二重、三重に描かれているところ。プロペラってブレード(羽根)にひねりが入っているから、手前と奥とで違う軌道を描かれているっていうのは理に適っているんですよね。
すがや先生自身も、零戦の絵をよく描かれていたんですか?
小学校6年生から中学生までの間で、日本軍とアメリカ軍のパイロットが一つの島に一緒に墜落して……というストーリーの漫画を描いていました。1ページラフを描いたら、ペン入れとベタ塗りをして……という手法で、80ページくらいまで描いていたんですけど、「戦争は善か悪か」みたいな問答を始めたところで行き詰まって……未完で終わっちゃいました(笑)。
――ドラマ性のあるテーマですね。当時、戦争や善悪についての話を描きたいという思いがあったんですか?
それよりも、一番の興味はメカニックかな。その頃はマンガを描きながらラジオを作ったり、送信機を作ったりして遊んでいたんです。創成期のマイコンに出会ったのも、アマチュア無線をやって秋葉原に出入りしていたからなんです。基本的に機械が好きなんですよね。
中学生の間は、ほとんどラジオと無線機に夢中だったんですけど、中3の夏休みのある日、おなかを壊して寝込んでいたら、友達が「本屋に石ノ森章太郎の『マンガ家入門』(※4)が出てたぞ」って教えに来てくれたんです。何日もろくに食べていなかったのでふらふらだったんですけど、読みたい一心で母親に500円札を借りて、自転車で本屋さんにすっ飛んでいきました。
8月の炎天下の屋外から店内に入ると、目が慣れなくて室内が真っ暗に見えたこと。そして、急に空気が涼しくなった感覚なんかを今でもはっきりと覚えているんですよ。箱に入ったハードカバーの本がセロファンで包まれて、という豪華本仕様だったこともよく覚えています。
――『マンガ家入門』は名作ですよね。この本をきっかけにマンガ道に入った人はたくさんいると思います。
この本に、漫画家には「少々のムリにも耐えられて長持ちする丈夫な体作り」が必要なことが書いてあったので、それを真に受けて、高校時代は水泳部に入ったんです。毎日8000メートルは泳いでましたね。
でも本当は、実家が経済的に苦しかったから、中学校を卒業したらマンガの道へ、と思っていたんです。それで石ノ森章太郎先生に自分のマンガと弟子志願書を送ったんだけど、なしのつぶてで。母親に同意書まで書いてもらっていたのに効果はなくて、結局、親戚の援助を受けて高校に進学することになりました。
そして、その後のマンガ人生に大きく影響を及ぼす出会いがあったのが、高校1年の夏でした。『ボーイズライフ』(※5)という雑誌上で、石ノ森先生が名誉会長を務める『墨汁三滴』(※6)という同人誌の参加者募集記事が掲載されていたんです。
さっそく原稿を送ったんですが、「絵がへたくそ。レタリングがなってない」ってひおあきら(※7)に言われちゃって(笑)。それはボツになったんですが、その年の暮れに「ミュータントプロ(※8)のジュニアグループを作るから、そこでマンガを描いてみないか」という連絡が来たので、原稿を送りました。でも、ちゃんと原稿を送ってきたのが僕含めて2人だけだったみたいで……。それじゃ同人誌にならないってことで、ランクを上げてもらう形で『墨汁三滴』に参加できることになりました。
――『墨汁三滴』って、石ノ森先生が創刊した伝説の肉筆回覧誌(※9)『墨汁一滴』(※10)の後継誌ですよね!
そうです。『墨汁三滴』に掲載する原稿を手渡しに東京へ行ったとき、ひおあきらの紹介で、初めて石ノ森先生のお宅に連れていってもらいました。
――その時に、同意書を書いてもらって原稿を送った話はされたんですか?
しましたよ。そういうのが山ほどあって、天井まで段ボールの山が積み上がっていたそうです。そんな状況ですから、なかなか目を通してもらえないですよね。それだけ、当時の石ノ森先生の人気は絶大だったんです。
――天井まで(笑)。それはすごいですね。その後、高校時代はどのように過ごされたんですか?
大体2ヶ月に1回くらいのペースで東京に行ってました。それで、3年生の夏休みに、江波じょうじ先生(※11)という劇画の先生のところでアシスタントをすることが決まったんです。卒業式前から働き始めていたので、卒業式当日は朝一の新幹線でいったん地元に帰って、式だけ出たらまた東京に戻って、徹夜で背景描いて……。若さですよね(笑)。
ドラマに次ぐドラマ! オリジナルデビューまでの道のり
――高校を卒業して、アシスタント生活を始めてからデビューまで、どういう道のりを辿ってこられたんですか? かなり波瀾万丈だったとお聞きしているのですが……。
江波先生のところで働き始めた時は、連載がいくつもあって忙しかったんですけど、半年ほど経った時、先生の仕事が減って、アシスタントを辞めることになりました。でも行くところがなくて、一緒に働いていた細井雄二(※12)の実家に居候させてもらうことになりました。そこがお菓子屋さんだったので、店の手伝いなんかをしていたんですけど、いつまでも居候をさせてもらうわけにもいかないし……。どうしようかと思っていたところに、知り合いの漫画家さんから声がかかったんです。
――それはマンガのアシスタントの求人だったんですか?
いや、それが違うんですよ。「鈴木プロ」という、日本で最初のマンガ専門の編集プロダクションができるから、そこで編集者として働かないか、という話でした。そこは『少年キング』や『COM』の名物編集者として知られていた鈴木清澄さんが設立した会社で、マンガブームの波に押されて随分忙しかったんですよ。
写植貼りから始めて、漫画家さんのマネジメントや、『サイボーグ009』、『天才バカボン』、『あしたのジョー』なんかの豪華本の制作をしていました。伝説的な作品の生原稿を入稿したのを、今でもよく覚えています。
――漫画家で編集者を経験されている方は珍しいですよね。
そうかもしれませんね。でも、原稿を受け取りに行くと、いろんな先生の仕事現場が見られたりして、勉強になることも多かったですよ。
ジョージ秋山さんの原稿をもらいに行った時なんかは、社長が秋山さんに「今から原稿取りに行くやつがマンガ描けるんで、使ってやってください」なんて伝えていたみたいで、現場につくとベタ塗りを手伝わされたこともありました(笑)。
そのときの秋山先生の原稿の描き方がすごいんです。「俺はこっちからペン入れしていくから、お前は反対側からベタ塗ってけ」って、1枚の原稿のペン入れとベタ塗りを同時に進めていきました。
――信じられないくらいマジカルな描き方ですね(笑)。その後、どのくらい編集の仕事を続けていたんですか?
1年弱くらいですね。『COM』で文字原稿を書いたらすごく褒められて、どんどん文字原稿とか記事を書く仕事が増えてきて、社長も「君は漫画家より編集のセンスがある! 漫画家を辞めて、編集の仕事に骨を埋めた方がいい」なんて言うようになったんです。それで、なんだか反骨心がムクムクと湧いてきて(笑)。「漫画家やりたいから編集辞めます」と、辞めることにしたんです。
――あくまで目標は漫画家だったわけですね。では、編プロを辞めた後は?
ジョージ秋山先生の現場をはじめ、渡り鳥のようにいろんなところでアシスタントをやっていましたね。当時は10代でデビューするのが当たり前だったので、デビューできないまま20歳を過ぎた時は、もうダメかと思いました。でも、その後に石森プロに入って、デビューのきっかけをつかむことができたんです。
――石森プロにはアシスタントとして入られたんですか?
石森プロではアシスタントはやっていなくて、ハンカチなどのマーチャンダイジング商品の絵を描く仕事をしていました。でも、『テレビマガジン』(※13)創刊時に『仮面ライダー』の作画担当者のオーディションみたいなものがあって、他のスタッフが仮面ライダーの絵を2、3枚持ってきたところ、僕だけスケッチブック一冊分描いていたんです。それで、「絵は一番下手だけどやる気があるから」と、選んでもらうことができました。コミカライズですが、21歳の時に商業誌デビューを果たしました。
――熱意でデビューを勝ち取る、少年マンガ的なエピソードですね。
でも、その後が大変だったんです。『冒険王』で連載する『新・仮面ライダー』の1回目のゲラを描いたら、編集長の壁村さん(※14)が、石ノ森先生もいる打ち合わせの場で、「こんなヘボ使えない!」って、ゲラを机にバーンと叩きつけて。
――厳しい洗礼ですね。
その場は石ノ森先生が「長い目で見てくれ」と、取りなしてくれました。その後、クレジットが「原作:石森章太郎 漫画:石森プロ」だったのが、「原作:石森章太郎 漫画:すがやみつる(石森プロ)」に変わったんですね。石ノ森先生は「クレジットに『すがやみつる』って名前入れないと、俺がヘボな漫画描いてると思われるからな」なんて冗談を仰っていたんですが、実際のところは「名前を出してやった方が自覚も出る」と考えてくださった上でのクレジット変更だったと、あとでマネージャーから教えてもらいました。
――そうして世に名前が出るようになったんですね。オリジナル作品でのデビューは『ゲームセンターあらし』だったんですか?
いえ、オリジナルデビューは『オレはタカの子』という、高所恐怖症の鳶職人の父親とその子供の話でした。
――どういう経緯でオリジナルデビューをされたんですか?
ある時、旺文社の『中一時代』の増刊号で、石ノ森先生の原稿がどうしても間に合わないという事態が起こったんですね。それで旺文社の編集さんと石森プロのマネージャーが「どうしてくれるんだ! 若いのでいいから代理を立てろ!」「いや、若いのと言われましても……」なんて感じで、電話で侃々諤々やってたから、ソローっと手を挙げてみたんです。すると「すがやっていう若いのがいるんですけどね」という話になっちゃって(笑)。
――すごいドラマですね(笑)!
すぐに来いと言われて、石森プロの近くの喫茶店で編集さんと打ち合わせをすることになりました。最初はうさん臭そうに僕を見て「描きたい漫画あるの?」と言われたので、ストックしていたネタの中から『オレはタカの子』の話をしたら、「高所恐怖症の鳶職人」という設定に食いついてくれて、その場で掲載が決まりました。
当時、冒険小説のストーリーなんかをネタにして、アイデアをノートに書きためていたんです。地道な蓄積が実を結んだ瞬間でしたね。
急に決まったので、休みをもらって3~4日で描き上げました。これが僕のオリジナルデビューでした。
40℃の熱に浮かされながら、何度も描いた“一コマ”
――今回、思い出の「一コマ」として挙げていただいたのは、『テレビマガジン版 仮面ライダー』連載1回目の一コマですよね。ぜひエピソードを聞かせてください。
人間を描くのが苦手で苦労しました。ネーム、下絵、ペン入れ、完成原稿の各段階で、何度も石ノ森先生からリテイクが出されて……。18ページの作品を描き上げるのに、3週間もかかったんです。
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