【感想・ネタバレ】インド哲学10講のレビュー

あらすじ

二千年以上にわたり重ねられてきたインドの思想的営みから,私たちは何を学ぶことができるのか.世界のなりたち,存在と認識,物質と精神,業と因果,そして言葉それ自体についての深い思索の軌跡を,具体的なテキスト読解をふまえながら学ぶ.難解と思われがちなインド哲学のおもしろさと広がりをとらえる,刺激的な入門書.

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Posted by ブクログ

昔からインド思想、文学、哲学に興味があって、私には京大に行ける力は無いけど、京大名誉教授のインド哲学講義が1000円で聴けるのが読書の凄い所だと思う。

二千年以上にわたり重ねられてきたインドの思想的営みから,私たちは何を学ぶことができるのか.世界のなりたち,存在と認識,物質と精神,業と因果,そして言葉それ自体についての深い思索の軌跡を,具体的なテキスト読解をふまえながら学ぶ.難解と思われがちなインド哲学のおもしろさと広がりをとらえる,刺激的な入門書.


私の記憶的に岩波新書って800円以上だったんだけど今1000円以上になってるんだけど。

赤松 明彦
(あかまつ あきひこ、1953年1月8日 - )は、インド文学者。京都大学名誉教授。
出生から修学期
1953年、京都府で生まれた。高槻高等学校を経て、京都大学文学部哲学科に入学。哲学科インド哲学史専攻で梶山雄一の下で学んだ。1976年に卒業し、同大学大学院文学研究科に進んだ。修士課程修了し、パリ第3大学に留学。1983年にパリ第3大学インド学第三期博士課程を修了し、文学博士号を取得[1]。
古典文学・哲学者として
1983年に帰国し、京都大学人文科学研究所助手となった。1987年より九州大学助教授。1997年に教授昇格。2001年、母校の京都大学大学院文学研究科教授となった。2010年10月から2014年09月まで、京都大学理事・副学長を務めた。2018年に京都大学を定年退職し、名誉教授となった。その後は、2018年4月より2023年3月まで京都大学白眉センター・センター長として若手研究者の育成に貢献した。





「とはいえ、この本は、「インド哲学」の本である。つまり、「インドの哲学」についての本である。「インドの」という限定がついてはいても、「哲学」の本である。「哲学」が、人間の考えたこと、考えてきたことを意味するのならば、それはインド人であろうと、西洋人であろうと、中国人であろうと、日本人であろうと、人間であることに違いはないのだから、考えることにも違いがあることはないだろう。だから、わざわざ「インドの」と限定する必要はないのではないか。  しかしそれでも、ここで語るべきは「インドの哲学」だというのであれば、インド人に固有の考え方と思われるものを特に取りだして、それをことさら論じるということになるだろう。つまり、インド以外の地域や文化に属する人々の考え方との「違い」に注目して、特にそれらを取りだすわけである。しかし、「違い」を知るためには、共通点についても知らなければならないだろう。なぜなら、両方の考え方が全く違っていて共通点がないならば、一方が他方を理解することは、おそらく不可能だからである。  ところで、私は日本人である。日本人である私が、インド人の考えたこと、考えてきたことについて自分の頭で考えて語ってみるというのが、この本の肝心かなめだけれども、インド人ではない私が、果たしてインド人の考えたことを理解できるのだろうか。それは不可能ではないか。」

—『インド哲学10講 (岩波新書)』赤松 明彦著

「この一文の解釈も難しくて、「ちょうど土のかたまりが、多様なあり方をしていながら、ひとつのものとして見られるのと同様に、全世界は、多様でありながら、ひとつの知的なものとして見られる」という風に読むこともできるのだが、先に見たウッダーラカの教示との関連からすれば、前者の解釈の方がよいだろう。  そして、ここに言われている「知的なもの」とは、プルシャを指している。この一文が語っているのは、根源的一者であるプルシャ、すなわちブラフマン =アートマンだけが、唯一の実在であり、それが一個の全体としての世界でありながら、現象界に多様な姿で現れているということである。」

—『インド哲学10講 (岩波新書)』赤松 明彦著

「時間がわれわれを束縛している。人は時間に追われて生きている。現代に生きるわれわれも、時が、運命のように、人間を支配しているのではないかと思うことがあるだろう。しかし、古代のインド人たちが時に対して抱いた感情は、もっと具体的で、実感的で、圧倒的であったようだ。時(カーラ)説の主張を示すものとして、次の詩節が数多くのテキストに引用されている。時は生きとし生けるものたちすべてを成熟させる。時は生まれたものたちを再び死へと追いやる。時は人々が眠っている間も目覚めていて、監視している。実に時は超えがたいものである。 (『マハーバーラタ』ボンベイ版一一・二・二四)  この詩節は、『マハーバーラタ』の標準テキストであるプーナ版では、本文には採られていないのだが、ボンベイ版などの古い刊本では入っている。サンスクリット文法の注釈書であるパタンジャリ(前二世紀頃)の『大注解書(マハーバーシュヤ)』にも、この詩の前半部分と同じ詩節がある。また、サーンキヤ派の『サーンキヤ頌』(五世紀頃)に対するガウダパーダ(七世紀)の注釈や、仏教の空の思想家龍樹の『中論頌』に対するチャンドラキールティ(七世紀)の注釈『明らかなことば』のなかにも、引用されている。後二者の場合には、ともに哲学的に時間を論じる箇所での引用であり、批判の対象とされるものだが、彼らが時間というものについて語ろうとする場合に、「時」の観念として、すぐに思い浮かぶものであったのだろう。」

—『インド哲学10講 (岩波新書)』赤松 明彦著

「したがって、名著『インド哲学史』を書いたオーストリアのインド哲学者フラウヴァルナーがかつて指摘したように、インドの自然哲学を代表するヴァイシェーシカ派が、哲学的に「時間」を論じるようになったときには、この世界原因としての「時」が、そこで論じられることはもはやなかったのである。」

—『インド哲学10講 (岩波新書)』赤松 明彦著

「それぞれの実体についての説明的な部分を省略して、筋道だけを追うと右のようになる。『サーンキヤ頌』は、サーンキヤ派の現存する聖典としては最古のものであるが、イーシュヴァラクリシュナというこの派の哲学者によってこれが著されたのは、五世紀のことであった。  サーンキヤ思想の成立自体はもっと古く、後にふれるヨーガ思想とともに、大叙事詩『マハーバーラタ』のなかにもサーンキヤ的な様々な主張を見ることができ、この派に属する初期の思想家の名前もいくつか伝わってはいる。しかし、彼らの著作はすべて散逸して断片が伝えられているだけである。  イーシュヴァラクリシュナがこの書を著した五世紀ともなれば、他の学派の根本経典はすでに完成して流通していた時期である。また、自派の主張もすでに十分に体系化されていたであろう。そのような状況のなかで、彼は、他派の考え方にも十分配慮しながらこの綱要書を書いたと思われ、哲学的にも完成度が高い。それゆえこの書に対する注釈書も多く残されている。ここではそれらの注釈書にも拠りながら、まずは右の文章に示されたサーンキヤ派の考え方を説明することにしよう。」

—『インド哲学10講 (岩波新書)』赤松 明彦著

「前回の講義で見たように、ジャイナ教の聖典『スーヤガダンガ』にも、プルシャを「知的なもの」とする主張が見られたが、サーンキヤの思想において「知る者」とされるプルシャは、完全に神話的な形象を脱して、われわれ人間ひとりひとりの個我、アートマン(自己)とされている。『サーンキヤ頌』に従ってその特徴を見て行くと、それは「多数」である。それは「属性をもたず、見るだけの者であり、独存し、中立であり、観察者であり、何もしない者」である、ということになる。  しかし、プルシャ(自己)は「何もしない者」であると言うが、われわれは日常的に活動をし、その主体となっているのではないだろうか。『サーンキヤ頌』はこうしたごく当然の疑問に対し、それは、「[物質を構成する]三要素(グナ)が、実際の活動の主体であるのに、活動に無関心なプルシャが活動の主体であるかのよう」に見えているにすぎないと言うのである。  プルシャが精神的なものである限り、それが物質的な原因として物を生み出すという活動はできないはずであると、サーンキヤの思想家は考えたのである。そこでプルシャに代わって根本原因の位置を占めることになったのが、物質的根本原因としてのプラクリティであった。」

—『インド哲学10講 (岩波新書)』赤松 明彦著

「道元は、『正法眼蔵』で、仏性について様々な観点から論じている。彼は、ときに「仏性あり」と言い、またときに「仏性なし」と言う。たとえば、「仏性はないと語り、仏性はないと聞く。それがそのまま仏となる道だと知られるのである。したがって、まさに仏性のないそのときこそが、そのまま仏となるときである。「仏性はない」と聞かず、また「仏性はない」と語らないときには、まだ仏にはなれないのである。」(『正法眼蔵』「仏性」。原文は難解であるので、増谷文雄の訳に拠りつつ、さらにそれをわかりやすく筆者が言い換えた)  ここで言われているのは、「仏になるのは、その者に仏性がないからこそだ」ということで、逆説的ではあるけれども、極めて論理的でもあろう。もし、よく言われるように、すべての生きとし生けるものに仏性がそなわっているならば、仏性があるとはすなわち「仏である」ということであるから、すべての生きものは最初から仏であるのであり、仏になることはない。つまり、「仏になる」とは、そのときには仏性はなく、あるとき仏性がそなわってはじめて、「仏になる」わけである。  しかし、道元は、次のようにも言う。「仏性というものは、どこかからやって来るわけでもない」と。仏の本来的な性質であるはずの仏性が、何かの拍子にその者にそなわるということもないということである。」

—『インド哲学10講 (岩波新書)』赤松 明彦著

「神の存在論証のはじまり  ちょうどその頃に作られた、ニヤーヤ派の『正理経』にも、イーシュヴァラについての議論の跡が残されているので、それを見ていくことにしよう(以下の議論では、イーシュヴァラを指して「神」と言うことにする)。(主張)神が原因である。人間の行為には、結果を生じないことがあることが経験されるから。(反論)そうではない。[人間の行為が原因である。]人間の行為がなければ、結果は生じないから。(立論)[人間が行為の結果を得るのは、]それ(神)によって、そう行為させられたものであるから、[反論の理由は、]正しい理由ではない。[したがって、われわれの最初の主張が正しい主張である。ゆえに、神が原因である。] (『正理経』四・一・一九─二一)  努力したのに、結果が実を結ばないのは、いったい誰のせいなのか。自分のせいか、誰かが邪魔をしたからか。邪魔をしたのは、神か人間か。あるいは、とても困難な仕事であったのに、ようやく完成に近づいた。うまくいったのは誰のおかげか。自分が頑張ったからか、誰かが助けてくれたからか。助けてくれたのは、神か人間か。右の『正理経』の議論の背景には、このような疑問があった。  『正理経』では続いて、「無原因から、ものは生じる」(四・一・二二)という説が提示されている。第 3講ですでに見た無因説である。これも併せて考えれば、ここには、イーシュヴァラ説、業(カルマ)(自分の行為の結果は自分が受けとる)説、そして無因説(決定論)が、並んでいることになる。そして、そのうえでここではイーシュヴァラ説を支持する立証がなされているのである。」

—『インド哲学10講 (岩波新書)』赤松 明彦著

「一番目の詩節をみなさんは覚えているだろうか。そう、第 3講で見た、神の横暴に苦しむドラウパディーの嘆きの言葉である。そこでは、この詩節は、気まぐれな神の仕業を非難する言葉であったはずである。その言葉を、ウッディヨータカラは、神がすべての動力因であることを語る言葉として引用しているのである。  つまり、ここで見てきた『正理経』に基づくニヤーヤ派の立場からすれば、この詩節は、神の横暴を嘆く言葉ではなく、神が人間の行為を考慮して、公平正当な結果を配分する絶対的な力をもつものであることを言う聖典の言葉として示されているのである。  ドラウパディーは、圧倒的な神の力を嘆いた。一方、「神力も業力に勝たず」とは、業の力の前では神の力も及ばないことを言うものであった。そしていま、われわれは、神の力が業の力に介入し、それを制御するようにはたらく姿を見ているのである。  もともと創造神の存在とも業の理法とも関係のない、自然学のヴァイシェーシカ派や論理学のニヤーヤ派の思想のうちに、神が登場して来た理由は、おそらくここにあるのである。先にふれたように、業のはたらきを「不可見力」として体系内にとり入れなければならなかった彼らは、「神の力」を、それと対抗する力として取り込んだのであった。」

—『インド哲学10講 (岩波新書)』赤松 明彦著

「また,ドイツ語ですが,インド哲学史の名著として定評があるのが,ウィーン大学の教授であったフラウヴァルナーの次のものです. Erich Frauwallner, Geschichte der indischen Philosophie( 2巻本,ザルツブルク, 1953・ 1956年).  「正しい生き方」(ダルマ)については,次のものがあります.渡瀬信之訳『サンスクリット原典全訳マヌ法典』(中公文庫, 1991年.平凡社東洋文庫, 2013年).あるいは,田辺繁子訳『マヌの法典』(岩波文庫, 1953年).また,渡瀬信之『マヌ法典──ヒンドゥー教世界の原型』(中公新書, 1990年)が参考になります.」

—『インド哲学10講 (岩波新書)』赤松 明彦著

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2026年06月28日

Posted by ブクログ

インド哲学という広範な領域を扱いながらも,認識論や因果論など思想の核となるテーマの面白さがよくわかる本である。

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2026年02月03日

Posted by ブクログ

これは面白い。これまでインド哲学=仏教思想程度の認識しかなかったが、実のところその実態はもっと広大なもので、仏教は寧ろ異端の扱いであることがわかった。
この世界や様々な物体は何からどうやってできたのか(生成と存在)、人の運命は何によって決まるのか(因果と業)、が本書で扱われている主なテーマだが、これだけでも古代インド人の思考スケールの大きさに驚く。
運命に関することは現代でも答えがないが、世界の成り立ちや物質世界の構造は2000年の時を経て科学があらかた解明してしまった。それらを知っている我々から見るとブラフマンによる創世とか前世の業など『たわごと』の類にしか見えないが、当時としては最新の科学だったのだろう。
あとがきで著者自身が自賛している通り、テーマを絞った上で重層的に物事を解説するスタイルも成功していると思う。また、哲学書は往々にして「上から目線」で語られることが多いが、躓きやすい部分で「この説は奇妙だ」と読者目線に降りてきてくれるので大変理解しやすい。「そうそう、そこが奇妙だと思ったのよ」ど同意するとこが多かった。良書。

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2022年07月31日

Posted by ブクログ

インド哲学の講義を大学時代履修していたが、あまり分からなかったことを思い出しつつ読んだ。決して難解に書かれてはいないのだが、やはり基礎的な世界観を把握するのに時間がかかり、本を読み通すのもダラダラしてしまったが、後半やっと、インド哲学で議論になっていることが見えてきたような気がする。果たして入門書に相応しいのかというと分からないが、これ以上に平易にすると却って不適当になるのだろう。

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2025年03月27日

Posted by ブクログ

 同じ哲学でも、ギリシア哲学とインド哲学では、後者の方が圧倒的に触れる世界が少ない。本書では、インド哲学の主要な考えを10の講義に分けている。1つ1つの講義は短いページで終わるので、コツコツ読み進めることができた。

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2020年05月25日

Posted by ブクログ

著者も述べているように、インド哲学の概説書ではない。存在に対して考察している。アプローチが比較的慣れている西洋的なものとかなり違っていて、なかなか難解である。人の名前すら戸惑ってしまう。後半になってようやく仏教との接点が出てくるとすこしわかりやすくなる。何度も行きつ戻りつ読んではみたが、十分理解できたとはいいがたい。概説的なものを読んで、全体像をつかんだうえで、再度挑戦してみたい。評価は暫定的なもの。

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2018年12月08日

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