あらすじ
「成熟」するとは、喪失感の空洞のなかに湧いて来るこの「悪」をひきうけることである(本文より)――「海辺の光景」「抱擁家族」「沈黙」「星と月は天の穴」「夕べの雲」など、戦後日本の小説をとおし、母と子のかかわりを分析。母子密着の日本型文化の中では、「母」の崩壊なしに「成熟」はありえない、と論じ、真の近代思想と日本社会の近代化の実相のずれを指摘した、先駆的評論。
...続きを読む感情タグBEST3
Posted by ブクログ
「海辺の光景」と「抱擁家族」について自分がよみきれなかったところをこの本が肉付けしてくれた。
「星と月は天の穴」についてをいちばん興味深く読んだとおもう。この小説が小説家界隈のための小説だというのは興味深かった。「濹東綺譚」を対比として出しているのが自分にとってわかりやすかった。
なにより「夕べの雲」については、今まで先生の読み方で読んでいたため、「静物」と同様に家庭内の不安を描くという観点で読み解かれている文章に触れることができてとても学んだ。
Posted by ブクログ
1967年に発表された、戦後評論における屈指の名著と言っても差し支えのない一冊。エリクソン『幼年期と社会』で語られている米国の母子関係というものを日本のそれと対峙させ、日本の戦後文学で家族というものがどの様に描かれているかを分析することで、その社会構造が持つ問題点を炙り出す。
本書では、日本の家族というものが農耕的・定住的な土壌による母子関係にあるものだと捉え、キリスト教のような絶対神というものが不在な故に父というものの象徴は欠けてきたのだと説く。そして、敗戦という経験が完全なる西欧化=母性の世界の崩壊をもたらしたにも関わらず、父というものは「恥ずかしいもの」として象徴されたままであり、人工的な環境だけが日に日に拡大していった結果、家族というものから様々な問題が生じてきていると喝破する。
僕らは戦後日本の歴史というものについてほとんど知らない。それは幾つもの断絶を抱えたまま、放棄されている。そんな中で、戦後という枠組で一つ言える事があるとすれば、それは絶えず「家族」というものが問題を抱え続けたままでいるという事だろう。そう、一人の人が同時に父であること、夫であること、男である事というのは等号が成り立つけれども、母である事、妻であること、女であることというものには決して等号は成り立たない。そして、この不均衡な構造こそが、今も多くの問題を生み出している。そう、決して等号が成り立たないものを相手に求めようとするのは、やっぱり無理なんだよ。
著者は本書で述べる。成熟するというのはなにかを獲得するのではなく、喪失を確認することであり、その空洞のなかに沸いてくる「悪」を引き受ける事であると。僕らはこのような問題を乗り越えて、成熟に辿り着くべきだろうか。それとも、その成熟が西欧的価値観である事を考え、成熟するのではなく別の道を考えるべきだろうか。いずれにせよ、戦後論から現代の家族論、果てはオタク論にまで射程を捉えた、読まれるべき一冊。
Posted by ブクログ
自分が感じている不安を説明されたようだった。
日本とアメリカの「母性」の違いの考察も途中でなされていて、欧米のジェンダー学と日本のジェンダー学が食い違ってしまうことに通じる気がします。
上野千鶴子氏の解説つきで、文芸の知と社会学の知のうれしいコラボレーション。
またあとでつづきかきます。
Posted by ブクログ
江藤淳氏が、第3の新人について、「母」と「息子」という観点から論じている。
普段あまり読むことのないジャンルだったこともあり、非常に難解に感じた。母や父を、文字通りに捉えるのではなく、自然や近代化などの事象の比喩として捉えないといけない。
Posted by ブクログ
「成熟」するとは、喪失感の空洞の中に湧いてくる「悪」をひきうけることである(本文より) "母の崩壊"と"父の不在"というイメージはかつては文学上の虚構に過ぎなかったが、現代ではもはや完全に現実のものとなった。観念的に”母”を捨て、他人になること。その悪の意識を抱えたまま前進することこそが、成熟した人間として生きるという事である。
Posted by ブクログ
第三の新人の小説を論じ、西洋(父性原理)に直面した日本(母性原理)が「成熟」(母子密着関係の「喪失」)を「急速に」強いられた結果、とり返しのつかない「母の崩壊」を招いた、と指摘する長篇評論
Posted by ブクログ
「成熟と喪失」、この近代化と敗戦が日本人にもたらした家族観・価値観の転換を先駆的に描いた傑作においては「他者」そして「自由」論を前提として議論が進められていることを以下に示したい。
まず、次のような一文がある。
「母が「教育」と規律という「公式」の期待を強調すると、彼はそのかげで安心して女との関係のなかに際限のない「自由」を味わえる。」
これが表しているのは、「何からの自由」である。つまり、母の束縛が存在するからこそ、彼は自由という素晴らしい感覚を味わうことができているということができる。
また、次のような一文がある。
「「成熟」するとは、喪失感の空洞のなかに湧いて来るこの「悪」をひきうけることである。実はそこにしか母に拒まれ、母の崩壊を体験したものが「自由」を回復する道はない。」
子供が大人になること、成熟すること、それは自身を守ってくれていた母を喪失し、1人立つことであるが、別の言い方をすれば、自身を束縛していた母を喪失し、「何からの自由」の「何か」を失い、一旦は「不自由」になりつつも、母に拒まれ、或いは母を拒んだ自身に対して「罪悪感」という新たな束縛を与えることで、再度「自由」になるということである。
つまり、「成熟すること」=「再度自由になること」というのが本書の著者江藤淳の主張である。
江藤は本書で批評対象として小島信夫「抱擁家族」を引用しているが、江藤は抱擁家族の主人公、俊介が妻に母としての役割を求めようとするのを「血縁以外のものを血縁に同化させようとする衝動」と評し、よって彼の「自由」には「他人」がなく、グロテスクな「自由」と批評する。これも「何かからの自由」という前提の元では自明のことであり、つまり血縁しかないところ、「他者」なきところに「自由」は成立しないのであるし、また、これを求めつづける俊介はいつまでも「母」から卒業できず、「成熟」できていないのである。