【感想・ネタバレ】チッソは私であった 水俣病の思想のレビュー

\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ

間違いなく私の人生を変えたと言える一冊です。
著者の生き方に、ただ圧倒されました。
考え方のスケールが大きいのです。

0
2024年03月13日

Posted by ブクログ

「はじめに」を読んで、あっ、これはあんまりちゃんとした文章を書く力のない人の書いたほんじゃないかな。
読むのよすか…
と思ったが。

文章が粗であることを、大きく上回る思索、悩み苦しみ。胸に迫る迫力で、涙ぐんでしまった。
考えれば考えるほど、ものごとはつながりこんがらがる。
もっと手応えのある思考をしようとすると、結局自分に跳ね返ってくる。
その不器用なまでの誠実さに、心打たれる。
仕組み、組織、社会は狂う。
例外なく。
それらに損なわれつつも、それらから離れられない。
そんな苦しみに真正面から向かい合う姿は、決して他人ごととは思えなかった。

0
2023年10月19日

Posted by ブクログ

水俣病に家族を奪われ自身も水俣病になった作者が、最初は水俣病を引き起こしたチッソや国を相手に責任を強く追及していたが、賠償金で解決することや、相手の対応者が次々に変わっていくことで、誰を相手に戦っているのかわからなくなり、また魂は救済されないと感じ、最後は自分自身も社会のシステムに組み込まれている一部と気づき、自分自身がチッソであったと悟る。この悟りはとても深い考えの行き着いた先に出てきたものだと思うが、このように考え苦しませてしまうのはやはりチッソや国が被害者に対して誠実に謝罪をしなかったことがよくなかったと思う。制度で解決することは公正に課題を処理する上で必要だが、気持ちの面でも納得してもらえるように、責任者が被害者に謝ることも重要だと思った。水俣病は過去のものというイメージがあったが、今も被害者はいるし、忘れてはいけない問題だと思う。

0
2023年09月18日

Posted by ブクログ

被害者でありながらも、もし自分がチッソの立場にいたら、正しく生きられたか?工業社会の中で人の魂はどこにいったのか?公害も戦争も根にあるのはこの仕組みが作り出す人なのではないか?という問いに辿り着いた筆者の人生への壮絶な向き合い方が描かれている。

0
2023年07月01日

Posted by ブクログ

・有名な「ニーバーの祈り」を思い出した。
最初は恨みから闘争にあけくれ、次第に意識変革がおき、自分にできることを見つけて表現していく。

・水俣病による深い人間苦に狂い、「根源」に還っていこうとする著者の想いと行動に強く打たれた。

・水俣の問題を通して、資本主義と自然保全のバランス、ひいては自分のライフスタイルについて考えさせられる。

・苦しみや葛藤を抱えるすべての人にオススメ。

0
2022年03月13日

Posted by ブクログ

ネタバレ

私たちがその埋め立ててきた命の真実ということについて、一番根本をなすところは、私が思うには「人間の罪深さを埋め立ててきてしまったんじゃなかろうか」というところにあります。それは海や山に対する罪深さであり、侵してきたことの、埋め立ててきてしまったことの、海も山も川も汚してきてしまったことの罪深さです。それは私たちの先祖が眠っているはずのところですし、私は浄土がそこを離れてあるとは思えないわけです。
その罪を背負いなおす。

0
2023年11月18日

Posted by ブクログ

〝叩きのめしたい相手というのは化けものだった。ー
つかみようがない。県知事だとか公害部長だとか県議会とか、国会議員とか環境庁の役人たちとか、ニ、三年でポストがコロコロ入れ替わる。
変わらないのはわれわれと弁護士だけ。だけどおれは人間と喧嘩したかったし、人間の詫びがほしかったんだと思う。〟

〝ふと気づいてみたら相手がだれなのかわからなくなってしまっている。〟
〝多くの患者たちが、魂の詫びがほしかったんだと思う。〟

『水俣曼荼羅』を観たこときっかけに読みました。もちろんお金は必要だし大事だけど、そういうことじゃないんだろうと思う。本当に同じ人間とは思えない人たちを緒方さんたちは相手にしていて、それはなにか大きなものがそうさせてしまっているんじゃないかと感じる。大きなものっていうのは日本の政府とか、〝国〟っていうこと。その組織の中にいる人たちは、きっとはじめは志しを持っていたり心のあった人間だったのだろうけれど、どんどん染まっていってしまうのだろう。か…
当事者ではない私は、ひどい話だ、と思うし国や政府に対して怒りを持つ(当事者の方々や支援者の方々とは比べものにならないだろうけれど)。
どうしたらいいのだろうかと考えても、本当にキリがなく、どうしたら被害を受けた人たちが救われるのか…と考える。せめて彼らのことに思いを寄せることしかできない。ちゃんと知れてよかった。

0
2022年01月28日

Posted by ブクログ

水俣病で父を亡くし、また自らも水俣病の認定を申請していた著者が、「チッソは私であった」との境地に至るまで。「チッソは私であった」というのは、水俣病を引き起こしたチッソが近代化の宿痾だとすれば、そのシステムの中で生きている自分もまたチッソではないか、ということだと理解している。近代化のシステムの中で被害者も加害者も一体不可分の運命共同体ではないか、というのは、水俣病の認定闘争の中で被害者と認められるか否かがすべてになってしまった、という運動への幻滅というか、結局救済がシステムの中に押し込められるという矛盾への鋭い指摘なのだと思った。近代の矛盾が臨界点を迎えた水俣でこそ生まれた、そこで生まれからこそ切実さを持つ問題として読んだ。

0
2021年10月02日

Posted by ブクログ

公害の被害者が思考の結果、システムを要因と考え自らも加害者の要素を持っているという思考に至る点に関心を持った。
その過程を見たかったが割とスッと書かれていた。エッセイをまとめたもので重複感もあり、かつ本人の語りべ文体でもありややダレた。

0
2023年11月19日

Posted by ブクログ

著者は、1953年生まれ。熊本県の女島で網元の家に生まれる。20人兄弟の末っ子。
父親は、著者が6歳の時に、劇症性水俣病で、発症してわずか2ケ月で死ぬ。その悶え苦しみ狂うように死んでいった父親が、6歳の身体全身に刻印されている。本人も水俣病患者である。
父親の仇として、チッソを憎み、その闘いの川本輝夫とともに先頭に立つ。
ところが水俣病認定の申請を取り下げ、自らの在り方を問う。もし、自分がチッソの会社の人間だったら、同じようなことをしたかもしれないと思い、生き方を変える。
「私もまたもう一人のチッソだった」と自覚するのである。
そのことで初めて、草の声が聞こえ、魚たちや自然の中にあることを知る。アウシュビッツにも訪問し、もし自分がナチスだったらも問う。「生命の意味」「人間とは何か」「この自分とは何か」「どこから来て、どこへゆくのか」そして生きるとは何かを問う。
水俣病に、狂わされて引き裂かれ、底知れぬ深い人間苦を味わった人生をおくる。そして欲望に囚われた人間によって、豊かな「宝の海」を汚染され、そして人間を初めてとして生類を殺した。
プラスチックで囲まれた生活、テレビなどを破壊し、船もプラスチックでなく木製の船に変える。
人間がお金で評価される社会はおかしいのではないか、国というものの正体も見えない。
ナマの人間としての謝罪が欲しい。チッソは、人を殺し、魚を殺し、海を殺した。チッソの患者は誰も殺していない。その殺すという行為をしていないことが自分の存在なのかもしれない。
8月6日の広島に原爆が落ちた日に水俣から出発して、長崎、下関、広島を通って、東京湾までの1500キロを木製の船でいく。船は、石牟礼道子が名前ををつけた「日月丸」そして、水俣病の展示に参加する。水俣に生まれ、水俣に育ち、そこに生きて、無残にも殺された魂を東京まで運んだ。
魂という言葉は、水俣では重要な意味を持ち、大きくて深く、広い意味を持っている。
水俣病の持つ意味は、生きている意味さえも問うことになり、漁師だからこそ、人間だからこそ、自然の中で、自然の声を聞きながら、本願を持って、生きてゆくことが大切であると思う。
読みながら、なんか自然農法に殉じるような響きがあった。

0
2021年10月21日

「ノンフィクション」ランキング